「子供たちが騒いでいたが……ナターシャさんが倒れたそうだが、大丈夫かね」 それぞれに従者を従えた村長と神父が そう言いながら氷河たちの家に入ってきたのは、すっかり日が暮れた頃。 ナターシャの熱が下がり始め、その呼吸も 少し落ち着く様子を見せ始めた頃だった。 最悪の事態は免れたようだと 緊張を解きつつあった氷河と瞬は、安堵の気持ちが先に立ち、その時 周囲のことに気がまわっていなかったのである。 周囲のこと――ナターシャの寝台の傍らにある小さな卓、その上に置かれた手桶いっぱいの氷。 自分たちは、何よりもまず、それが村長たちの目に触れないようにすべきだったことに、二人は その時 思い至らなかった。 「氷……? 氷なんて、どこから――」 「あ……」 「この真夏に、氷とは……」 二人に時間があれば、精神的に余裕があったなら、何か上手い弁明を思いつき、村長たちを納得させることができていただろうか。 そうであったとしても、実際に 今 氷河と瞬には そんなものはなかったし、二人が何事かを言う前に、神父は その事実を思い出してしまっていただろう。 その事実とは、すなわち、 「まさかとは思っていたが……。私は、5年ほど前、北の村で、雪を降らせ 氷を生み出す魔術を使う魔女が現われ、逃げていったという話を聞いたことがあった……」 ということ。 「5年前? ちょうど二人がこの村に来た頃ではないか。まさか、ナターシャさんと氷河が その魔女だというのか」 村長の声が困惑の響きを帯びていたのは、氷河とナターシャに この村に住む許しを与えたのが彼だったから。そして、その噂を村長の耳に入れずにいた神父に軽い憤りを覚えたから――のようだった。 「魔女だ……」 と震える声で呟いたのは、村長でも神父でもなく、神父に付き従ってきた従僕だった。 その呟きに触発されたように、村長に ついてきた下男が悲鳴じみた金切声をあげる。 「魔女が出たーっ!」 「そんな大声で騒ぐな。魔女狩りは 領主様に禁じられている!」 村長が下男を たしなめたのは、彼が へたに騒ぎを大きくして、村長が その騒ぎの責任を問われる事態を避けたかったからだったろう。 しかし、その下男は 彼が生まれて初めて出会った魔女のせいで 恐慌状態に陥っていた。 「領主様が禁じているのは 魔女裁判だけでしょう。裁判なんか必要ない、証拠がここにあるんだ!」 下男が指し示したのは、もちろん氷河が生んだ氷――魔術で生み出したのでなければ、この季節、この場所に存在するはずのないもの――である。 下男は、魔女の住む家の中になど 1秒たりともいられないと言わんばかりの勢いで、奇声を発しながら、氷河たちの家を飛び出ていった。 おそらく彼は、この家に魔女がいることを、村中に触れまわるだろう。 その段になって、村長は、この村に魔女がいることを隠蔽することは もはや不可能と悟ったらしい。 そして、彼の村が魔女で あふれることになる事態を避けるために、騒ぎを氷河母子だけで収束させようと考え、そのための策を模索し始めたようだった。 「くそっ……!」 逃げなければならない。 5年前 母が自分を連れて北の村から逃げ出したように、村人たちが集団ヒステリーを起こす前に、この村から 今すぐに逃げ出さなければならない――と、氷河は思ったのである。 だが――熱は下がりつつあったが、今のナターシャは 歩くことはおろか、立つことさえできそうにない。 母を連れて逃げるのは 無理な話だった。 しかし、母を残して自分だけが逃げることは、なおさら できないことである。 まさに 進むも退くもできない事態、戦うことも逃げることもできない事態である。 氷河は唇を噛みしめた。 「氷河……」 瞬の不安そうな声。 夕焼けを見て、瞬が 幸せに泣いていたのは つい昨日のことなのに。 あれから 僅か1日しか経っていないというのに、瞬に こんな不安な声を洩らさせることになろうとは――。 家の周囲に村人たちが集まってきている気配がする。 瞬を、自分たち親子の巻き添えにすることはできない――。 進退窮まった氷河が最初に考えたのは、その一事だった。 今 自分にできる建設的なことは、その一事しかない。 「瞬は関係ない……。瞬は、俺たち親子とは無関係だ。瞬は……他人だ」 かすれた声で――ちゃんと村長たちに聞こえるように言えたのかどうか、自分のことなのに、氷河には そんなことも わからなかった。 ただ少なくとも、その声は 瞬の耳には届いたらしい。 氷河の手を握りしめ、そして 離し――瞬は、ナターシャの部屋の扉の前に立っている村長と神父に向かって、 「外に出て……この家の外に出て」 と低い声で告げた――命じた。 「なに……? わしを誰だと――」 「外に出て! 聞こえないの……!」 瞬の険しい声と表情に怖気たように、その気迫に気圧されたように、村長と神父が 家の扉の方に後ずさる。 家の前の庭には、既に20人ほどの村人たちが集まってきていた。 彼等は皆、それぞれの手に 松明や鎌や鋤を握りしめている。 松明の炎が発する光を受けて、不気味な輝きを見せている農具――否、武器――を認め、氷河は 瞬を家の中に引き戻そうとした。 氷河が そうする前に、三人の家の戸口に立った瞬が、村人たちで埋まり始めている庭に 声を響かせる。 「この村の者は皆、愚かだ」 村人たちが見知っている普段の瞬からは想像もできない口調、表情、言葉。 村人たちが 顔を強張らせ、息を呑む。 瞬は、瞬らしからぬ声で 言葉を続けた。 「愚かだ。魔女と人間の区別もつかない。そんなだから、十数年間も 魔女を飼っていることに気付かずにいるんだ」 「それは、ど……どういうことだ」 瞬の足元に尻餅をついている村長、その横に立っている神父が、瞬に問うてくる。 そんな二人を哀れむように、瞬は告げた。 「魔女は僕だよ。あの氷を出したのも僕。僕の隠れ蓑になってくれている人間に死なれてしまうと困るから」 「な……なに?」 驚き 目をみはる神父たちの前で、瞬は その手を前方にのばした。 その手が風を生む。 瞬の作り出した風は、庭の木を揺らし、村人たちの持つ松明の炎を一つ二つ 瞬時に消し去った。 手にしていた松明の炎を消された村人が 悲鳴をあげ、煤けた ただの棒になった松明を、自分の足元に投げ捨てる。 「これが僕が悪魔と契約して手に入れた力の一つ。魔女は僕だよ」 「ほ……本物……?」 「紛い物だと思っていたの? もちろん、本物に決まっている。せっかく、この お人好しの親子を利用して 隠れていたのに。この親子が魔女? 冗談じゃない。この二人は何の力もない、ただの人間だよ。一緒にされたら迷惑だ。お人好しすぎて、正直で無垢すぎて、一緒に暮らすのは居心地が悪かったけど、そろそろ潮時ということかな。僕は 地獄に帰る」 「瞬……」 瞬はいったい何を言っているのか。 瞬が何を言っているのか、何をしようとしているのか、氷河は理解できずにいた。 氷河の混乱は、瞬の力を その目で直接 見てしまったせいだったかもしれない。 瞬が何をしようとしているのかを 氷河が理解したのは、自分の足で立つ力もないはずの彼の母親が 寝台を出て、戸口に立つ瞬の方に よろよろと歩み寄ろうとする姿を見た時だった。 |