「瞬ちゃん、だめ。だめよ。私たちのために……!」
その場に崩れ落ちそうになった母の側に駆け寄り、その身を支える。
ナターシャの言う通りだった。
隠しておこうと思えば隠しておける力を あえてさらして、瞬が 自分は魔女だと言い張る理由は他に考えられない。
瞬は、氷河たち母子を守るために こんな無謀をしている。
「愚かな母子。僕に騙され利用されたのは気の毒だったね。でも、もう二度と会うことはない」
愛する二人をまもるために、瞬は、そんなことを言い募っているのだ。

(瞬……)
氷河は、胸が詰まった。
喉の奥が、焼けるように痛い。
「聖母マリアのように優しい人が、そうと知らずに魔女をかくまっていたなんて、皮肉な話。お人好しは我が身を滅ぼすよ」
嘲るように そう言って、瞬が氷河の方を振り返り、見詰める。
瞬の気持ちがわかるだけに――わかるからこそ、氷河は瞬に何も言えなかったのである。
母が動けたら――せめてナターシャが動けたら、瞬を連れて、村人たちの包囲を破り、彼等の手から逃げることもできるのに。
だが、ほんの数刻前まで その命が危ぶまれていた母を 今 動かしたらどうなるか。
体力が極限まで低下し、一人で立っていることさえ ままならない母に、今 そんな無理を強いたなら、彼女は 十中八九 命を落としてしまうだろう。
ナターシャを死なせないために――二人のマーマを死なせないために、氷河と瞬は それぞれの役柄を演じ続けるしかなかったのである。

「さよなら。ありがとう。マーマを守って」
瞬が、声には出さず 唇だけを動かして、氷河に そう告げる。
ここを動くなと、自分を助けるなと、マーマを守れと、それこそが自分の望みだと、その眼差しで、瞬は氷河に訴えていた。
「しゅ……」
その名を呼ぼうとした氷河を振り切るように、瞬が氷河たち母子に背を向け、驚くべき身軽さと素早さで、武器を持つ村人たちの中に跳躍したのは、氷河に余計なことを言わせないためだったろう。
村人たちの注意を自分に引きつけ、瞬が再び 高く跳ぶ。
二度の跳躍だけで、瞬は 彼等の家を囲う白丁花の生け垣の外に出てしまっていた。
目の前で何が起こったのかを村人たちが把握するのを待って、村の東にある十字路の方に瞬が駆け出す。
瞬の親切(?)のおかげで、村人たちは、自分たちが 今 何を為すべきなのかに気付くことができたようだった。

「魔女が逃げたーっ!」
「捕まえろ! みな、武器を持ってこい!」
「魔女を狩り出せ!」
「魔女を殺せーっ!」
普段の彼等なら口にしないような恐ろしい言葉を口々に叫びながら、興奮し 正気を失っているとしか思えない形相で、村人たちが瞬を追い始める。

「氷河、ナターシャさん。疑って悪かったな。魔女が戻ってこないよう、扉は閉めておきなさい。戻ってきても、絶対に家の中に入れるんじゃないぞ」
氷河たちの家の扉の前で尻餅をついていた村長が のそのそと立ち上がり、せめてもの威厳を保とうとするかのように、氷河たちに指図してくる。
彼は、そして、瞬に松明の火を消され 武器といえるものを失って その場に立ち尽くしていた村人に、
「年寄りと子供たちに、家を出るなと命じてこい。わしと神父様は 事の顛末を見届けに行く――魔女の最期を見届けに行く」
と告げた。

村長が氷河に、魔女狩りに加わるよう言わなかったのは、彼なりの思い遣りだったのか、さすがにそれは無理と判断してのことだったのか――。
松明を持った神父の従者の先導で 村長と神父が村人たちのあとを追っていくと、氷河の家の庭に 人間の姿は一つも残らなかった。
村人たちの狂気と興奮のために 渦巻き 沸騰しているようだった空気が動きをとめ、夜の静けさを取戻す。
その庭に向かって、氷河が、
「俺こそが悪魔だ」
と呟いたのは、瞬が彼の家族と暮らしていた家を出て どれほどの時間が経ってからだったのか。

自分に こんな力があるせいで、母は生まれた村を追われた。
今また瞬も、自分のために 我が身を犠牲にしようとしている。
だというのに。
母を残して、瞬を助けには行けない。
母を残して、死ぬわけにはいかない。
では、このまま瞬を見殺しにするしかないのか。
自分は いったい どうすればいいのか――。
あまりに多くの思いのために 思考がまとまらず 呆然としている氷河に、今 彼が為すべきことを教えてくれたのは、彼の母だった。

「氷河……氷河、瞬ちゃんを救わなければ。すべては、氷河を普通の子に産んであげられなかった私の罪。魔女は私よ。瞬ちゃんを私たちのために死なせちゃいけないわ」
小さく 力ない声なのに、ナターシャの言葉には強い意思が こもっていた。
「それは……」
できることなら、そうしたい。
だが、それをしてしまえば――。
逡巡する氷河に、ナターシャは、病で弱っている人間とは思えない強さと必死さで 取りすがってきた。
「氷河、氷河。瞬ちゃんを助けて。氷河ならできるわね。すべては私のせいだったことにして、氷河と瞬ちゃんは生き延びて……!」
「マーマ……」

母は死を覚悟している。
瞬の犠牲の上に 自分たちが生き延びようとは考えていない。
母の覚悟が、氷河に決意を運んできた。
氷河が、母に頷く。
「瞬を助ける。マーマ、もし そのせいで、マーマに累が及んだら……俺と一緒に死んでくれ」
「氷河と一緒なら恐くないわ。でも、氷河は生きるの。瞬ちゃんを一人にしちゃ だめ」
自分の命など惜しくはない。
死など恐くはない。
だが、氷河と瞬には――愛する者たちには――生きていてほしい。
そして、幸せになってほしい。
それが母の願い。
瞬も同じことを願って 隠していた力を示し、氷河たちへの疑惑の目を逸らすために、あえて我が身に魔女の汚名を着た。

誰もが同じことを考えている。
大切な人に、愛する人に、生きていてほしい。
そして、幸福になってほしい。
誰もが同じことを願っている。
これが魔女なのだろうか――それが魔女というものなのか。
もしそうなら、魔女ほど優しい生き物はない。
氷河は、か弱い魔女の肩を抱きしめ、きつく唇を引き結んだ。






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