「やめんか、馬鹿者共!」
村人たちが手にしている松明の炎が 不気味な狂気のように揺れる夜の暗澹。
不吉な闇と炎の中に その声が響くのが、あと数秒 遅かったなら、氷河と瞬は その身を谷底に躍らせていただろう。
奇妙な恰好をした男が一人、目を血走らせた村人たちの前に立ちはだかる。
その声は不機嫌の極みで、だが、彼の怒りは どうやら 村人たちの狂乱のせいではなく、固く握りしめ合っている氷河と瞬の手のせいらしい。
二人(の手)を じろりと睨んでから、彼は村人たちの方に向き直った。

「ったく、瞬が幸せそうだから、このまま平穏に一生を過ごさせてやろうと思っていたのに、人間とは何と愚かな存在だ」
「に……兄さん…… !? 」
姿ではなく声で、瞬は、それが自分の兄だと認めることになったのである。
「6年振りだな」
弟を見ずにそう言って、瞬の兄が 夜の空気をなぞるように右の手を振り上げる。
彼の手が振り下ろされると、それは炎を生んで、氷河が凍らせた木を、氷河が作った氷ごと燃やし、周囲を昼間のように明るくした。

そう見えたのだが、その明るさは、実は瞬の兄が作り出した炎のせいだけでなく、もっと違う光が混じってできた明るさだったらしい。
とはいえ、それは、陽光や月光のように天から降り注いでくるものでもない。
それは 人(?)が発する光、あるいは その人(?)を包む光だった。
無論、それが 人――尋常の人――であるはずはなかったが。

「人間は、自分と違うものを恐れるものだから」
と、その人は 瞬の兄を なだめるように告げた。
「アテナ」
瞬の兄が、その人の名を呼ぶ。
その名に、尋常の人間の中で最も素早く反応を示したのは、この村の教会を任されている神父だった。
「アテナだと……? 異教の神ではないか!」
それは、彼が信じている神とは違う神の名。
彼と村人たちが信じている神より はるかに古い時代に この地上に君臨していた太古の神の名だった。
顔を強張らせる神父、ざわつく村人たちを無視して、太古の女神が、瞬の兄を軽く睨みつける。

「そもそも 一輝。あなたが あなたの弟の力を私に隠しておくから、こんなことになったのよ」
「力があっても――瞬は聖闘士に向いていないんだ」
「そうね。明確に自分を殺そうとしている敵を傷付けることを恐れ、自らが死ぬことで事態を収拾しようとしている。確かに あなたの弟は 聖闘士向きの人間ではないわ。でも、その優しさは、強大な力を持つ者には必要なものよ」
「あの……」
誰に何を訊けばいいのかがわからずにいるらしい瞬が、光を放つ女神を見、厳しい顔をしている兄を見、最後に その視線を氷河の上に戻してくる。

『僕たちは死ななくていいの?』
瞬の瞳は、氷河に そう尋ねていた。
その答えは、氷河には まだ わからなかった。
『この女性は誰。兄さんは どこから現れたの?』という問い掛けへの答えが、氷河に わかるはずもない。
突然 この場に現れた二人は あまり親切なたちではないらしく、事情説明はおろか 自己紹介をする素振りさえ見せない。
彼等は勝手に、彼等にだけ わかる話を進めていく。
それが少し 氷河の癇に障ったのである。
だからといって、氷河には、この場面で 何を言うこともできなかった――言える言葉を持っていなかった――のであるが。

「ともかく、こうなったからには、あなたの弟は聖域に連れて帰ります。私の聖闘士を、みすみす見殺しにはできない」
瞬の兄は 渋面を崩さず 黙っている。
どうやら彼女に意見を言うことができないのは、瞬の兄も同じであるようだった。
「もう一人、聖闘士がいるようだし。氷河。あなたも私たちと一緒にいらっしゃい。私の統べる聖域には、あなたの お仲間が大勢いるわ」
女神であるらしい女性が、初めて まともに氷河を見、氷河に話しかけてくる。
それでも彼女が不親切な人間(神)であることに 変わりはなかった。
彼女は氷河に事情説明というものをせず、結論だけを――命令だけを、告げてきたのだ。

「仲間?」
「ええ。あなたと同じ力を持つ、あなたの仲間――あなた方の仲間」
「こんな力を持つ者が、俺と瞬の他にもいるのか」
「腐るほど――と言いたいところだけれど、そんなにはいないから、あなた方は貴重な人材なのよ。衣食住、すべての面倒をみるわ。私と一緒に来てちょうだい」
「生きたまま?」
「ええ。生きたまま」
「それは 有難い申し出だが、俺は――」
死なずに済むのなら、それは有難いことである。
だが、氷河には、彼女の命令(むしろ要請?)に従えない事情があった。
アテナが、すべてを承知しているという顔で 氷河に頷いてくる。

「あなたのお母様は、私が回復させました。もちろん、お母様も一緒に」
異教の女神が そう言って、氷河以上に現状把握ができずに自失している村人たちの方に手を差しのばす。
その手の先に、やたらと あちこちに髪のはねた少年と、いったい何のために それほどの長さが必要なのかと問いたくなるほど長髪の男の姿。
そんな二人に 左右を守られたナターシャの姿があった。
瞬の兄に負けず劣らず珍妙な出で立ちをした二人に視線でめつけられた村人たちが、モーセに睨まれた紅海の水のように右と左に分かれ、その間をナターシャが進んでくる。
彼女は、自分の足で立ち、自分の足で歩いていた。

「マーマ、大丈夫なのか」
「女神アテナが治してくださったの。もう すっかり元気よ」
「アテナが――」
では、光に包まれた この女性は、本当に神なのか。
氷河は、息を呑み 恐れ おののいている村人たちの顔を ひと渡り 見まわした。
聖母は存在しても女神はいない。
それが、この村の者たちの信じる宗教である。
アテナは異教の女神だった。
村人たちの恐れ、驚き、困惑は、当然のことだったろう。
異教の女神が、村人たちに告げる。

「あなた方の言う魔女とやらの命を取ることまではしなくても、この村から 異質な者がいなくなれば、それで あなた方は平和に暮らせるのでしょう? 三人は、私がもらっていきます」
女神のその宣言に、村人たちに どう応ずることができただろう。
彼等の信じている神ではない神――『信じろ』と教会に命じられている神とは違う神。
しかし、その力が尋常のものでないことは明白。
到底 人間ごときに太刀打ちできるものではない。
とはいえ、その事実を認めてしまっていいものなのか。
村人たちが、神父の表情と動向を窺う。
とはいえ、人々を神の許に導くことを生業とする神父とて、人智を超えた力を持つ女神に対して 村人たちと異なる対応ができるわけもない。
アテナは、異教の神のしもべの存在など 気に留めてもいないようだった。

「気付いていないようだから、教えてあげるけれど――この村が嵐に襲われたことがないのは、瞬が その力で嵐の進路を変えていたから。旱魃がなかったのは、干上がった川に、氷河が氷を生んで 水が絶えることのないようにしていたから――よ。だから、この村は常に豊かな村でいられた。けれど、これから、この村に二人の加護はなくなる。あなた方は あなた方の力だけで村を守っていかなければならなくなるわ」
「これまで瞬を受け入れてくれていた事実に免じて、村を燃やし尽くすようなことはしないでおいてやる。瞬に感謝しろ」
親切なのか不親切なのかの判断が どこまでも難しい異教の女神と 瞬の兄。
彼等は、誰に対しても そうであるらしい。
そう思えば、彼等の説明不足に対する氷河の苛立ち、もどかしさも、多少は和らいだ。
何より、彼女等は 母を救ってくれた者たちなのだ。
彼等を敵と見なす理由は どこにもない。

そんなふうに、氷河の感情面での整理がついた頃、神父もやっと口がきけるようになったらしい。
光を呼び寄せるように その手を天にかざしたアテナに、神父は かすれ 上擦った声で、すがりつくように問うことをした。
「ま……待ってくれ。お待ちください。この二人は魔女ではないのか?」
それだけは確かめておかなければならないと、神父は考えたのだろう。
この村が これまで氷河と瞬に守られていたというのなら、この村が魔に犯されているということになる――かもしれないのだ。
それを確認することは、神に使える者の重要な仕事――義務である。
アテナは、軽く首をかしげた。

「悪魔と契約を交わした者を魔女というのであれば、この二人は魔女ではないわ。でも、どうかしら。異教の女神を悪魔と見なすなら、あなた方にとっては 私も魔女なのでしょうし……。あなた方は、同じ神を信じる者たちさえ、異端とみなして悪魔の手先のように排斥することもある。魔女など、作り放題でしょう」
それは神父にとっては 痛烈な皮肉、辛辣な批判だっただろう。
返す言葉を思いつけずにいる神父に もはや一顧だにせず、女神が光を招く。
谷の上に、天に向かってのびる光の階段が現われ、辺りは真夏の真昼より明るくなった。

「瞬、氷河、いらっしゃい。お母様も、どうぞ いらしてください」
他に進める道はない。
だが瞬は 最初の一歩を踏み出すことを迷っているようだった。
「恐い?」
アテナが笑って、瞬に尋ねる。
瞬は、すぐに首を横に振った。
「氷河とマーマが一緒なら、恐くない」
「ええ」

瞬の答えを聞いて、女神の微笑は 一層 晴れやかになり、逆に 瞬の兄は不機嫌の色を濃くした。
弟に無視されて、瞬の兄は どうやら大いに その機嫌を損ねたらしい。
数年間 会っていなかったとはいえ、瞬は 兄の扱いに慣れているらしく――もとい、兄の性格を熟知しているらしく、
「兄さん、ずっと僕を見守ってくれていたんですね。ありがとうございます。嬉しい」
と告げ、たちどころに 兄の機嫌を直してみせた。
そんな一輝を見て、アナテが愉快そうに笑う。
笑顔のまま、彼女は、瞬にとも 氷河にともなく――あるいは それは、この村の住人たちに向かって発せられた言葉だったのかもしれない――告げた。

「今はちょっと、人間が正直に生きにくい時代なの。でも、地上の人間たちにも いずれ わかる時がくるでしょう。信じる神がどんな神なのかは問題ではない。悪魔はそれぞれの人間の心の中にいる。魔女を生むのは、人を疑う人の心だということを」
その時には もう、異教の女神と 彼女に従う者たちの姿は 金色の光の中に溶け込みかけていた。
アテナの言葉が村人たちの耳に届いていたかどうか。
それは 氷河にも瞬にも 確かめることはできなかった。






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