「運命を変えろと言われても、既に定まった運命だからねえ……」 運命の糸を紡ぐクロートー、運命の姿を描くラケシス、運命の糸を断ち切るアトロポス。 運命を司る三女神は、ギリシャの神々が住まう広大なオリュンポス神殿の一画で、機織り機を相手に遊んでいた(氷河には そう見えた)。 彼女等は、どうやって動かすのか 氷河には見当もつかない巨大な機織り機に縦横無尽に糸を掛け、奇妙な模様の布を織り、それが使いものになる長さになる前に機織り機から外し、床に投げ捨てるという、氷河の価値観で判断すれば 全く生産的でない行為を繰り返している。 彼女等が機織り機から外し投げ捨てた無数の布――端切れとしか思えない半端な布きれ――は、彼女等の周囲に山を成し、オリュンポス神殿の大理石の床を埋め尽くしていた。 これが彼女等の操る人間の命と運命だというのなら、人間の命や運命というものは 一着の短衣にも成り得ない空しいものである。 だが、それらの布きれや糸くずは、神々の住まう神殿の一部屋の床を覆い隠すほどの山を“成す”ことはできている。 運命の女神たちの仕事を見て厭世観に囚われるような やわな神経を、氷河は持ち合わせてはいなかった。 むしろ、“運命の女神”の仕事に 誰よりも空しさを覚えているのは、運命の女神たち自身なのかもしれない。 三柱の女神たちは、無意味にも思える自分たちの仕事を憎んででもいるかのように、意地の悪そうな老女の姿をしていた。 この三柱の女神たちは、瞬の若さと美しさ、恋し合う二人の幸せを妬んで、あんな ふざけた運命を定めたに違いないと、氷河は思ったのである。 とはいえ、ここで そんな正直な考えを述べ立てて 彼女等に臍を曲げられても困るので、氷河は自分が考えたことを おくびにも出さず、既に定められた運命は変えられないと告げる彼女等に、 「そこを何とか」 と、恋し合う二人に課せられた運命の撤回を 頼み込んだのである。 なにしろ 彼女等は神――二人の恋の運命を握る神なのだ。 ここで彼女等の機嫌を損ねることは得策ではない。 彼女等を“意地の悪そうな老女たち”と見た氷河の推察は、あながち見当外れなものではなく――おそらく正鵠を射たものだったのだろう。 既に定まった運命を変える条件として、彼女等は ヘラクレスの12の難業以上の難題をふっかけてくるものとばかり思っていたのに、食い下がる氷河に対して 彼女等が持ち出してきたのは、 「そうだねえ……。あんたが土下座して頼むのなら、考えてやらないこともないよ」 という、愚にもつかない提案だったのだ。 「土下座?」 “極めて意思的で、決断力と その決断力に伴う行動力を備え、常に前向きで、諦めることを知らず、弁が立つ”という資質に恵まれている氷河は、その上 更に、“柔軟で 合理的思考を為すことができる”という才能にも恵まれていた。 恋をしたら、普通の人は 判断力が低下するものなのだが、氷河はそうではなかった――要するに 氷河は“普通の人”ではなかったのだ。 氷河の恋が順風満帆であったなら、もしかすると氷河も“普通”の罠に落ちてしまっていたかもしれない。 だが、彼の恋は今、これ以上は ないほどの危機に瀕している。 運命に立ち向かう緊張のために、氷河の判断力は 今、氷のように研ぎ澄まされていた。 その氷のように研ぎ澄まされた判断力によって、『土下座する程度のことで、あのふざけた運命を撤回してもらえるのなら、安いものだ』と、氷河は思った。 とはいえ、そう思うくらいなら、まだ 彼は“普通”の範疇を出た男とは言えなかっただろう。 氷河の氷の判断力は、そこに重ねて、『あの瞬を俺のものにできるのなら 土下座くらい屁でもない――という考えを、正直に運命の女神たちに伝えることは賢明ではない』と、氷河に訴えてきたのである。 『この老女たちの言う、既に定められた運命を変えるための条件が、途轍もない試練、到底 受け入れられない試練であるように振舞うことこそ賢明だ』と。 氷河は もちろん、自らの判断力の指示に従った。 すなわち、 「土下座だとっ !? この俺に――誇り高いヒュペルボレイオスの王子、超二枚目の この俺に、土下座をしろというのかっ!」 と、怒髪天を衝いた(振りをした)声と表情で、氷河は老女たちを怒鳴りつけたのである。 氷河の憤怒の様を見て、運命の女神たちは ひどく嬉しそうな顔になった。 「誇り高いヒュペルボレイオスの王子、超二枚目の王子様には、既に定められた運命を変えることの重大さがわかっていないようだね。それくらいのことは してもらわないと、到底 割りに合わない重大事なんだよ、定められた運命を変えるってことは」 意地悪な運命の女神たちは、意地悪をすることが よほど好きらしい。 あるいは、彼女等は、意地の悪い行為を 運命の女神としての力を振るう行為と考え、自らの力に誇りを感じているのかもしれなかった。 誇り高く 超二枚目のヒュペルボレイオスの王子に 効果的に意地悪ができていると信じ、彼女等は すっかり悦に入ってる。 「うぬぅ……」 氷河が、全身に苦渋と屈辱を みなぎらせ(た振りをして)低い声で呻く。 “極めて意思的で、決断力と その決断力に伴う行動力を備え、常に前向きで、諦めることを知らず、弁が立ち、柔軟で 合理的思考を為すことができる”氷河は、なんと更に 演技力にまで恵まれていた。 彼には、アテナイのディオニュシア祭で奉納される悲劇で オイディプス王を演じることも オレステスを演じることも 容易なことだったろう。 氷河は、地上で最も高貴で誇り高い王子が 愛のために運命の女神たちに屈する様を、適切な台詞まわし、完璧な所作、抜群の間をもって、演じてのけたのである。 もし、運命の女神たちの周囲の床が 糸くずや端切れで埋まっていなかったなら、オリュンポス神殿の鏡のように磨き込まれた大理石の床には、土下座している氷河の口許に刻まれている北叟笑みが写り、氷河の真の心情は運命の女神たちに ばれてしまっていたかもしれない。 しかし、彼女等が弄んで捨てた運命の糸と端切れは、ものの見事に 氷河の真意を隠してしまったのだ。 それもまた、運命だったのか。 だとしたら、運命とは、実に測り知れないものである。 そして、皮肉なものである。 意地悪な運命の女神たちが操る運命は、運命の女神たちに対しても意地悪だったのだ。 氷河の完璧な演技に、運命の女神たちは大いに満足したようだった。 彼女等は、神の力に屈した哀れな王子の演技を続行している氷河に、氷河の望むものを与えてくれたのである。 『ひひひひひ』と、実に嫌らしい笑い声の おまけつきで。 「じゃあ、おまえに、定められた運命を変える願いを願う力を与えてやろうかね」 「運命を変えたい者の前で、その者の身体の一部に触れ、『運命の三女神の御名において、運命よ、我の言葉に従え』と言ってから、願い事を一つだけ 願うがいい。その願いは、定められた運命をさえ変えて、必ず実現するだろう」 「一つだけだよ。『金持ちになって、長生きをする』なんてのは 駄目だよ。『金持ちになる』と『長生きをする』のどっちかだけ」 「ああ、それと……私等が操る運命は 感情と意思を持つものの運命だけだからね。地上世界の命運――世界全体の行く末や、感情と意思を持たないものの運命は変えられない。『世界が滅ばないように』とか『雨よ降れ』なんてのも駄目だよ」 「感謝する!」 氷河が間髪を入れずに女神たちに礼を告げたのは、彼女等の気が変わらぬうちに、彼女等の約束を既定のものにするためだった。 そして、その感謝の言葉は 真実のものだった――演技でも嘘でもなく、心からのものだった。 氷河は、心から、運命の女神たちの単純さ、優しさに感謝していたのだ。 定められた運命を変えることが相当の重大事なのだろうことは、氷河とて わかっていた(無論、それが自分にとって 不利益なものであるならば、決して受け入れるつもりはなかったが)。 てっきりヘラクレスの12の難業並みの厳しい試練が課せられるものとばかり思っていたのに、運命の女神たちが求めたのは、たった一度の土下座のみ。 これを優しさと言わずして、何と言うのか。 運命の女神たちの優しさに 心底から感謝して、氷河は、意気揚々と運命の女神たちの許を辞したのである。 出会いの時から終始 意地の悪そうな顔つきをし、嫌らしい笑い声を洩らしていた運命の女神たちが、別れの時にも にやにやと意地の悪そうな笑みを浮かべていることを、改めて奇異に思うことなく。 瞬の髪か唇に触れ、『瞬がヒュペルボレイオスの王子と結ばれることによって失われる命はない』と願えば、『ヒュペルボレイオスの王子氷河と エティオピアの王子瞬が結ばれれば、世界は滅亡の道を辿ることになる』という運命は覆される。 そう氷河は思っていた。 ギリシャの神々の住まう神殿があるオリュンポス山を下った氷河は、一刻も早く その願いを願って 二人の恋を叶えるために、ヒュペルボレイオスには帰らず、瞬のいる(はずの)エティオピアに向かったのだった。 |