ヒュペルボレイオスより南方にあり、瞬という美しい王子がいることで、常にヒュペルボレイオスより明るく輝いている(ように氷河には思える)南の大国エティオピア。
ところが、その日、氷河を迎え入れたエティオピアと その王宮は、いつものように 明るく輝いていなかった。
陽光は これまで通り ふんだんに大地に降り注ぎ、エティオピアの国は光に満ちていた。
にもかかわらず、エティオピアは明るく輝いていなかった。
都の大通りは 死の国のように しんと静まりかえり、人影も まばら。
王宮に至っては、城の窓という窓に黒い布が掛けられている。
エティオピアは、喪に服していた。

「いったい何が起こったんだ。国中が沈んでいるようだが」
これまで氷河が訪ねてくると、あの手 この手を用いて氷河を瞬に会わせまいとするのが常だったエティオピア国王――瞬の兄――が、今日はなぜか すんなりと氷河を城の中に迎えて入れてくれた。
だからといって ヒュペルボレイオスの王子の来訪を歓迎しているようでもなかったが、少なくとも瞬の兄は、今日は氷河を追い払おうとはしなかった、
謁見の間で氷河と対峙しても、殊更 不快そうな顔を見せない。
もっとも瞬の兄 一輝は、いつも苦虫を噛み潰したような顔をしている男で、それは今日も同じだったのだが。

今日の一輝が いつもと違う点は、その“苦虫を噛み潰したような顔”が暗いこと。
そして、全く 覇気が感じられないこと。
通常モードの彼は、“苦虫を噛み潰したような顔”をしていても、常に明るかった。
最愛の弟に近付く害虫を撃退するために努力している自分を――その努力ができる自分を――誇らしく思っているかのように、明るく活力に満ちていた。
氷河が見知っている彼は、常に 不機嫌でありながらエネルギッシュな男だったのだ。
その彼が、生涯の天敵といっていい氷河を目の前にしながら、元気に憎悪の感情を向けてこない。
これは どう考えても異常な事態だった。

「一輝。何があったんだ」
瞬の兄に 重ねて そう問うた時、氷河はまだ 一輝とエティオピアの都の暗さが瞬に起因したものだとは考えていなかった。
『瞬に会いたい』と言って 氷河がエティオピア王宮内に入っていっても、エティオピア国王が 弟を その場に呼ばないのはいつものことだったから。
そんな時には大抵、なぜか勘良く瞬が氷河の来訪に気付いて(氷河は それを愛が生む直感だと信じていた)自発的に 兄と氷河のいる場所に駆けつけてきてくれるのだ。
そろそろ瞬がやってくる頃。
もうすぐ自分は、瞬の あの可愛らしい姿、澄んで美しい瞳に出会うことができるのだと、いつも通りに 氷河は思っていた。
その氷河の期待を、瞬の兄が暗く沈んだ面持ちで遮ってくる。

「瞬なら来ないぞ。瞬は もう、この城に――いや、エティオピア国内には おらん。この国と 国の民を守るために、瞬は その身を化け物に捧げたんだ」
「なに?」
“極めて意思的で、決断力と その決断力に伴う行動力を備え、常に前向きで、諦めることを知らず、弁が立ち、柔軟で 合理的思考を為すことができ、その上 演技力にまで恵まれている”王子にしては凡庸で、間が抜け、芸のない反応を、氷河が瞬の兄に示す。
あまりに想定外のことすぎて――瞬の兄が口にした言葉の意味を、氷河は 迅速に理解することができなかったのだ。

「瞬が、化け物に その身を捧げた? それはどういうことだ」
「どういうことも こういうこともない。言葉通りだ。『エティオピアの王子を 化け物の生贄に捧げなければ、エティオピアの国は2日と置かずに この地上から滅び去るだろう』という神託が 一昨日 下されて、昨日のうちに瞬は その身を化け物に――」
「なぜ、俺がいない時に、そんな勝手なことをするんだ!」
瞬の身に何が起こったのかだけは理解して、氷河は一輝を怒鳴りつけたのである。
瞬は その身を化け物に捧げ、その化け物はエティオピア国内には 既にいない――ゆえに 瞬もエティオピア国内にいない。
氷河に理解できたのは、その事実と、それ以外の状況が全く わからないという事実だけだった。

そもそも一輝は、その病的なブラコンさえなければ、一人の人間としても、一国の王としても“優秀”の部類に属する男だった。
彼の私利私欲は すべて、彼の最愛の弟という存在に凝縮されていて、一輝は 彼自身の奢侈淫佚に走るような男ではないのだ。
我が身を美しい衣装で飾り立てたいとか、過度の美食を好むとか、多くの美女を はべらせたいとか、そんなことを望む男ではなく、また 芸術品や宝飾品に入れ込んで、その収集に血道を上げるようなことも、一輝はしない。
そんなことをするくらいなら、瞬に美しい衣装を着せ、瞬に美味しいものを食べさせ、瞬の欲しいものを瞬に与えたいと考えるのが、一輝という男だった。

あいにく 瞬は、美しい衣装で飾り立てなくても――むしろ、飾り立てない方が――美しいし、美味しいものは好きだが どちらかといえば小食、欲しいものは平和と 人々の幸福――という、まるで欲心のない清廉潔白な王子。
ゆえに、一輝は、最愛の弟のために暴君になることもなく、極めて公平で、正義正道を貫く為政者。
瞬の前で 偉そうに強そうに振舞いたがるという悪癖はあったが、その悪癖を考慮に入れても、文句なく英邁な君主だったのだ。
もし瞬が我儘で贅沢好きの王子だったなら、そんな弟最愛の一輝は英邁な君主たり得なかったろうが、もし瞬が我儘で贅沢好きの王子だったなら、一輝は ここまで彼の弟を愛することもなかっただろう。
世の中は よくできているもの。
否、ここは やはり、『エティオピアは幸運に恵まれた国である』というべきなのかもしれない。

ともあれ、そんなエティオピアが神の怒りを買って 生贄を求められるような事態を招くことは、非常に考えにくいことなのだ。
しかも、神託が下ったのが2日前。
その神託は、一両日中にエティオピアが滅びるというもの。
そして、瞬が生贄に捧げられたのが昨日。
すべてが あまりに性急、すべてが あまりに慌ただしすぎるではないか。
“瞬の身に何が起こったのか”以外のことを理解することは、“極めて意思的で、決断力と その決断力に伴う行動力を備え、常に前向きで、諦めることを知らず、弁が立ち、柔軟で 合理的思考を為すことができ、その上 演技力にまで恵まれている”氷河にも、なかなか困難なことだったのだ。

「貴様のいない時に 勝手をしたも何も、貴様の許しを得る必要が どこにあるんだ。これは 我が国のこと、しかも 瞬を生贄に捧げよと命じてきたのは神なんだぞ。これが瞬の運命だったのだとしか――」
氷河の言い草に激昂しているようだった一輝が、声を詰まらせる。
この運命を誰よりも納得できずにいるのは、これまで一国の君主としての務めを誠実に果たし、瞬を溺愛してきた一輝自身だったのかもしれない。
あまりに理不尽な運命に、彼こそがはらわたの煮えくりかえる思いでいるのだ。
だが、弟最愛の一輝は、弟最愛の兄であるがゆえに、『この国と この国の民を守ってください』と瞬に願われれば、その願いを叶えないわけにはいかなかったのだ――。

運命の女神たちの許を辞去する際、運命の女神たちは にやにやと意地の悪い 嫌らしい笑みを、その顔に浮かべていた。
あの にやにや笑いの意味を、氷河は今になって理解することになったのである。
エティオピアと瞬が こうなる運命だということを、彼女等は知っていたのだ。
忌々しげに、氷河は舌打ちをした。
が、まさか、彼女等に意趣返しをするために 今からオリュンポスにとって返すわけにはいかない。
氷河には、他に すべきこと、しなければならないことがあった。
「それで……エティオピアと瞬に そんな神託を下した神は誰なんだ。ポセイドンかハーデスか。まさか、助平男のゼウスやアポロンではあるまいな」

瞬は、瞬が愛し、瞬を愛している男と結ばれなければならない。
それこそが 瞬の“かくあるべき運命”なのだ。
そのために 氷河は、何としても瞬を自分の手に取り戻さなければならなかった。
そして、瞬を己が手に取り戻すためには まず、自分が捩じ込んでいく先を知らなければならない。
氷河は、瞬を取り戻す気 満々だった。
そんな氷河に、一輝から 思いがけない答えが返ってくる。
「それが……どうも アテナのようなんだ」
「アテナ? なぜアテナが……」
非のない国、非のない人間に これほどの理不尽を要求できる神となると、それは オリュンポスの神々の中でも相当の力を持つ神である。
アテナは もちろん有力な神だが、知恵の女神であるアテナは、オリュンポスの神々の中では 極めて公平で理知的な神、こんな理不尽を強いる神ではないはずだった。

「アテナといえど、オリュンポスの神の一柱。神の気まぐれの理由を 人間に推し量ることなどできるわけもない」
低く そう告げる一輝の口調は、ひどく苦々しげなものだった。
今の彼は、神と運命に裏切られた思いで いっぱいなのだろう。
神に対しても、与えられた運命に対しても、彼は これまで常に誠実に向き合ってきた。
人として、王としての務めを果たすべく努力してきた。
その上、彼の弟は、地上に生きる人間たちの中で最も清らかな心を持つ存在。
その誠実、その清らかさに対する報いが これなのでは、一輝の怒りも当然のこと。
エティオピアのために我が身を犠牲にした瞬の心、その思いが わかるからこそ、彼は この理不尽を必死に耐えている。
瞬の心を無視していいのなら、彼は とうの昔に、神に向かって牙を剥いていたはずだった。


一輝の言によると、瞬をさらっていった化け物は、天を覆い尽くすような巨体の化け物だったらしい。
星々と頭が摩するほどの巨体で その腕を のばせば世界の東西の果ても達するというテュポーンが生んだ化け物の1頭に違いないと、一輝は氷河に告げた。
「瞬は もう、あの化け物に食われてしまったのかもしれん」
「そんなものに食わせるくらいなら、俺にくれてやった方が ずっとましだったと、貴様は今 後悔しているだろう?」
「……」
氷河の嫌味に 忌々しげな目を向けながら、しかし 一輝は何も答えてこなかった。
氷河の嫌味に嫌味を返す気力も、今の彼にはないらしい。
瞬の命が失われてしまったかもしれないというのに、そんな嫌味を言っていられる氷河の相手などしていられないという気持ちも、彼の中には あったのかもしれなかった。

瞬の命が失われてしまったかもしれない――。
そんな状況下で 氷河が強気でいられたのは、“極めて意思的で、決断力と その決断力に伴う行動力を備え、常に前向きで、諦めることを知らず、弁が立ち、柔軟で 合理的思考を為すことができ、その上 演技力にまで恵まれている”資質のせいではなかった。
それもあったが、それより何より、彼が運命の女神たちから手に入れた、“定められた運命を変える願いを願う力”のおかげだった。
瞬の骨が1本、髪の毛が1本でも残っていれば、それに触れて 瞬を生き返らせることはできる。
彼女等は、自分たちが『感情と意思を持つものの運命を操ることができる』と言っていた。
どれほど意地の悪い貧相な神であっても、神の言葉に嘘はない――神は嘘をつくことはできない。
ならば、氷河は 瞬を生き返らせることができるはずだった。
たとえ化け物に食われてしまっていても、瞬が失ったのは命だけ。
瞬の思いは――瞬の感情と意思は――氷河や一輝や、瞬を愛する者たちの胸に、今もしっかりと残っているのだから。






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