「瞬を取り戻してくる」 氷河は、“常に前向きで、諦めることを知らない”我儘な王子だった。 だから、瞬の兄に そう告げて、氷河は再び 神々の住まうオリュンポス山――今度は アテナ神殿――に向かったのである。 知恵と戦いの女神アテナ。 オリュンポスの神々の中でも傑出した女神アテナの神殿は、運命の女神たちがいた神殿とは桁違いに壮大で、かつ、他の神々の神殿から独立して建つ、いかにも処女神の住まいらしい潔癖な印象を備えた純白の建物だった。 神殿の前に、野原と呼んでも どこからも文句が出ないような広い庭があり、そこに 異様な姿をした獣が一頭。 その獣は のったりと大地に腹這いになって、ごろごろと雷のような音を喉から洩らし、嬉しそうに 機嫌よさそうに くつろいでいた。 獣が 嬉しそうに 機嫌よさそうに くつろいでいるのは当然のことだったろう。 なにしろ その獣は、アテナ神殿の庭の中央に陣取り、瞬の白い手で 巨大な頭や鼻づらを 優しく撫でてもらっていたのだから。 そんなことは、氷河でさえ してもらったことがないというのに。 アテナ神殿に到着するなり、そんな光景を目の当たりにしてしまった氷河は、何よりもまず その化け物の殊遇厚遇に 強い不快感を覚えたのである。 数秒 遅れて、氷河の胸中には 瞬が生きていることに安堵する気持ちが湧いてきた。 一輝は、瞬をさらっていった化け物を 天を覆い尽くすほどの巨体の持ち主だったと言っていたが、それは針小棒大。でなければ白髪三千丈。 誇張も はなはだしい大法螺だった。 恐怖と臆病、あるいは 神や運命を憎む心が、一輝の目を曇らせ、彼の最愛の弟を 彼の手から奪っていく獣の姿を 実際より はるかに巨大に見せたのだろうか。 巨大なことは巨大だが、その体長は せいぜい瞬の5、6倍ほど。 その形状も、化け物というより、異様に巨大なだけの普通の(?)獅子だった。 瞬に頭を撫でられて ごろごろとしている様は、むしろ 猫のそれと言っていい――否、猫そのものだった。 「これの どこが 天を覆い尽くすほどの巨体の化け物だ。一輝の奴、大袈裟なことを言いやがって……」 化け猫の上機嫌は 忌々しく憎たらしいが、再び瞬の姿を 自分の目で見られたことは嬉しい。 言葉は非難だが、声は弾んでいる ぼやき。 アテナ神殿の庭にある奇天烈な光景を見て、氷河の唇は そういうものを生んだ。 「ゴールディは、本当に 天を覆い尽くすほどの巨体の獅子なのよ。でも それだと瞬に撫でてもらっていることを実感できないから、今は小さくなっているの」 ふいに、神殿の奥から女性の声が流れ出てくる。 年若い少女の姿をしているが、その挙措、表情に漂う、隠しようもない威厳と自信。 この少女が この神殿の主、知恵と戦いの女神アテナその人だと、氷河には すぐにわかった。 「あなたが 我儘なので有名なヒュペルボレイオスの王子 氷河ね。エティオピアの人間は、瞬を取り戻すために動くことはできないはずだから」 強大な力を持つ女神の前で、畏れ入ることも、彼女の言葉に頷くことも、氷河にはできなかった。 人間の言葉を解するとは思えない化け猫――ゴールディという名らしい――に事情説明を求め ても まともな答えは得られないだろうが、女神なら それを与えることもできるだろう。 今の氷河は、自己紹介や 自分の評判への遺憾の表明などより、その方が より重要な事柄だったのだ。 なぜ 瞬が 化け物の生贄として奪われ、こんなところで化け物の お守りをさせられているのか、その事情と経緯を知ることが。 知恵の女神が 勘良く氷河の気持ちを察し、その求めに応じてくる。 「話せば長くなるので 要点だけを言うと、つまり、ゴールディが 瞬に一目惚れして、一緒にいたいと駄々をこねた。ゴールディの願いを叶えてやらないと、ゴールディは超巨大化して、ところ構わず暴れ出す。超巨大化したゴールディが暴れると、山は崩れ、川は氾濫し、海は大荒れ。このオリュンポス山だって、ゴールディの一蹴りで 跡形もなく崩壊することになるでしょう。そして、最終的に、この世界は破滅するしかない。だから、ゴールディを大人しくさせておくために、瞬を さらってきた。ゴールディが瞬を欲しがっている限り、瞬を故国に帰してやることはできないから、家族や友人に空しい希望を持たせたりすることのないよう、あえて生贄として 瞬を差し出させた。そういうことよ」 「なるほど」 余計な情報を極力 排除したアテナの説明は わかりやすかった。 事情は すぐに呑み込めた。 が、事情を知り 理解することと、その事態を受け入れられるかどうかということは、全く別の問題である。 氷河は もちろん、瞬を化け物を奪われる事態を受け入れるわけにはいかなかった。 「傍迷惑な化け物だ。瞬を返してもらおう」 「ゴールディは 瞬がいれば 大人しいのよ。巨大化もしないし、機嫌よさそうに喉をごろごろしているだけで、この世界を壊そうなんて考えもしない。あそこ、本当は山があったのよ。でも、ゴールディが暴れて崩してしまったの。今 瞬をゴールディから引き離してしまったら、消えてしまうのは山だけでは済まないわ。この世界 そのものが なくなってしまうでしょうね」 言いながら、アテナが指差した場所には 山などなかった。 逆に、そこは窪地になっていて、水が溜まり始めていた。 以前 山があった その場所は、やがて 広大な湖になるに違いない。 今 ゴールディから瞬を奪い取ると、ゴールディは超巨大化し、地上世界で暴れまわる――駄々をこねる。 そして、自然も 人間の営みも破壊し尽くしてしまうだろう。 アテナは、そう言っていた。 地上世界を守るため、地上世界に存在する人間の命と生活を守るため、瞬を 瞬の家族や友人の許に帰すことはできないのだ――と。 氷河は――氷河は、本音を言えば、瞬以外の人間の命も生活も、世界の存続についてすら、どうでもいいと思っていた。 大事なことは、瞬が愛し 瞬を愛している男の側に、瞬がいること。 そうすることによって 恋し合う二人が幸せでいること。 他のすべては枝葉末節、些末なことだったのである。氷河にとっては。 この場合 問題なのは、瞬はそうではないということ――瞬は自分の幸福だけを願うような人間ではないということ――だった。 瞬は、何よりも 平和を愛し、平和を求める人間だった。 世界の平和が 最優先、優先順位第1位の願い。 自分以外の(多くの)人間の幸福が、2番目。 それらが満たされてから やっと、瞬は自分の真の幸福を考え始めるのだ。 瞬の恋は、瞬自身の幸福に含まれる要素なので、当然 願いの優先順位は最低となる。 瞬の恋の優先順位は、3番目。 つまり、氷河は、瞬と自分の恋を成就するために、世界の平和と 他人(この場合はゴールディ)の幸福を実現しなければならないのである。 それらの実現が約束されないと、瞬は自分が恋人と幸福になることを考え始めてくれないのだ。 それは、“極めて意思的で、決断力と その決断力に伴う行動力を備え、常に前向きで、諦めることを知らず、弁が立ち、柔軟で 合理的思考を為すことができ、その上 演技力にまで恵まれている”氷河にとっても、運命の女神たちから 既に定められている運命を変える力を与えられた氷河にとっても、極めて難しい問題だった。 『ゴールディが瞬を忘れるように』という願いを願えば、『氷河と瞬が結ばれると 世界が滅びる』という運命を覆すことができなくなる。 『氷河と瞬が結ばれると 世界が滅びるという運命の無効化』を願うと、瞬に対するゴールディの執着は消えず、ゴールディは瞬を独占し続けようとするだろう。 ゴールディから無理に瞬を引き離すと、ゴールディは超巨大化し、結局 世界を崩壊させてしまうのだ。 “極めて意思的で、決断力と その決断力に伴う行動力を備え、常に前向きで、諦めることを知らず、弁が立ち、柔軟で 合理的思考を為すことができ、その上 演技力にまで恵まれている”氷河の脳裏に、もしかしたら 生まれて初めて今、『八方ふさがり』という言葉が浮かんできた――。 “既に定められている運命を変える力を持つ願い”は、感情と意思を持つ一つの存在に対して 一つの事柄を願うことしかできない。 瞬とゴールディ、二人(一人と一頭)の運命を変えることはできない。 では、自分は どうすればいいのか。 何を願えばいいのか――。 感情も意思も持っているのに、獣であるがゆえに、ゴールディは自分の欲心にのみ従って、好き勝手をしている。 氷河はゴールディが憎らしくてならなかった。 いっそ ゴールディの死を願ってやろうかとさえ、氷河は 半ば以上本気で思ったのである。 そんなことをしたら 瞬が悲しむことが目に見えているし、『氷河と瞬が結ばれると 世界が滅びる』という運命を覆すことができなくなるので、それは 願うことの許されない願いだったが。 悩んで――悩みに悩み抜いて 答えに辿り着けず、氷河の足は いつのまにか ふらふらと瞬の許に向かって歩き出していた。 氷河が そこにいることに気付いた瞬が 嬉しそうに瞳を輝かせ、近付いてくる金髪の男が 自分の恋敵であることを 野生の勘で感じ取ったらしいゴールディが 低い呻り声を洩らして、氷河に牙を剥く。 「ゴールディちゃん、大人しくして。氷河は敵じゃないよ。氷河は いつも、誰にでも、とっても優しいの」 ゴールディは瞬の言葉を理解することはできないのだろう。 だが、瞬の心は わかる。 そして、事実――氷河が 実は“いつも、誰にでも、とっても優し”くないという事実――も わかる。 わかる事柄の矛盾に、ゴールディは大いに混乱し、困惑したらしい。 困惑し――最終的にゴールディは、氷河への敵愾心を剥き出しにしつつ、大人しくしているという対応方法を選んだようだった。 瞬を奪われることがないよう、その胴体と尻尾で 瞬の身体を囲い込み、氷河に向かって牙を剥き、だが、爪は出さない。攻撃もしない。 それが、恋敵に対するゴールディの最大限の譲歩らしかった。 そんなゴールディと瞬の前で、氷河は これまでの経緯を語ったのである。 『氷河と瞬が結ばれると 世界が滅びる』という神託がヒュペルボレイオスに下ったこと、その運命を覆すために運命の女神たちを訪ね、既に定められた運命を変える願いを願う力を与えられたこと、その力で 二人の運命を変えるべくエティオピアに向かったら この生贄騒ぎ。 瞬を取り戻すためにアテナ神殿までやってきたというのに、自分はどうすればいいのかが わからなくなり、その進むべき道を見失ってしまったこと。 自分は どうすればいいのか。 どうすれば、二人の恋は叶うのか。 その答えが見付からない。 その答えを、その道を指し示してくれと、氷河は 瞬に告げた――救いを求めたのである。 「氷河……」 氷河の話を聞き終えた瞬が、どうして こんなに澄んで優しい瞳が 人間のものであり得るのかと 神に問いたくなるような瞳で、氷河を見詰めてくる。 優しい目、優しい声で、瞬は、 「ありがとう、氷河。僕のために」 と言った。 そして、氷河に尋ねてくる。 「氷河。その願いは、氷河が自分に対しても願うことができるの?」 「運命の女神たちは、できないとは言っていなかった」 「なら簡単だよ。迷うことはない」 氷河が八方ふさがりと思い、進むも退くもできずにいる この状況。 しかし、瞬は何も迷っていないようだった。 ただの一瞬も迷った様子を見せず、瞬は氷河に 彼が 今 何を願うべきなのかを知らせてきたのである。 「僕を忘れることを、自分に願って。そして、僕のことを忘れて、氷河は幸せになって」 と。 |