「沙織さん、いったい どうしたんだ。あの壁画に描かれているのは、本当に神の言語なのか?」
女神アテナの不吉な緊張の原因は何なのか。
壁画に記されているものは 本当にギリシャの神々による滅びの予言なのか。
いったい女神アテナは何を恐れているのだ――。
学者先生が城戸邸を出ていったと確信できるだけの時間の経過を待ってから、星矢は沙織を問い質した。
そこに、何も知らない瞬が――神の言語も滅びの予言も知らない瞬が――顔を覗かせてくる。
氷河とのツーリングデートから帰ってきたばかりの瞬の表情は明るかった。
客間にいる沙織と仲間たちの緊張、緊迫した空気に すぐに気付き、訝り、明るく首をかしげる。

「あれ? みんな、どうして こんなところにいるの? 今日は珍しくアポイントメントが一つも入っていなかったから、僕、外出しちゃったんだけど……。お客様があったの?」
アテナの聖闘士と人類の未来は 希望に満ちている。
そう信じている瞬の明るさ。
そんな瞬を見詰める氷河の、一見 冷たく無感情だが その奥には激しく大きな炎を燃やしているような恋する男の眼差し。
氷河と瞬が その場に運んできたものは、アテナの聖闘士たちの日常――アテナの聖闘士たちが慣れ親しんだ日常の空気と光景だった。
その日常の中で 冷静に考えてみると、学者先生の仮説は あまりに荒唐無稽にすぎると思うことができる。
実際、星矢は そう思ったのだ。

「こんな時に限って おまえがいないから、俺と紫龍が立ち会いたくもない席に立ち会うことになっちまったんだぞ! ったく、とんでもない誇大妄想狂だったぜ。すっかり毒気に当てられちまった。富士山、登ってきたのか?」
すっかり ご機嫌斜め状態の星矢の前に、瞬が 済まなそうな様子で、土産のフジヤマクッキーを差し出す。
デートに出掛けていった先から 家人のための土産を買ってくるあたり、瞬は どこまでも気配りの人だった。
「バイクじゃ頂上までは登れないから、予定を変更して、あの辺りの洞窟巡りをしてきたの。鳴沢氷穴とか 富嶽風穴とか 竜宮洞穴とか――洞窟の中は 寒くて、夏なのにツララがいっぱいで、水が綺麗で、とっても楽しかったよ。誇大妄想狂って……お客様は誰だったの」

沙織を訪ねてきた今日の“お客様”が、いかにたちの悪い“お客様”だったか。
目一杯 瞬に知らせてやろうと意気込んだ星矢が 口を開く前に、
「なんだ、これは」
氷河が 客間のテーブルの上にあった写真を手に取り、眉をひそめる。
どう考えても 意識して持ち帰らなかった学者先生の忘れ物を示されて、星矢は ぷっと頬を膨らませた。
「先日 世界遺産に登録されたアテナイ壁画の写真だとさ。今日の お客様の学者先生によると、それは 神の言語で書かれた滅びの予言らしい」

「神の言語で書かれた滅びの予言?」
星矢の返事を聞くと、氷河は更に眉をひそめ――眉間に深い縦皺を1本 刻んだ。
珍妙な顔で、氷河がその写真を瞬に手渡す。
「世界遺産らしいぞ」
世界遺産帰りの瞬は、氷河から手渡された写真を一目見て――もとい、すべてを念入りに観察して――瞬は その頬を蒼白にした。
写真を持つ瞬の手と指先が、小刻みに震え始める。

沙織だけでなく、瞬までも。
星矢は、せっかく戻ることのできた日常から 再び 狂気の世界に引き戻されてしまったような、嫌な気分に支配されることになったのである。
瞬は何かを知っているのだろうか。
冥府の王ハーデスと同化していたことのある瞬。
瞬は その際、ハーデスの中にある神の思考や知識に触れることがあったのではないだろうか。
色々な考え、可能性が、星矢の頭の中で渦巻き始め、それは今にも嵐になる様相を呈し始めていた。






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