うん。 わかりつつあるわよ。 氷河様が、他人を眼中に入れることが滅多になくて、私も 眼中に入れてもらえない人間の一人だってことは。 氷河様は、大多数の人間に優しくない。 わかってるわよ、そんなことは。 でも、でもね。 私が氷河様を贔屓にしているのは、氷河様を優しくないと思うことができずにいるのは、私が 氷河様に初めて会った時の印象が強烈すぎたせいなのよ。 初めて城戸邸に来た時――粗忽者の私は、このお屋敷に使用人専用出入り口があることを知らなくて、立派な玄関に びくびくしながら、正面玄関のベルを鳴らしちゃったのよね。 その時、この家のドアを開けてくれたのが氷河様だった。 氷河様は、両開きの開き戸になっているオークの扉を、私のために 大きく開けてくれたの。 「おかえり、瞬」 って言いながら。 あの時の氷河様の優しい笑顔。 忘れようと思ったって忘れられるものじゃない。 綺麗で、やわらかくて、温かくて、まるで『君が来るのを どんなに待っていたことか』って言ってくれてるみたいな優しい笑顔。 こんなに優しい目で人を見詰めることのできる人が、この世にいるなんて。 そう思ったわ。 そう思って、感動した。 人違いだってことは、すぐに――ううん、最初から わかってたんだけどね。 たかが、新たに雇われたばかりの使用人一人。 大きなお屋敷の立派な玄関に圧倒され おどおどしてる、未熟で未完成な無一物同然の小娘一人。 自分が誰かに こんなふうに待ち焦がれられてるはずがないって、もちろん私には ちゃんと わかってたわよ。 氷河様が優しさ全開の笑顔で迎えようとしていたのは 私じゃなく、『瞬』という名前の人――瞬様だったことは。 わかってたけど。 綺麗な人の優しい眼差しにびっくりして、私は しばらく呆けていた。 もう、馬鹿みたいに ぽかーんと口を開けて。 優しい笑顔を、優しい笑顔のまま凍りつかせている氷河様に、私が、 「今日から こちらに お勤めさせていただくことになりました鈴木です」 って言って 深々とお辞儀をしたのは、だから、氷河様の『おかえり、瞬』のあと、不自然なくらい長い時間が過ぎてからだった。 そうして 私が顔をあげたら、そこに 笑顔を消し去った氷河様の変な顔があった。 変な顔――すごく変な顔。 今なら わかる。 なぜ氷河様が あの時 あんなふうに変な顔をすることになったのか。 冷たくさえ感じられる氷河様の無表情を見慣れてしまった今の私になら、その訳は嫌でもわかる。 どこの誰とも知れない小娘に、見られたくなかったものを見られた。 見せるはずじゃないものを見せてしまった。 氷河様は 多分 あの時、ものすごく きまりが悪かったんだと思う。 学校では いきがってる不良ヤンキーが 冷たい雨の中で捨て猫を拾ってるところを、クラスメイトに見られた気まずさみたいな――そんなものに、あの時 氷河様は囚われていたのよ。 もしかしたら 氷河様は、あの時、どこの馬の骨ともしれない人間に 弱みを握られてしまった――くらいのことを思ってたのかもしれない。 そう思ったから――自分の弱みを握っている相手を 怒鳴って追い払うこともできず、氷河様は 変な顔をして、その場に突っ立ってることになってしまった。 おかげで私も、自分が どうすればいいのかがわからなくて、もじもじしながら その場に棒立ち。 そんな私と氷河様に気付いたメイド頭さんが、 「まあ、あなた、鈴木さん、正面玄関から入るなんて! メイドは使用人口から――ここを出て 右手にまわったところにある入口から入ってちょうだい!」 って、私の粗忽を叱ってくれた時には、この棒立ちの お見合い状況から やっと解放されるって、私は正直 ほっとした。 「いいじゃないか。もう入ってしまったんだから。使用人口にまわっていたら、遠回りになる」 氷河様が そうおっしゃってくださったのは、私のドジを自分の管理監督責任に関わることと思って恐縮しているメイド頭さんのため。 そして、見せたくないものを見せてしまった相手への気まずさのせい。――だったのかな? その時、私は、氷河様を すごく優しそうな人だと思ってたから、優しい人が優しいことを言ってくれただけだと思い込んで、その優しさに普通に感謝しただけだった。 「そうですか……? では、お言葉に甘えさせていただきます」 そう言って、メイド頭さんが、自分についてくるよう、私に手招きをする。 あの時 メイド頭さんは きっと、珍しいこともあるものだって、氷河様の 氷河様らしからぬ気遣いを訝ってたんだろうな。 でも まさか、『氷河様は 普段は こんなふうにメイドに気を遣うような人じゃないのに』なんて言うわけにもいかず、内心 いろいろ困惑してたんだろう。 メイド頭さんは、私を私の部屋に案内する道すがら(“廊下すがら”って言うべきかな?)、今日は1週間ほど前から 一人で旅行に出ていた瞬様が帰ってくる予定の日で、氷河様は朝からずっと そわそわして瞬様のお帰りを待っているんだと、氷河様の事情を私に説明してくれた。 詳しいことは教えてもらえなかったけど――メイド頭さんも正確なところは聞かされていないふうだったけど――あの時 瞬様はアフリカに行っていたらしい。 |