素敵な ご主人様方、素敵な職場。 そんなこんなで本採用。 自分では意識してなかったけど、私は 多分、浮かれて、どこか緊張感を欠いていたのよね。 無事に本採用の運びになったことを先輩方に お祝いしてもらった翌日、名実共に城戸邸のメイドになった初日、私は私の粗忽の才能を遺憾なく発揮することになってしまったんだから。 それは ごく些細なミス――誰でも しでかすドジ。――と思うことができていたかもしれない。 私が そのミスを犯したのが、この お屋敷に来て1、2週間の内のことだったなら。 でも なにしろ、本採用になった初日のミス。 得意の絶頂から 急転直下の奈落落ち。 幸先が悪すぎて、私は思い切り 落ち込むことになったのよ。 城戸邸の庭の緑の芝生。 背丈が1メートルほどのコデマリの低木は、へたり込んでいた私の姿を隠してくれていた。 そのはずだった。 そう思っていたから、花が終わった緑のコデマリの木の上から、 「どうかなさったんですか」 って瞬様の お声が降ってきた時、私は、絶対 見付からないだろうって思っていたところを 隠れんぼの鬼に いちばんに見付けられちゃった子供みたいに びっくりした。 びっくりして立ち上がることもできずにいる私の前で、瞬様までが芝生に膝をつく。 それで私たちの視線の高さは、ほぼ同じになった。 あ、ちなみに、瞬様はメイドに対しても いつも丁寧語よ。 瞬様は10代半ば、城戸邸の使用人たちは みんな成人してるから、瞬様はそれが当然だと思っているみたい。 「あ、いえ、仕事で失敗して、ちょっと自己嫌悪で落ち込んじゃって――」 やだ、私のバカ! 『仕事が一段落したんで、休憩時間をもらえたんです』とでも言って ごまかせばよかったのに、なに ほんとのこと言ってるの! これじゃあ、瞬様に、『私はドジで間抜けな粗忽者です』って告白してるようなもの。 瞬様に 呆れられちゃうわ。 他の誰かなら まだしも、よりにもよって瞬様――私が こんなふうになりたいって思ってる瞬様に。 でも、誰にも見付からないって思ってたところを見付けられて慌ててた私は、咄嗟に うまい嘘が言えなかったのよ。 瞬様が、少し首をかしげて、私に、 「失敗? お皿かカップでも割ってしまったんですか?」 って訊いてくる。 う……図星。 「いえ、あ、はい、そんなとこです……」 『そんなとこ』って言うか、その両方。 私が割ったのは。カップとソーサーとケーキプレート。 それも ご丁寧に、6個セットの中の1つずつ。 メイド頭さんも 呆れてたわよ。 『念入りに割ってくれたものだこと』って。 せめて、カップかソーサーかケーキプレートのどれか一つだったなら、同じように6個セットの内の1セットが使えなくなるのでも、“念入りなドジ”じゃなく“ただのドジ”で済んだのに。 ああ、もう、自分の完璧なドジに、溜め息もでない。 こういうことだけ完璧でどうするの、ほんと。 情けなくて顔を伏せた私に、瞬様が、 「とても ありふれたことを言っていいですか」 と、重ねて尋ねてくる。 「あ、はい、どうぞ……」 私は、ここでもまた、完璧に間抜けな答えを返した。 瞬様は、唇に微笑、目許に優しさを浮かべて、 「形のあるものは いつかは壊れるものです」 って、言った。 うん。本当に ありふれた慰めの言葉だわ。 陳腐すぎて、慰めにもなってない。 でも、瞬様に言われると、なぜか反発心が湧いてこなくて、『そうですよねー』って素直に思えるのよね。 まさか本当に『そうですよねー』なんて言うわけにもいかないから、代わりに私は 私の罪の詳細を瞬様に懺悔した。 「でも、特別なお客様用のセットの中の1つだったので……」 私が壊したのは、ケーキプレートとティーカップとソーサーが各6ピース、飾り皿が2ピース、ティーポットとシュガーボウルとクリーマーが1つずつ、合計23ピース、180万円のセットの内の1セット。 多分、金額にすれば20万円相当分。 でも、あの手の食器はフルセット揃っているのと揃っていないのとでは価値が全然 違ってくるわけで、私が やらかしたドジの損失額は20万円じゃ済まない。 どうせ割るなら、もう少し お安いものか、セットじゃないものにしておけば、まだ救いもあったのに。 長い溜め息を洩らした私の前で、瞬様は軽く縦に首を振り、それから横に振ってみせた。 「予備があるでしょう。予備のカップやお皿の出番を作ってあげたと思えばいい。もし予備がなかったのなら、予備を用意しておくことの重要性を認識するのに役立ったと思えばいい。今後のためになったと考えればいいですよ。壊れたものを悔やんでも どうにもなりません。田中さんにも、あまり気にしないように、それとなく言っておきますね。たかが食器のことですから、沙織さんへの報告も不要だって」 「瞬様……」 さすがは瞬様、ちゃんと わかってらっしゃる。 ほんと、多方面に気配りができるというか、気遣いができるっていうか、さすがとしか言いようがない。 そうなのよ。 割った食器の代金を弁償させてもらえるのなら、いっそ その方が気が楽なんだけど、悪意のない業務上のことだから、それはできない。 契約上 そうなっているから、弁償はしなくていい――できないんだって。 でも、損失は損失だから――。 私が落ち込んでるのは――私が恐れているのは、割った食器の損害賠償を求められることじゃなく、私たちの管理監督者である田中さんの責任感の強さなのよ。 責任感の強い田中さんは きっと、弁償もできない私のミスの責任を 私より強く感じて、私より深く気に病む。 そんな田中さんを知っているから、私としても落ち込まずにはいられなくて。 何もできない自分が不甲斐なくて、申し訳なくて。 でも、瞬様が田中さんに お声をかけてくださるなら、田中さんも少しは心を安んじるはず。 あ、ちなみに、田中さんというのはメイド頭さんのことよ。 「ありがとうございます……!」 私は 初めて心のつっかえが取れた気分になって、芝生の上で居住まいを正し、瞬様に深々と頭を下げた。 そこに突然、 「何をしてるんだ。こんなところで、二人きりで」 っていう氷河様の声が降ってきて、せっかく緊張が解け始めていた私の心は 再び、瞬間冷凍庫に放り込まれたマグロみたいに カチンコチンに凍りついた。 瞬様が 自分以外の人間と二人きりで木の陰に隠れるようにしてたのが お気に障ったみたいで、氷河様のお声は 隠れんぼの鬼じゃなく、本物の鬼のそれみたいだった。 まるで親の仇でも見るみたいに、私を睨んでくる。 私はといえば、ヘビに睨まれたカエルみたいに 声も出せずに冷凍マグロ状態を維持継続。 音もなく燃える炎みたいに怒っている氷河様の表情を 和らげてくださったのは、やっぱり瞬様だった。 瞬様が、氷河様のお顔を見上げ、やわらかい微笑を作る。 「昔……僕たちが小さな子供だった頃、僕が ここで隠れて泣いてると、必ず氷河が僕を見付けて慰めてくれたなあって、それを思い出してたの」 瞬様に にっこり微笑みかけられたら、さすがの氷河様でも仏頂面の継続は難しい――氷河様だからこそ難しい。 あからさまに頬の筋肉を緩めたりはなさらないけど、でも 私にも わかるくらい はっきりと、氷河様の周囲の空気は優しく和んだ。 「ふん。ここは落ち込んだ時の おまえの指定席だったからな」 言葉は刺々しいままだけど、瞬様の その言葉は、氷河様の機嫌をかなり上向かせたみたいだった。 って、それは ともかく、ここが瞬様の指定席? やだ、私、瞬様の指定席を勝手に占領しちゃってたんだ。 じゃあ、それも、私が氷河様の機嫌を損ねた原因の一つだったのかな。 ここは、氷河様と瞬様の秘密の場所だったんだ。 その秘密の場所に、新参のメイドなんかが図々しく割り込んできたから――。 氷河様が怒るのも当然のことだわ。 ああ、でも、子供の頃の氷河様と瞬様なんて、滅茶苦茶 可愛かったんだろうなー。 そんな子供の頃から一緒だったから、お互いの気心も知れてて、疑いもなく信じ合うこともできて、優しい笑顔を自然に向け合うこともできる。 私が初めて このお屋敷に来た時に 見せてくれたような優しい笑顔を浮かべることも、氷河様は瞬様に対してなら 当たりまえのことみたいにできるんだ。 氷河様が今 あんなふうな笑顔を見せてくれないのは、私というお邪魔虫がいるから。 『おかえり、瞬』――二人きりなら、今だって 氷河様は あの時と同じ、とびきり優しい笑顔を浮かべているはず。 なんか――そう思ったら、私は切なくなってきた。 もう一度――たった一度だけでいいから、氷河様、あの時みたいに私に優しく笑いかけてくれないかなー……って、私は そう思ったの。 |