「どうしよう……ほんとに どうしよう……」
瞬様の あんなに綺麗な手に、もし火傷の跡が残ったりしたら、きっと私は氷河様に憎まれる。
瞬様は 多分、私を許してくれるわ。
命を失くしたわけじゃないんだからって、そんなことを言って、瞬様は きっと笑って私を許して下さる。
でも、だからこそ――瞬様が私を責めない分、氷河様は私を憎むわ。
そんなことになったら――そんなことになったら。
『おかえり、瞬』
あの時みたいに優しい笑顔を浮かべている氷河様に見詰めてもらうっていう私の願いは、永遠に叶わなくなる。

私は、そんなことを考えている自分に気付いて、情けなくて、みじめで、腹が立ってきた。
こんなことを しでかしておきながら、私は自分のことしか考えられない。
何が『瞬様みたいになりたい』よ。
こんな卑しい根性で、なに図々しいことを考えているんだか。
やだ、もう、やだ、もう。
私なんか死んじゃえ、私なんか死んじゃえ、こんまんま!
……。
……。
……。
そう思う気持ちは嘘じゃない。
嘘じゃないのに、私は きっと本当に死にたいなんて思ってない。
私って、最低だ。
こんな私が、瞬様みたいに氷河様に笑いかけてほしいなんて、よくも望めたもの。
ほんと、死んじゃえばいいのよ、私なんて!


瞬様の指定席で、そんなふうに 私の思考は不毛な堂々巡りを繰り返して――そんな馬鹿なことで、どれくらい私は時間を無駄に費やしたんだろう。
1時間? 2時間? それとも、もっと?
気が付くと、太陽は すっかり西に傾いて、コデマリの木の影は随分と長くなり――その光と影の境界に、氷河様が立っていた。

死んじゃえ、死んじゃえって、自分に言いながら、その実 本気で死ぬ気なんか これっぽっちもない私。
そんな私だけど、もし そこで立っていたのが瞬様だったなら、私は本当に死のうとしていたかもしれない。
それが瞬様だったら、私はきっと自分の卑小さに負けて、ほんとに死ぬか、城戸邸から逃げ出してしまっていた。
それが、私を みじめな人間にする瞬様でなく、私に腹を立てている(はずの)氷河様だったから、かろうじて私は生き続けていられたのよ。

「ここは瞬の指定席だと言ったろう」
氷河様が、不機嫌そうな声で 私に言う。
「すみません」
ほとんど条件反射で――ただの条件反射で、私は氷河様に謝った。
何となく、わかったわ。
氷河様は、瞬様に言われて、ここにやってきた。
私が落ち込んでいるに違いないから慰めてあげてって、瞬様が氷河様に言ってくださって、それで氷河様は ここに来た。
瞬様が ご自分で ここにいらっしゃらないのは きっと、瞬様に罪悪感を抱いているだろう私を気遣ってのことで……ああ、もうやだ。
どうして あんな方が この世に存在するの。
瞬様みたいな人がいるせいで、私は 私の醜さに気が狂いそうよ!
……まあ、私が そんなことを思うのも、所詮は言葉の上だけのことで、私は 本当に狂ったりなんかしないんだけどね。
だって私は 瞬様と違って、誰より自分が可愛い、ごく普通の人間なんだから。

そんなことを考えて自己嫌悪に浸っていたら、私の気持ちは大分 落ち着いてきた。
たとえ氷河様が 瞬様に言われて ここにいらしたのだとしても、まさか氷河様が『元気を出せ』なんて、私に言ってくれるはずもない。
私は、氷河様に罵詈雑言を浴びせかけられる覚悟を決めた。
決めた――んだけど。
氷河様が口にしたのは、なんだか すごく思いがけない言葉だった。
氷河様は、
「おまえ、瞬の真似をしていないか」
って、私に尋ねてきたの。
見事に実の伴わない猿真似だったけど、真似をしていることが氷河様にもわかるくらいには、私は瞬様を真似できていたんだ。

でも、ここで『そうです』なんて答えられるほど、私の面の皮は厚くない。
私が無言で俯いてると、氷河様は また訳のわからないことを言ってきた。
「瞬は、皆に優しいんだ。おまえにだけ優しいわけじゃない。誤解するな」
って。
「え?」
それって、どういう意味?
どういうつもりで氷河様が私に そんなことを言うのか、その訳がわからず、私は氷河様の真意を確かめるために顔を上げて、氷河様の表情を窺った。
氷河様は、まるで私を憎んでいるような目を私に向けていて――しばらく考えて、私は やっと、氷河様の憎悪の瞳の意味がわかった。
氷河様は、私が瞬様を好きなんだと思い込んで、それで私が瞬様の真似をしてるんだと思い込んで、だから 私を睨んでるんだ。
氷河様は、私を自分の恋敵だと思い込んでる――。

信じられない。
私が――よりにもよって、この私が、氷河様の恋敵?
いったい どこから そんな考えが湧いてくるの。
私が あっけにとられてると、氷河様は更に憎々しげな言葉を重ねてきた。
今度は私にも理解しやすい言葉。
「瞬は、自分の傷など気にしない。貴様が火傷する方が、瞬はつらくて苦しいんだ」
うん。それはわかる。
「瞬様なら、きっとそうでしょうね……」
そう、瞬様は そういう方だ。
いつも自分のことより 相手のことばかり気にかけてる。
「でも、だからつらいんです。瞬様が犠牲になることで、つらい思いをすることになる人間がいることを、瞬様はわかってない」

私ったら、身の程知らずに、なに言ってるんだろう。
瞬様に 思い遣ってもらってる身で、なにを 高慢なこと。
自分の発言の高慢は わかってたんだけど、私は言わずにはいられなかった。
意外や、氷河様が私の言葉に賛同してくる。
「まったくだ。瞬が苦しむくらいなら、俺が死んだ方がましだと思う人間がいることを、瞬は まるで わかっていない。瞬は、本当に傍迷惑な人間だ」
「でも……氷河様は、そういう瞬様がお好きなんでしょう」
「そうだ」

傍迷惑な人だって思ってるのに、それでも氷河様は瞬様が好き。
氷河様の優しい笑顔は、瞬様だけのためにある。
氷河様は、決してそれを私に向けてくれることはない。
私は別に 氷河様に恋しているわけじゃない。
ただ、あの時みたいに優しい笑顔を私に向けてほしいと思ってるだけ。
ただ それだけ。
ただ それだけなのに、私の目から ぽろっと一粒 涙がこぼれ落ちた。
氷河様が、その涙に気付かなかったはずはないんだけど――それが氷河様の、氷河様なりの優しさなのかな。
氷河様は、私の涙に気付かない振りをしてくれた。

「だから、瞬を苦しめないために、強くなろうと思える。そんなふうに影響し合って、人は成長するものなんだと思う。瞬のために、俺は――」
冷たくて、残酷で、瞬様だけを見詰めている氷河様。
氷河様の優しい笑顔は瞬様だけのもの。
瞬様は優しいから――本当に優しいから。
氷河様も瞬様の優しさに救われたことがあるのかな。
だから氷河様は、こんなに瞬様だけをお好きなのかな。

「自分らしさを通すことがいいことだとは思わない。俺は、『自分らしく生きたい』だの『自分という人間は自分一人しかいないから、それだけで存在価値がある』なんていう甘えた考えは大嫌いだ。欠点のある自分を是とすることは、単なる逃げ、ただの弱さでしかない。欠点は直すべきだ。当然だろう」
「……」
その意見には私も賛同するけど、でも、それはどういう意味?
どうして今、こんな場面で、氷河様は私に そんなことを言うの。
――っていう私の疑いへの答えは、私に疑念を抱かせた人から すぐに与えられた。

「だが、自分より上等と思える人間の本質を理解せず、上辺だけを なぞる猿真似は駄目だ。それは おまえに何の益も もたらさない。真似る対象が どれほど優れた人間でも、ただの真似は おまえを成長させない。逆に退行させるだけだ」
って、氷河様はおっしゃったの。
「おまえは――人は、自分で経験し、学習し、自分で考え、自分にとって 最もいいと思える自分の姿を思い描き、そんな自分になれるように努力すべきだ。瞬になれるのは、瞬と同じ経験を重ねてきた者だけだ。だから、誰も瞬にはなれない。おまえは、瞬が これまでに どんな苛酷な経験を重ねてきたかを知らない。それを知ったら、凡庸な人間でいる方が どれほどましかと 誰もが思うような試練を乗り越えてきたんだぞ、俺の瞬は」
って。

氷河様に そう言われて、私は――私は、自分が どういう反応を示せばいいのか、咄嗟に わからなかった。
そもそも氷河様が 私なんかのために、こんなに言葉を尽くしてくださることが意外で。
普段の氷河様は、瞬様以外の人間とは口をきくのも面倒だと思ってるんじゃないかってくらい無口で、言葉だけでなく感情も出し惜しみしてるような方なのに、この長広舌。
私の猿真似が それほど気に入らなかったのだとしても、だとしたら なおさら、『みっともないから、やめろ、この馬鹿』で済む話なのに。

氷河様の おっしゃることはわかる。
その通りだとも思う。
実が伴っていないなら、上辺だけを似せたって、人は その人にはなれない。
グレース・ケリーそっくりに整形したって、私が あのクール・ビューティーになれるわけはないし、マリリン・モンローそっくりに整形したって、私が 永遠のセックス・シンボルになれるわけでもない。
そんなことは わかってる。

氷河様は根本的に誤解なさってるのよ。
氷河様は、私が瞬様を好きで、少しでも瞬様に近付きたいと考えて 瞬様の真似をしているんだと思ってらっしゃる。
それは とりも直さず、自分の成長を望んでのことだと思ってらっしゃる。
でも 私は、そんな立派なことを考えているわけじゃなくて――私の目的は、自分の成長向上なんて崇高なものじゃなくて、『氷河様が瞬様に向けるような優しい笑顔を、私にも向けてほしい』なのよ。
だから、(それは無理な話だっていうことは、もうわかってるけど)氷河様の目を ごまかせれば、それでよかった。
氷河様は、私を買いかぶりすぎてるわ。

それに……瞬様が これまでに重ねてきた苛酷な経験って、凡庸な人間でいる方が どれほどましかと 誰でも思うような試練って、いったい どんな経験なの。
瞬様は まだ10代半ば。
普通なら、これから人生の経験を積んでいく歳。
それなのに。

まあ、自分が世界の中心にいると考えているのが普通の10代半ばにして、普通の大人ぐらいでは足元にも及ばない、瞬様の あの優しさ、思い遣り。
あれは 確かに、尋常でない経験をして、その経験の中で 学習し、自分で考え、自分にとって 最もいいと思える自分の姿を思い描いて、そんな自分になれるように努力して、その上で培われた優しさなんでしょうけど。
その経験あってこその、今の瞬様なんでしょうけど。

ああ、でも、氷河様って、本当に瞬様をお好きなのね。
氷河様にとって、瞬様が どれだけ特別なのか、瞬様を語る氷河様の熱っぽい眼差しを見ているだけで わかるわよ。
この人が 万一、瞬様以外の誰かを優しく見詰めるようなことがあったなら、万一 そんな誰かが現われたなら、私は きっと その人を憎むだろう。
たとえ、それが私自身だったとしても。
『氷河様が瞬様に向けるような優しい笑顔を、私にも向けてほしい』
それが私の猿真似の目的だったのに。
その願いが叶ってしまったら、私は 私を憎むんだ――。

私は いつのまにか、そんなことを考え始めていて――それで、私は、少しずつ 自分の本当の気持ちがわかってきた。
私は、“瞬様を優しく見詰める氷河様”と“氷河様に そんなふうに見詰められ愛される価値のある瞬様”っていう、二人の関係が羨ましくて、憧れたんだ。
『おかえり、蘭』
私は、そう言って いつも優しく私を迎えてくれていたパパとママを 失ってしまっていたから。
私の幸福を願って、私に“蘭”っていう名前をつけてくれた粗忽者のパパとママに、私はもう 永遠に会うことができないから。






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