「そんなんじゃ、おまえ、死んじまうぞ」 それが氷河の口癖だった。 それでも瞬が立ち上がろうとせずにいると、 「そんなに死にたいんなら、勝手に死んじまえ!」 と、怒鳴るのが。 そこまで言われて、瞬はやっと立ち上がる。 とはいえ、瞬は、立ち上がるだけで精一杯。 それ以上のことは――氷河に拳を打ち込むことはおろか、眉を吊り上げている氷河の顔を見上げることさえ、瞬にはできないのだが。 身体が動かないのではない。 身体は そこまで傷付けられてはいないし、疲れ果てているわけでもない。 動かないのではなく、動けないのだ。 自分の前に立っている氷河が恐くて。 それは いつからだったか――氷河が城戸邸にやってきた当初からだったのか、それとも 瞬がそう感じるようになる何らかの きっかけがあったのだったか――ともかく、瞬は 氷河が恐かった。 だから 瞬は、できるだけ彼と視線が会うことがないように、氷河の前では いつも顔を伏せている。 もっとも それは大抵の場合、逆効果。 瞬が顔を伏せ、兄や仲間たちの陰に隠れているのが 癇に障るのか、氷河は そのたび目ざとく瞬を見付けて、組み手の相手をするように命じてくる。 拳を交えるのも恐いが、氷河の求めを拒むことは もっと恐い。 瞬は氷河と実戦練習を開始する前から 瞳を涙でいっぱいにして、びくびくしながら氷河の前に立つ。 それが、氷河と瞬の日々の やりとりだった。 同じようにトレーニングに誘われても、組み手の相手を求められても、瞬は それが兄や星矢たちなら恐くはなかった。 嬉しいわけではないが――むしろ 嫌ではあるのだが――恐くはない。 だが、氷河だけは恐いのだ。 なぜ そんなふうに思うのか、なぜ そんなふうに感じるのか、そんな自分が 瞬はずっと不思議でならなかった。 「おまえ、なんで、氷河ばっかり そんなに恐がるんだよ」 「だって、氷河は――『死ね』って、僕を怒鳴るんだもん」 「ほんとに 死ねって思ってるわけないだろ」 「だったら、氷河は なんで あんなこと言うの」 氷河は ここにはいないのに、氷河の名を口にし、氷河の話をしているだけで、瞬の瞳には涙が盛り上がってくる。 そんな瞬を、星矢の隣りにいた紫龍が、城戸邸にいる他の子供たちの誰よりも大人びた目で 見おろしてきた。 「おまえが ここにいる子供たちの中で いちばん危なげに見えるから――おまえに 死んでほしくないからだろう」 「え……」 「氷河は、親の顔を知らない俺たちと違って、母親の死を見ているからな。あいつは 人が死ぬのを二度と見たくないと思っているんじゃないか?」 「……」 氷河の母が 氷河を守るために 氷河の目の前で死んでいったという話は、瞬も知っていた。 母の死の直後に この城戸邸に連れてこられた氷河は、最初の1週間ほど、誰とも ほとんど口をきかなかった。 世界のすべてを憎み、あるいは世界のすべてに関心がないような目をして、すべての人間を、すべての物を拒んでいた。 あの頃の氷河は、他人が自分に近付くことを無言で禁じていた――瞬の目には そう見えた。 その姿が あまりに つらそうで、痛そうで、苦しそうだったので――ある日、瞬は誰も近付いていこうとしない氷河に、勇気を奮い起こして近付き、話しかけてみたのである。 「氷河、痛いの?」 と。 もしかしたら 城戸邸に来て初めて 自分と同じ子供に話しかけられた氷河は、一瞬 驚いたように大きく瞳を見開いて(氷河の瞳は綺麗な青色をしていた)、 「俺に構うな!」 と、瞬を怒鳴りつけてきた。 その声の刃物のような鋭さに震えあがり、瞬は すぐに兄の背後に逃げ込んだのである。 なのに――『俺に構うな』と言ったのは氷河だったのに、やがて氷河は、どういうわけか やたらと瞬を構うようになり、それは今も続いていた。 『人が死ぬのを二度と見たくない』 それが氷河の真意なら――それが氷河の真意なのだとしても――ならば なおさら言い方というものがあるではないか。 せめて、『死んじまうぞ』ではなく『死んだら どうするんだ』、『勝手に死んじまえ』ではなく『死ぬな』と言ってくれたなら、自分は ここまで氷河を恐いと感じることはないかもしれないのに――。 瞬が そう思った時だった。 氷河が城戸邸の2階の子供部屋の窓から庭に落ちて 大怪我をした――そんなことを わめき散らしながら、城戸邸の大人たちが廊下や庭を せわしなく行き来し始めたのは。 |