氷河の怪我は出血の割に重傷ではなかったらしい。 氷河が 窓から地面に落下した時、子供部屋の窓の下には、なぜか 絶対に そこにあるはずのない 死神の武器のような鎌があり、その刃が氷河の右上腕部の皮と肉を切り裂いた。 そのため多量の出血を見ることになったのだが、骨には特段の異常もなく、鎌が傷付けた部分以外には擦過傷一つない。 というのが、城戸邸の子供たちに仔細を知らせようとしない大人たちの会話を盗み聞いて、星矢が入手してきた氷河の怪我に関する情報。 星矢の諜報活動は精確で、実際 氷河は その日の夕方には、腕をギプス包帯で覆って 病院から城戸邸に帰ってきたのだった。 「光り物好きのカラスのせいらしいんだけどさー。氷河のマーマの形見のロザリオが なんでだか 窓際の楡の木の枝の端に引っかかってたんだと。氷河は それを取ろうとして 窓から身を乗り出して、見事に 下に落ちちまったらしい」 骨は折れていない――とはいえ、利き腕に大量の出血を生む怪我をしたのである。 氷河は平気そうな顔をして 仲間たちの前に姿を現わしたが、氷河の肩から上腕を覆った包帯の白さを見ただけで、瞬は泣きたい気持ちになってしまったのだった。 氷河の痛みが二人の間にある空気を辿って伝わってくるかのように、自分の腕が痛い。 刃物で切り裂かれでもしたかのように、腕と胸が痛む。 瞬は、なぜ氷河が この痛みに耐えることができているのかが、まるで理解できなかった。 むすっとした顔で、誰に話しかけることもなく、休憩室の壁に並べられている籐椅子に、氷河が腰を下ろす。 瞬は 恐る恐る 氷河の側に歩み寄り、半泣き状態で彼に尋ねた。 「氷河……い……痛い?」 「別に。へっちゃらだ、こんなの」 そんなはずはない。 「痛いでしょ」 「痛くなんかない」 氷河は懸命に その痛みに耐えている。 「でも……」 痛くないはずがないのだ。 怪我をした氷河を見ているだけの自分でさえ、こんなに痛いのだから。 だというのに、なぜか氷河は、頬を青ざめさせている瞬に『痛くない』と言い張り続けた。 「しつこいな! 痛くなんかないって言ってるだろ!」 いらいらしたように不機嫌な声で、氷河が瞬を怒鳴りつけてくる。 その声の鋭さに、瞬は びくりと大きく身体を震わせた。 痛いのなら痛いと言えばいいのに、どうして氷河は正直に言ってくれないのか。 その思いが 瞬の瞳の中に溜まっていた涙を頬の上に押し出してくる。 自分の涙が 氷河の機嫌を損ねることを知っている瞬は、慌てて 氷河と仲間たちのいる休憩室を飛び出したのである。 そのまま、瞬は 城戸邸の緑の庭の隅にある沈丁花の低木の陰に逃げ込んだ。 「痛いよ……痛い……こんなに痛いのに、どうして……」 こんなに痛いのに どうして、 氷河は泣かないのか。 氷河が泣かないから、自分が泣くことになるのだ――。 瞬は、そう思った。 瞬とて、わかっているのである。 怪我をしたのは氷河で、自分ではない。 だから自分が痛みを感じるはずはない。 自分の腕が痛むとしたら、それは錯覚で、自分は勝手に泣いているだけ。 それは わかっている。 だが、わかっていても、痛いものは痛いし、涙が止まらないのも事実なのだから、仕方がない。 涙を拭っても、すぐにまた 次の涙が あふれ零れてくる。 芝生の上に へたり込んで、瞬は 懸命に涙を拭い続けていた。 そんなふうにしているうちに、どれほどの時間が過ぎていったのか――。 芝生の上に座り込んでいた瞬の上に、ふいに、 「あの者は、怪我をしている時くらい 牙を剥くのをやめればいいのに」 という声が降ってきた。 これまで聞いたことのない声。 「だ……誰……?」 瞬が顔を上げると、そこに一人の男――大人の男性――がいた。 髪も瞳も身に着けているものも、すべて漆黒。 その黒色が濃すぎて、彼の背後に広がる灰色の曇天さえ、白く輝いて見える。 聞いたことのない声の持ち主は、見たことのない姿の持ち主でもあった。 であればこそ 瞬は『誰?』と尋ねたのに、彼の答えは、 「今はまだ知らなくていい」 という、答えになっていないもの。 “今はまだ知らなくていい”のなら、いずれは知らなければならなくなるのだろう。 ならば、それは知らせてはいけないものではないはず。 にもかかわらず、それを知らせてこない この人は、危険で怪しい人なのだ。 瞬は そう思った。 「ここは、よその人が勝手に入ってきちゃいけないんだよ」 瞬にしてみれば それは精一杯の威嚇だったのだが、黒衣の男は 動じた様子を全く見せなかった。 動じていないどころか、いかなる反応も示さなかった――無視した。 瞬の言葉を無視して、漆黒の男が瞬に問うてくる。 「そなたは何を泣いている。何が悲しいのだ」 黒衣の男と違って、瞬は、問われたことには答えを返さなければならないことを知っていた。 なので、答える。 「氷河が怪我をしたの。痛そうなの」 「あれは、自業自得だ」 「自業自得って何」 「あの者は、そなたの心を弱らせるという、よくないことをした。それゆえ、その報いを受けたのだ」 「心を弱らせるって、どうやって? 氷河はそんなことしないよ」 「あの者は、そなたを怒鳴りつけ続けた。『死ね』などという傲慢な言葉を、そなたに ぶつけ続けた。余でも、他者に『死ね』などという言葉を告げることは滅多にないというのに」 「氷河の『死ね』は『死ぬな』なんだって。紫龍が そう言ってた」 「そなたは本当に そう思っているのか? そう思っているのなら、なぜ泣く。なぜ そのように傷付く。なぜ苦しむのだ」 「え……」 氷河の『勝手に死ね』が『死ぬな』なのであれば、確かに自分は泣く必要がない。 傷付く必要も、苦しむ必要もない。 それは確かに その通りだろう。 だが、瞬は泣かずにいられなかった。 傷付き、苦しまずにいられなかった。 非力で 心弱い仲間に『死ね』と言わずにいられない氷河の心が悲しいから。 見知らぬ黒衣の男は『なぜ?』と問うが、それは瞬には 謎でも不思議でもなく、ごく自然なことだったのだ。 「そなたが 本当に そう思っているのなら、余も あのようなことはしなかったのだが……」 自分が何者であるのかを瞬に知らせてこない怪しい人物は、自分の怪しさを棚に上げ、瞬の言葉を疑っているようだった。 瞬の言葉など信じられないというように、瞬の言葉を嘘と決めつけているような目で、瞬の心を探るように、瞬の顔を見詰めてくる。 「あんなことって……」 「あの者の母親の形見のロザリオとやらを木の枝にかけて、それを取ろうとした あの者が怪我をするように仕向けてやったのだ。痛い思いをすれば 少しは大人しくなるだろうと思っていたのに、あの者は 全く懲りていないようだったな」 「そんな……ひどい……」 「ひどいのはどっちだ。あの者は そなたを傷付け、そなたの心を弱くし、そなたから力を奪っている」 この漆黒の人は、いったい何を言っているのだろう。 氷河が 彼の頼りない仲間を傷付けたから どうだというのだろう。 自分が氷河に怪我を負わせたのだと告げる漆黒の男を、瞬は、いかなる逡巡も覚えずに『嫌いだ』と思った。 「氷河が痛いのより、僕が痛い方がいい。氷河が痛いのはいや」 この黒衣の人は、自分が誰を傷付けたのか、わかっていない。 誰かが傷付き悲しむことで、傷付き悲しむのは その人だけでないことを わかっていない。 『そなたの心を弱らせるという、よくないことをした』 “そなた”の心を弱らせることが“よくないこと”だというのなら、彼は まさしく それをしたのだ。 氷河を傷付けることで、瞬の心をも傷付けた――。 大人は どうして そうなのだろう。 瞬は、彼の考え、彼の心、彼の言葉がわからなかった。 瞬には わからない言葉を、漆黒の男が続ける。 「そなたは 優しく繊細で清らかな心を持っている。その優しさ、繊細、清らかさは、余には望ましく好ましいものだ。だが、優しさ、繊細、清らかさといったものは、時に弱さに通じる。そなたに死なれてしまっては、余が困るのだ」 「どうして あなたが困るの」 人の痛みを自分の痛みと感じることのできない大人は、自分以外の人間の死を つらく悲しく感じることもないはずである。 瞬の疑念は、至極 自然で当然の疑念だったろう。 その自然で当然の疑念に 黒衣の男が返してきた答えは、ひどく奇異で奇矯なものだった。 漆黒の男は、 「そなたは、いずれ余のものになるのだ」 と、瞬に告げてきたのだ。 「ヨノモノ? それは何? 僕はアテナの聖闘士になるんだよ。僕が生きていくには、それしか道がないんだって」 「アテナの聖闘士など……。そんなものになっても、そなたは つらく悲しい思いをするだけだ。そなたは大人たちに騙されているのだ。アテナの聖闘士になれなければ死ぬしかないと、そなたは大人たちに言われているのだろう? だが、そんなことはない。アテナの聖闘士になれなくても、そなたは死ぬわけではない」 黒衣の男が告げる言葉は、本当におかしかった。 『ヨノモノ』が どんなものなのかも理解できないが、『そなたは大人たちに騙されている』という彼の言葉は、それ以上に理解できない――もっとおかしい。 黒衣の男は、まるで自分が“大人”の仲間ではないように言うが、瞬にとっては 彼も立派な“大人たち”の中の一人だった。 大人たちが自分を騙しているというのなら、この人は どうなのか。 彼の言葉は、大人を――彼を――信じるなと言っているも同然の主張だった。 だから――だから、瞬は 彼の言葉を信じることができなかったのである。 「そんなはずないよ。だって、兄さんや氷河は そのために頑張ってる。アテナの聖闘士になるために 頑張ってるんだよ。あなたは、僕だけじゃなく 兄さんや氷河たちまで騙されてるっていうの」 「そなたの兄たちも 所詮は子供だ。子供相手に、大人は本当のことは言わぬ。そして、子供は考えが浅い。言葉の裏を探ることをしない。できない」 「……」 『あなたも 子供に本当のことを言わない大人なのではないの?』 と訊いてみたい衝動に、瞬はかられたのである。 そんなことをして大人の機嫌を損ねると、機嫌を損ねた大人は 瞬だけでなく瞬の仲間たちにまで八つ当たりをして 不機嫌を晴らそうとすることを知っているので、瞬は 沈黙を守ったのだが。 それは ともかく。 『アテナの聖闘士になれなくても、そなたは死ぬわけではない』 それは 瞬にとっては喜ばしい事実のはずだったのに、瞬は その言葉を告げた“大人”を信じることができず、だから 彼の言葉も信じなかった――というより、瞬は彼の言葉を信じるわけにはいかなかったのである。 「僕は兄さんたちと一緒にアテナの聖闘士になるんだ。兄さんに そうしろって言われたから。氷河や星矢や紫龍だって、アテナの聖闘士になるんだよ。だから、僕もアテナの聖闘士になるの」 アテナの聖闘士というものが どんなものなのかを、瞬は知らなかった。 それは もしかしたら この黒衣の人が言うように つらく悲しい思いをするだけのものなのかもしれない。 だが、瞬は、黒衣の男の言葉を信じて、兄たちと異なる道を歩むことはできなかったのである。 そんなことができるはずがない。 だから 瞬は、唇を固く引き結び、自分はアテナの聖闘士になるのだと、黒衣の男に言い切った。 黒衣の男が、分別のない子供に呆れたような目をして、瞬を見おろしてくる。 「きかぬ子だ。では、己が目で、己が心で、確かめてくるがよい。アテナの聖闘士になっても、そなたは つらく、痛く、悲しい思いをするだけ。そんなものになりたいなどと考えは 早々に捨てた方がよいのだ」 言うなり、黒衣の男が その片腕を前方に差し出し、その手で宙を一閃する。 途端に、瞬の目と心は、瞬の身体を飛び出していた。 |