「瞬」
聞いたことのない声が、瞬の名を呼んでいた。
聞いたことのない声――それは 大人の男性の声だった。
自分は死んでないのだろうか。
だから、人の声が聞こえるのか。
それとも、やはり死んだのだろうか。
この声は、天国に住まう人の声なのか。

青く晴れて美しい空。
そう思い、その空の青さに うっとりしてから、瞬は はっと我にかえったのである。
その青が 空の青ではないことに気付いたから。
なぜ それを空だと思ったのか――思うことができたのか。
それは空ではなかった。
空と同じ色をした人の瞳――人間の瞳――だった。
それが あまりに近くにあるせいで――瞬の視界の ほとんどを占めていたせいで――瞬は錯覚してしまっていただけだった。
それは空のように広く深いものなのだと。

その青を、瞬は どこかで見たことがあった。
瞬に いつも『死ぬな』と言ってくれていた人の瞳。
とはいえ、それが氷河の瞳であるはずがない。
瞬の名を呼ぶ声は 氷河のものではなく、大人の男性のものだったから。
しかし、本当に そうか。
この声は、本当に氷河のものではないのか。
氷河と同じ青色の瞳を持つ人が、氷河の他にもいるのだろうか?

そんなはずはない――と、瞬は思ったのである。
氷河の瞳の青色は特別。
その青色を持つ人間は、いつも瞬に『死ぬな』と言ってくれていた人――氷河一人しかいない。
では、この人は氷河なのか。
氷河が大人の声を持つ“大人たち”の一人になってしまったというのか。
あの氷河でも、“大人たち”の一人になってしまうのか――。
そんなはずはない――『そんなはずはない』と、瞬が もう一度 自分に言いきかせようとした時、大人の氷河の声が 瞬に尋ねてきた。

「どうしたんだ、瞬。ぼうっとして」
「あ……」
氷河の特別な青色と同じ色の瞳。
しかし、彼が氷河であるはずはなかった。
彼の瞳は、瞬が これまでに見たこともないほど優しいものだった。
氷河が こんなに優しい眼差しで 彼の力ない仲間を見詰めてくれるはずがないのだ。
だが、氷河でないというのなら、氷河と同じ色の瞳を持つ この人は、いったい誰なのか――。

それを確かめるために、瞬は勇気を振り絞って、その名を呼んでみたのである。
「氷河……?」
「なんだ?」
と、答えは すぐに返ってきた。
その名を自分のものと信じて、いかなる迷いも ためらいもない即答。
この人は やはり氷河であるらしい。
大人の氷河の眼差しが あまりに優しくて、瞬は目が くらみそうだった。

「もう7時だぞ。いつも6時起床のおまえが 俺に起こされるとは、珍しいこともあるもんだ。いい天気のようなのに、今日は雨が降るのか」
そんなことを言いながら、氷河がベッドから起き上がって、窓の方に歩み寄っていく。
起床を促されたのだと思い ベッドの上に上体を起こした瞬は、その段になって、自分が とんでもない光景を見ていることに気付き、我が目を疑うことになってしまったのである。
この場で どんな言葉を発するのが正しい対応なのかが わからなくて、言葉が――意味を成さない声すらも――出てこない。
ただ ぽかんと、瞬は その光景を眺めていた。

とんでもない光景というのは、他でもない。
窓の側に歩み寄っていく 金髪の大人の男の人は、その身に何も まとっていなかったのだ。
部屋着の類はおろか、夜着も、下着すらも 身に着けていない。
子供なら ともかく大人が、人前で、こんな恰好でいていいのだろうか。
何らかの事情があれば、大人が こういう姿を人目に さらすこともあるのだろうか。
瞬は、混乱する頭で そう疑った。
全裸の大人の氷河が、天井から床まで届いているロングのカーテンを勢いよく、左右に開く。
途端に 室内に光が あふれ、瞬は ほとんど反射的に、光の中に立つ氷河の姿から視線を逸らした。

「今日は鷹ノ巣山にトレッキングに行くと張り切っていただろう。野生のリスに触りたいと。早めに出ないと、今日のうちに帰ってこれないぞ」
そんなことを言いながら、大人の氷河が 瞬のいるベッドの側に戻ってくる。
少しだけ――見てみたい気持ちがないわけではないのだが、まじまじと観察するわけにもいかず、顔を伏せたまま、瞬は首を横に振った。
トレッキングや 野生のリスどころではない。
そもそも なぜ氷河は大人の姿をしているのか――子供の姿をしていないのか。
そして、なぜ裸で こんなところにいるのだろう?

ここは おそらく城戸邸の一室である。
入ってはならないと言われていたので 記憶は つまびらかではないが、特別の客があった時に その客に提供していた客用寝室の一つ――だと思う。
記憶の中にある城戸邸より 天井が低いように感じるが、ここが城戸邸であることは、おそらく間違いのない事実――現実である。
さきほど 一瞬だけ垣間見た窓の外の光景も、少し様子が変わっていたような気もするが、見覚えのある城戸邸の庭だった――瞬の目には そう見えた。
だが――確かに ここは城戸邸だと思うのに、瞬の見知っている城戸邸とは 全体の印象が違うのだ。
ここが城戸邸だという確信も持てていないのに、その外に出ていく勇気は 更に持てない。
この屋敷の外には もっと――自分の記憶の中にある それとは違う光景が広がっているのかもしれないと思うと、瞬は とてもではないが そんな未知の世界に飛び出ていく勇気を持つことはできなかった。

「ど……どこにも行きたくない」
「どこにも 行きたくない? 具合いでも悪いのか?」
「あ……」
まさか 『この部屋の外が恐い』などと言うこともできず、瞬は もう一度 同じ言葉を繰り返した。
「どこにも行かない。ここにいる」
ここが城戸邸なのであれば、少なくとも ここにいれば、大人の氷河の裸体以上に 思いがけないものを見てパニックに陥ることはないだろう。
外を見るのは、自分の今の状況を把握してからしたいと、瞬は思ったのである。
否、瞬はそう“思った”わけではなかった。
論理的に そう“考えた”わけでもなく――まるで理解できない この状況の中で、本能的に(あるいは臆病のせいで)、そうした方がいいと“感じた”のだった。
大人の氷河は、瞬の言葉に異議を唱えることはせず、むしろ嬉しそうに瞬に頷き返してきた。

「おまえが そうしたいのなら、俺も その方が嬉しいが。リスより、おまえの方が可愛いからな。リスより おまえに触っていたい。触り心地も、リスなんかより おまえの方がずっといいだろう」
子供の頃は いつも不機嫌な仏頂面をしていたのに、大人の氷河は 妙に明るい――というより、奇妙なほど軽い。
いったい氷河は、いったい何があって、こんなに機嫌のいい大人になってしまったのだろう。
不思議に思って、瞬は ちらりと氷河の顔を盗み見た。
氷河の手が――大人の氷河の手が――瞬の手に触れてくる。
そうされて初めて、瞬は、驚くべき その事実に気付いた。
大人になっているのは、氷河だけではなかったのだ。
ベッドに上体を起こしている自分の膝の上にある手や その脚も、瞬が知っているそれより ずっと長くなっている。
氷河の手が触れている“瞬”の指も――瞬の記憶の中のそれは もっと短かく ふっくらしていたはずなのに、細く長くなっていた。
見たことがある部屋の天井が低く感じられるのも当然のこと。
それは瞬の背が伸び、視点が高くなっていたからだったのだ。






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