(ぼ……僕も大人になってる……? ど……どうしてっ !? ) その疑念に、氷河は答えを与えてくれなかった。 もっとも、それは解しようによっては 答えになっていたかもしれない。 氷河は、 「じゃあ、今日はずっと こうしているか。俺たち アテナの聖闘士は、いつ命を落とすか わからない因果な商売に従事しているんだ。二人でいられる時間を大事にしないとな」 と言って、氷河のみならず瞬までもがアテナの聖闘士になったことを、瞬に教えてくれたのだから。 『僕もアテナの聖闘士になれたの?』と尋ねたら、この人は――この人は、やはり大人になった氷河なのだろうか?――どんな顔をするのだろう。 奇異に思うくらいならまだしも、狂人を見る目を“瞬”に向けてくるかもしれない。 なにしろ、この人(大人になった氷河)は、“氷河”と“瞬”が大人になっている状態を おかしなことだとは思っていない――この現状を あるべき状態だと思っているのだ。おそらく。 では、ここは“未来”という場所なのだろうか。 あの黒衣の男は、『アテナの聖闘士になっても、 つらく、痛く、悲しい思いをするだけだということを、自分の目と心で確かめてこい』と言っていた。 ここは、瞬がアテナの聖闘士になった未来、あるいは、あの漆黒の男が作った『IF』の世界なのか。 いずれにしても、これが正しい世界の在り方と信じ 疑っている様子さえない 大人の氷河に、迂闊なことは訊けなかった。 だが、では、自分は どうすれば、この世界の正体を確かめることができるのか――。 大人の氷河に 奇異の念を抱かせることなく、この世界がどういう世界なのかを確かめる方法を考え始め、その方法を思いつけずに 瞬が悩み始めた時だった。 「……んっ!」 奇妙な――とても奇妙で不思議な短い声が、瞬の耳に飛び込んできたのは。 それが自分の唇から発せられた声だということに気付いて、瞬は戸惑ったのである。 その戸惑いが消えないうちに、瞬の唇は また同じように不思議な声を生んでいた。 瞬に その声を生ませたのは氷河で、自分が そんな声を生むことになった状況を把握しようとした瞬は、人の目に裸体を さらしているのが氷河だけではなかったことに、今になって気付いたのである。 氷河が――大人の氷河が――いつのまにか瞬のベッドの上にあがり、瞬の裸の肩を その左腕で抱きしめていた。 氷河の もう一方の腕の手と指は、いつのまにか大人になってしまっていた瞬の腰の線をなぞっている。 そうすることに どんな意味があるのかは 瞬にはわからなかったが、氷河の手や指の動きは、その意味を瞬に知らせることを焦らすかのように ゆっくりしたもので、そして確かに意味ありげだった。 何のために氷河が そんなことをするのかが わからずにいる瞬に、氷河の手指が 奇妙な感覚を運んでくる。 大人の氷河が触れているのは 大人の瞬の身体の表層なのに、その奇妙な感覚は、どういうわけか瞬の身体の中に生じ、しかも それは徐々に強く大きくなっていった。 これまで経験したことのない奇妙な感覚。 いったいどうして、どうやって、何のために、あなたは こんなことをするのかと、氷河に訊くことくらいは許されるのだろうか――? その質問を言葉にしてしまおうか、やはり やめておいた方がいいのだろうかと、瞬が迷っているうちに いつのまにか、氷河の右の手は 瞬の身体の とんでもないところにまで移動してきていた。 「えっ…… !? 」 もちろん 瞬は、氷河の手を払いのけようとしたのである。 瞬が そうすることができなかったのは、瞬の手足が 瞬の気付かぬうちに、すっかり氷河に自由を奪われてしまっていたからだった。 氷河の手足、指、肩、唇、身体の重み。 それらのものが 瞬に触れ、絡み、忍び込み、重なって、いつのまにか瞬の身体の動きを完全に封じてしまっていた。 氷河のせいで、瞬は自分の身体を自由に動かすことができずにいるのに、氷河は自由そのもので、瞬の身体の あちこちを なぞったり、突いたり、頬擦りをしたり、舐めたりしている。 大人の氷河は、まるで 初めて出会った珍しい玩具を興味津々で弄っている幼い子供のようだった。 大人の氷河は 瞬の何もかもを知り尽くそうとしているかのように 大人の瞬の身体を捏ね返し、這い纏わり、解きほぐそうとする。 この人は何をしているのか、こんな子供じみたことをする人が本当に氷河なのか。 それは遊戯か悪ふざけなのか、あるいは探究心や学究心によって為される実験や探査なのか――。 氷河が何かするたびに、瞬の身体は、その内側に奇妙な疼きを生じ、その疼きを感じる場所が増えていくにつれて、瞬の思考や感情は混乱し、瞬は自分で自分が わからなくなり始めた。 自分が自分でなくなっていく。 考える力が、氷河の指や唇に吸い取られていく。 身体の あちこちに点された小さな灯が、やがて一つの大きな炎になり、自分は その炎に身体のすべてを焼き尽くされてしまう――そんな予感に戦慄して、瞬は叫んでしまっていた。 「や……やだ……放してっ!」 瞬は 大きな声を張り上げたつもりだったのに、実際には その悲鳴は かすれ 弱々しいものだった。 自分は 大人に逆らうことを恐れているのか。 それとも、自分の心とは裏腹に、大人の瞬の身体は 氷河に“放して”ほしいと望んでいないのか。 そのいずれなのか、あるいは第三の答えがあるのか。 瞬の心には わからないのに、大人の瞬の身体は、その答えを知っているようだった。 大人の瞬の身体は、“放して”ほしいと思っている瞬の心に逆らって、氷河に触れられることを喜び、自ら氷河の身体に寄り添い 近付きたがっているようだった。 そんな自分の(?)身体に戸惑うと同時に、大人の氷河が 子供の反抗に対して どんな怒りで応えてくるのかと、瞬は怯えていた。 が、大人の氷河は 子供の反抗に怒るどころか、逆に嬉しそうに瞬に笑いかけてきたのである。 「そんなことができるか。おまえだって知っているくせに」 そんなことを言いながら、氷河は 瞬を放さず、逆に瞬の身体を 自身の方に引き寄せようとした。 「あ……」 『嫌だ』と言いたい。 だが、そんなことを言って氷河に逆らい、あの言葉――『勝手に死ね』という言葉を投げつけられ、本当に突き放されてしまったら――。 こんなふうに、身体の あちこちに無数の火種を散らされたような状態で、今 氷河に突き放されてしまったら、火を消すことも、燃え上がらせることもできず、自分は永遠に中途半端なまま 燻り続けていなければならない。 燃え上がり 燃え尽きるのも恐いが、そうできないのも恐い。 どうすればいいのかが わからず、瞬は ついに泣き出してしまったのである。 だが、瞬は、実は、泣く必要も迷う必要もなかったのだ。 瞬が迷っていても、氷河は迷っていない。 瞬には 最初から選択肢は与えられていなかった。 氷河が瞬の中に入ってくる。 その時、大人の氷河の身体と 大人の瞬の身体がどうなっているのか、子供の瞬には 全くわかっていなかった。 その時、瞬にわかったのは――瞬に認識できたのは、『痛い』という一事のみ。 大人の氷河は 子供の氷河より ずっと穏やかで優しそうだったのに、それは見せかけの穏やかさ優しさにすぎず、大人の氷河は子供の氷河より はるかに獰猛で凶暴な獣だったのだ。 力では敵わないと知りつつ、瞬は、氷河の侵入から逃れようとして 必死に もがいた。 もちろん、瞬の抵抗は 大人の氷河の前に完全に無力、完全に無意味だったのだが。 大人の氷河は、瞬の抵抗など意に介した様子も見せなかった。 自分が一人の無力な人間を痛め苦しめていることを、大人の氷河は自覚してすらいない。 彼には当然 罪悪感もなく――あろうことか彼は、泣いて 喘いでいる瞬の髪を優しく撫で、瞬とつながったまま、瞬の目尻に溜まっている涙を その唇で拭い、 「おまえの泣き虫は 治らないのか」 と低い声で囁くように言い、(おそらく)瞬を からかうために笑った。 大人の氷河には、彼の胸の下で喘ぎ、彼によって身体を引き裂かれかけている非力な人間が 誰のせいで泣いているのか、わからないのだろうか。 そんなことがあるのだろうか――。 氷河を責め なじりたいのに、声を出せない。 瞬の唇と喉が作り出せるのは、間歇的な吐息と喘ぎだけだった。 言葉を作ることができずにいる瞬の耳許に、 「おまえは 本当に可愛い」 と、氷河が嬉しそうに囁いてくる。 氷河に そんなことを言われるのは初めてで、こんなに苦しめている相手に 氷河はなぜそんなことを言うのか――言えるのかが、瞬には全く理解できなかった。 既に混乱していた思考と感覚の中で 更に戸惑った瞬に、氷河が、 「動くぞ」 と、意味を解しかねる言葉を低く告げてくる。 こんなに深く つながってしまった状態で、どう動くというのか。 もはや 尋ねようと思うことさえできなくなっていた瞬に、氷河は更に、瞬には思いがけない言葉を重ねてきた。 「瞬、愛してるぞ」 氷河は、そう言ったのだ。 氷河の思いがけない言葉は、しかも、それだけでは終わらなかった。 まるで その言葉が何かの合図だったように――その言葉が、瞬の身体を痛めつけていることへの償いだとでもいうかのように――子供の氷河からは聞いたことのないような言葉を、大人の氷河は 次から次へと瞬の上に降らせてきた。 「好きだ。本当に、おまえが好きだ。俺は おまえなしでは生きていられない」 「俺は、おまえより綺麗な人間も おまえより優しい人間も知らない」 「わかっているだろう? 俺には 自分の命より おまえの方が大切だ」 「おまえのためなら、俺は何でもする。どんなことでもする。だから、我慢してくれ」 「ああ、本当に好きで たまらない」 氷河の唇が生む言葉が、瞬を驚かせ、瞬を混乱させ、判断力を奪い、意識そのものをも奪っていく。 氷河が『動く』と言っていた言葉の意味を、まもなく瞬は知ることになったのだが、その時にはもう瞬は、痛みを知覚する能力さえ、氷河の甘い言葉のせいで失ってしまっていた。 氷河が瞬の身体の奥深くに突き入り、瞬の肉と熱を抉ったかと思うと 身を引いていく。 氷河が離れていったことに 安堵すればいいのか、その喪失と虚脱を嘆けばいいのかと迷う間もなく、氷河が再び瞬の中に 彼自身を捩じ込んでくる。 緩急の違いはあっても 氷河は常に力をみなぎらせていて、だから痛いはずなのに、瞬は痛みを感じなくなっていた。 氷河に『好きだ』と言われるたび、『愛している』と言われるたび、その言葉に震える心の動きの方が大きすぎて、瞬の心身は痛みを感じている余裕を持ち得なかったのだ。 「あっ……あっ……ああ……! ああ……!」 瞬は やがて、大人の瞬の身体と共に、氷河によって 引き込まれた感覚だけの世界に留まりたいという思いと、早く この世界から解放されたいという思いの間で、ただ翻弄されるだけのものになっていった。 もちろん 瞬の翻弄と迷いは無意味なもので、最初から瞬に選択肢は与えられていなかったのだが。 気が狂いそうになる寸前まで、瞬を その世界に留め置いた氷河は、瞬をその世界から解放する時も 自分で決めてしまい、『いっそ このまま狂ってしまいたい』という瞬の願いを、願いが叶う直前で断ち切ってしまったのだった。 |