「もう一度、言ってくれ。意味がわからん。おまえは今、何と言った? 正気か? 何が起こっただと?」
言葉通りに困惑しきった目を 自分に向けているのが 大人になった紫龍だと、鼻を すんすん鳴らしながら、瞬は理解した。
異様に長く髪を伸ばし、背も高くなっているが、親しい仲間内で 最も東洋人らしい面立ちは そのままで、仲間内で最も落ち着いた風貌も、瞬が知る通りの紫龍。
とはいえ、今現在に限っていえば、彼は ひどく混乱しているようだったが。

「この瞬が言うには、いつのまにか俺が大きくなったと」
「大きくなった? どこがだよ」
露骨に嫌そうな顔をして、氷河を見たのは大人になった星矢。
こちらは子供の頃の面差しや印象が そのままで、瞬にも見間違えようがなかった。
とはいえ、なぜ大人の星矢が 嫌そうな顔をして氷河の(多分)股間を見ているのか、その発言の意味は、瞬には全く理解できないものだったが。

「どこを見ている。そうじゃない。身体の一部ではなく、全体が大きくなったと――大人になったと、瞬は言うんだ」
「は?」
「話を聞いて確認したんだが、どうも、この瞬には、俺たちが修行地に送られる半年前までの記憶しかないようだ」
「……逆向性健忘か?」
「わからん。どこからともなく現われた見知らぬ黒づくめの男に、アテナの聖闘士が どんなものなのかを自分の目で確かめてこいと言われて、気がついたら ここにいた――と言うんだ」
「アテナの聖闘士がどんなものなのか?」
「アテナの聖闘士になっても つらく苦しく悲しい思いをするだけだから、アテナの聖闘士になりたいなどという願いを抱くのをやめろと言われたらしい」
「その黒づくめの男って誰だよ」
「わからん。とにかく 今、瞬の記憶と心は8歳の状態にあるんだ」

大人の氷河が至った結論を聞いて、星矢が ぽかんと口を開け、瞬を――氷河に大人の瞬の服を着せてもらった瞬を――まじまじと見詰めてくる。
星矢ほど 明確に唖然とした様子は見せていないが、紫龍も似たような思いでいるのだろう。
仲間内では状況把握が比較的早く、誰よりも 自身の意見を述べることの多い紫龍が沈黙を守っているところを見ると、おそらく。

「気付かず、最後まで やってしまった」
「氷河、おまえ、それって犯罪じゃん」
状況把握は 紫龍ほど迅速ではないが、状況判断と決断は 誰よりも早い星矢が、言下に言い切る。
「しかし、いつも通りに、ちゃんと感じていたんだ。いや、いつも以上に……確かに どこか ぎこちなかったような気はするが、しかし、確かにちゃんと――」
仲間内では最も口数が少なく、感情の表出も抑えがちなせいで、何を考えているのかが掴みにくかった氷河が、露骨に思案投げ首のていを隠さず、弱りきった視線を瞬に向けてくる。
それで、瞬は また、目の奥が熱くなってきた。

「犯罪者の申告が信じられると思うか?」
紫龍が冷淡に氷河を突き放し、
「それより、この瞬、どーすんだよ! 8歳だあ?」
星矢が 前向きに(?)善後策を講ずる姿勢を示す。
「アテナの聖闘士になっても つらい思いをするだけだと、その男が言ったのか? それを確かめてこいと? その男は名を名乗ったか?」
これは年の功というべきものなのか。
子供には考えられないスピードで態勢を立て直した紫龍に そう問われた瞬は、あの黒衣の男とのやりとりを思い出し、首を横に振った。
「今はまだ知らなくていいって 言ってた。それで 多分、自分のこと、ヨって呼んでた、僕は いつかヨノモノになるんだって」
「自分のことを“余”? 随分と偉そうじゃないか。何がヨノモノだ。瞬は俺のものだぞ」
忌々しげに 口の中でぶつぶつと文句を言う氷河を、紫龍が視線で たしなめる。
氷河を黙らせてから、紫龍は再び瞬に尋ねてきた。

「君はどう思う? 俺たちは――君も、アテナの聖闘士だ。アテナの聖闘士になった俺たちが つらくて苦しくて悲しい思いをしているだけの者たちに見えるか?」
「つらくて 悲しくて 苦しいかどうかは わかんない。でも、痛かった……」
「え? いや、まあ、そうだろうが――」
瞬は 問われたことに正直に答えただけのつもりだったのだが、それは紫龍が求めていた答えとは少々 意味合いが違っていたらしく、紫龍は困ったように くしゃりと その顔を歪めた。

そんな紫龍を横目に見やり苦笑してから、星矢がソファの背もたれに身を投げる。
「瞬は、ガキの頃から、痛いのが苦手だったからなー。あの頃は、俺たちも、なぜ瞬が痛いのが嫌いなのか、本当のところが わかってなかった」
「そうだな……」
星矢の呟きに、紫龍が頷く。
二人は“瞬”のことを話しているようなのに、瞬には 彼が交わしている言葉の意味が よくわからなかったのである。
『なぜ瞬が痛いのが嫌いなのか、本当のところが わかってなかった』
“痛いこと”を嫌うのに 本当と嘘があるのだろうかと首をかしげた瞬に、星矢と紫龍のやりとりよりは意味のわかる質問を、ふいに氷河が投げてきた。

「俺と ああいうことをするのは、もう嫌か」
「おい、氷河。おまえ、なに言ってんだ。それは犯罪だって言ったろ!」
星矢が氷河の腕を掴んで、彼の仲間を なじる。
「身体は、俺の瞬だ」
この事態に憤っていることを隠す素振りも見せず、憤然として、氷河は断言した。
星矢が、そんな仲間に呆れ果て、だが 捨て置くわけにはいかないと考えたのか、必死の食い下がりを見せる。
「身体はそうでも、心は違うの! おまえは そこまで節操なしだったのかよ! 瞬はきっと、何か特殊な力を持った奴に――」
「わかんない……」
星矢と紫龍のやりとりよりは意味のわかる問い掛けだったので、瞬は氷河の質問に答えたのである。
質問の意味はわかっても、答えはわからないということを、正直に。
星矢は、今度は氷河ではなく瞬を 諭してきた。

「おい、瞬。てか、瞬ちゃん。嫌なら嫌だって言っていいんだぞ。それが普通なんだし、へたに曖昧にしておくと、こいつは 本当にまたやりかねない。痛いのは嫌いだろ、心も、身体も」
「……」
大人の星矢の言う通り、瞬は 痛いのが嫌いだった。
心も身体も。
だが、氷河に痛くされている時――。

『瞬、愛してるぞ』
『本当に、おまえが好きだ』
『俺は おまえなしでは生きていられない』
自分の心は痛かったろうか。
恐かったのは確かだが、痛かったろうか。
自分自身のことだというのに、瞬は どちらと はっきり断じることができなかった。

「わかんない……」
わからないので、わからない気持ちを正直に告げる。
「おいおい……嫌じゃないのかよ……」
星矢は 呆れた顔で、大きなソファの中央で身体を丸く小さく縮こまらせている瞬を見おろしてきた。
それは、おかしな答えだったのだろうか。
度し難いものを見るような視線を 星矢と紫龍に向けられて、瞬は もじもじと戸惑ってしまったのである。
瞬には、だが、今は、そんなことより もっと知りたいこと、確かめたいことがあった。
すなわち、
「アテナの聖闘士って、つらいの?」
ということ。
瞬は、そのことを確かめるためにこそ、ここにやってきたはずだった。
星矢より先に気を取り直したらしい紫龍が、瞬に、少し残念そうに頷き返してくる。

「それは もちろん、つらい。アテナの聖闘士がすることは、要するに命がけの戦いだからな。敵は強いし、望んで負ったわけでもないのに 責任は重い。俺たちの敗北は、へたをすると世界の滅亡につながるんだから」
「痛いの?」
「どっちが?」
瞬に尋ね返してくる星矢と紫龍の声が重なる。
瞬は、その反問の意味が理解できず、困惑に眉根を寄せて、大人になった仲間たち――アテナの聖闘士になった仲間たちの顔を見上げた。
星矢と紫龍が、目配せで『どっちが答える?』と尋ね合い、答えてきたのは紫龍だった。

「アテナの聖闘士のバトルは、どっちも――心も身体も痛い。特に おまえには そうだろう。おまえは、自分が倒した敵の痛みも自分のものとして感じてしまうからな」
「その点、氷河とのそれは痛いのは身体だけで、心は痛くないはずだ。おまけに、氷河は おまえにぞっこんで、おまえのためになら何でもするだろうし」
せっかく話題が児童淫行条例から逸れたのに、星矢が それを元に戻したのは、ここで幼い(?)瞬にアテナの聖闘士への余計な(余計だろう)先入観を植えつけたくないと考えてのことだったのだろう。
アテナの聖闘士が どんなものなのか、アテナの聖闘士になるか ならないか、それは これから瞬が自分で様々な経験をし、自分で考え、自分で決断すべきこと。
彼等の仲間である大人の瞬も、そうして アテナの聖闘士になり、アテナの聖闘士として戦うことを決意したのだ。
アテナの聖闘士の戦いが つらく 苦しく 悲しいものだということを――痛いものだということを――知りながら。
「瞬も――大人の君も、氷河の命を守るためなら、何でもするだろう」
紫龍もアテナの聖闘士としての瞬を語るよりは、氷河の恋人としての瞬を語る方が、この場合は“アテナの聖闘士たち”に有益だと考えたのか、星矢の話題変換に乗ってきた。

「氷河は、僕のこと アイしてるって、何度も言ってくれたよ。そしたら、痛いのが どっかに飛んでいっちゃったの」
星矢と紫龍の作為を瞬が不自然に思わなかったのは、今の瞬にとっては、アテナの聖闘士になることも、氷河と“ああいうこと”をすることも 大差のないことだったからだった。
それらは 等しく未知のことで、同じように遠い未来のことだったのだ、今の瞬――幼い瞬には。
瞬の告白に少なからず驚きを覚えたのか、紫龍は 僅かに その瞳を見開いた。
「確かに、これは 俺たちの知ってる瞬ではないな。瞬なら、死んでも人前で こんなことは言わんぞ。少なくとも、俺たちの前では」
「俺にも言わん」
「……そうなのかよ?」
“こんなこと”を氷河にも言わないのは少々問題のような気もしたが、瞬の羞恥心や慎みは 恋人の前でも発揮されるのかもしれないと考えて、星矢は自身を納得させたようだった。

「大人の僕も氷河を好きなの? アイしてるの?」
氷河と“ああいうこと”を経験してしまった今の瞬の中でも、アテナの聖闘士が つらく苦しく悲しいものなのかどうかということより、大人の氷河と瞬の関係の方に、より切実な興味が湧いてきていて――そのせいもあるのか、瞬は 大人の星矢たちを あまり恐いと感じなくなっていた。
縮こまらせていた身体の力を 少し抜いて、瞬は、幼い頃の面影を残している仲間たちの顔を見上げた。
「まあ、そうだろう。大人の瞬は すごく強いんだ。十中八九、氷河より強い。にもかかわらず、氷河を甘やかし放題、何でも言うことをきいてやっているからな」
「瞬がどう考え感じているのかは 俺たちにもわからないが、痛いのが嫌いな瞬が、氷河を気持ちよくするために、自分は痛いのを我慢している――んだろうからな。好きでなければ できないことだろう」
「大人の氷河も気持ちいいの?」
「も?」
星矢が鋭く突っ込みを入れる。
しかし、瞬には、その突っ込みの意味がわからなかった。

「ああ」
もしかしたら星矢以上に困惑して、それでも氷河が瞬に頷く。
瞬は しばし考え込んで、自分の結論を出した。
「氷河が気持ちいいのなら、僕も気持ちよかったと思うよ」
瞬にとって、痛みとは そういうものだった。
それは、自分以外の人間が痛いから――苦しみ、悲しんでいるから――自分も痛くなるものなのだ。
瞬の結論を聞いた氷河が、その結論に息を呑み、まじまじと瞬を見詰め、見おろす。
「この瞬、8歳って言ってたっけ」
「8つで男殺しのテクを身につけているとは侮れない。氷河が いかれても仕方がないな」
星矢と紫龍に からかいの言葉を投げられて、半ば自失したように瞬を見詰めていた氷河は はっと我にかえった。






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