「し……しかし、いつまでも こうしてはいられないぞ。この瞬は戦えないんだろう。俺の瞬はどこに行ったんだ」
「瞬は――大人の瞬の意識と心は、案外 子供の瞬の方に行っているのかもしれないぞ」
「つーか、氷河。おまえ、ガキの瞬に ときめいてる自分に慌ててるのか? この わざとらしい話題変換は照れ隠しかよ」
「戦い……大人の僕は戦うの? 誰と? 地上の平和を守るため?」
氷河にアイしてもらうことができ、“ああいうこと”をして、何度も『好きだ』と言ってもらえるのなら、大人になることは恐くない。
むしろ、早く 大人になりたい。
だが、自分が大人になることと アテナの聖闘士になることが 不可分のことなのだとしたら、それは瞬には大きな問題だった。

「大人の僕は泣かないの? 恐くないの? つらくないの? 悲しくないの?」
「つらくて、苦しくて、悲しいだろう。瞬は いつも泣いている」
「おい、氷河!」
今はまだ言わずにおけと、星矢が氷河の声を遮る。
しかし 氷河は、黙っているつもりはないようだった。
「なのに どうして戦うの」
「俺たちが戦わないと、地上の多くの人が つらくて 苦しくて 悲しい思いをするから――かな」
「どうして 僕たちなの。他の人たちは戦わないの」
「そうだな。他の奴等は戦わないな」
「僕、痛いの、嫌いだよ」
「なら、おまえは聖闘士にならなければいい。それでも おまえは生きていられる」
「おい、氷河!」
「おまえは何をしようとしているんだ!」
氷河はいったい瞬を どこに導こうとしているのか。
察しがつくだけに、氷河に自重を促す星矢と紫龍の表情は――心も――複雑だった。

「事実だ。アテナの聖闘士になれなくても――ならなくても、城戸邸に集められた子供たちは死ぬわけじゃない」
「聖闘士にならなくても生きていられるの?」
「その黒づくめの男が言ったことは事実だ。聖闘士にならなくても、おまえは生き延びることができる。俺たちは、アテナの聖闘士になること以外に 生き延びる道はないのだと信じて、アテナの聖闘士になってしまったがな。ただ、俺は そのことを後悔してはいない」

「……あーあ、言っちまった……」
氷河がアテナの聖闘士になったことを後悔していないのは、瞬もまたアテナの聖闘士になったからである。
アテナの聖闘士にならなければ、氷河は瞬を手に入れることはできなかっただろうから。
氷河が ここで瞬に余計な知識を与えることは、氷河が自分の手で 自分の現在の幸福を放棄することに他ならない――かもしれない。
だから、星矢と紫龍は、氷河に『やめろ』と言いたかった。
しかし、戦いのたびに流される瞬の涙を見続けてきた氷河の気持ちも わかるから――彼等は氷河に断固として『やめろ』と言うことができなかったのだ。

「氷河は聖闘士になるの。聖闘士でいたいの」
「そうだな……」
「どうして?」
「わからん」
「わからないのに、聖闘士になるの。聖闘士でいるの」
「ああ。俺は聖闘士でいる。だが、おまえはならなくていい。痛いのが つらいなら」
「氷河。おまえの気持ちはわかるが、瞬が聖闘士にならなかったら、おまえは 今頃 生きてないぞ。それは わかっているのか!」
たまりかねた星矢が、脇から声を挟む。
氷河が わかっていることは わかっているのだが、氷河の仲間として、星矢は言わずにはいられなかったのだ。
アテナの聖闘士になるか、ならないか。
瞬には、確かに、その いずれかの道を選ぶ権利がある。
だが、瞬がアテナの聖闘士にならないことは 許されないのだ――と。

「僕が聖闘士にならないと、氷河が生きていない――って、それは どういうこと?」
「氷河は何度も大人の君に助けられているんだ」
「ぼ……僕が氷河を助けるの?」
「ああ」
「僕が聖闘士にならないと、氷河は死んじゃうの?」
「かもしれん」
「なら、僕、聖闘士になるよ」
まるで明日の天気を語るように あっさりと、瞬が告げる。
瞬の仲間たちは、あまりに早く提出された瞬の答えに、虚を衝かれた顔になった。
瞬には、だが、それは、迷う必要のない、至極当然の結論だったのだ。

「僕、氷河が死ぬのは嫌だ。それくらいなら、僕が痛い方がいい」
「そうか……」
瞬のためを思って、瞬に笑顔でいてほしくて――そのために誰が どんな忠告をしても、誰が どんな助言を与えても――瞬は結局 その道を選ぶのだ――。
疑いもなく そう信じてしまえることが、瞬の仲間たちの心を切なくした。
氷河のために聖闘士になると決意した瞬が、暫時 考え込んでから、仲間たちに尋ねる。
「僕が聖闘士にならないと、氷河だけじゃなく、みんなが痛い思いをするの? 僕たち以外の 戦わない人たちも?」
「彼等は戦わないのではなくい。その術を持っていないだけだ。だが 俺たちは その力を持っている。その力を手に入れた。ただ それだけだ」
「僕、聖闘士になる」
紫龍の言は、瞬の決意を より強固なものにしたのだろう。
今 氷河たちの目の前にいるのは、彼等が知っている(大人の)瞬と同じ心を持った瞬だった。

氷河が瞬の身体を抱き寄せて、瞬の髪を、瞬の肩を 強く抱きしめる。
「瞬……かわいそうに」
氷河の くぐもった声の呟きに、瞬は 氷河の胸の中で首をかしげた。
「どうして、かわいそうなの? 氷河たちが一緒なんでしょう?」
「ああ、俺たちは いつも一緒だ」
「なら、絶対に大丈夫だよ」
「ああ。そうだな」

本来の瞬でない瞬を抱きしめる氷河の様を見て、本来の瞬でない瞬に対して 氷河は本気でまた“ああいうこと”をやりかねないと、彼の仲間たちは その事態を懸念したのだが、幸いなことに 彼等の懸念は杞憂に終わった。
その健気な決意に感極まったように 瞬を抱きしめていた氷河の腕が、
「それで、あの……兄さんも一緒なんだよね……?」
という瞬の不安そうな声を聞いた途端に、ぴくりと引きつる。
瞬を抱きしめていた腕を解き、氷河は不機嫌そうな声で、彼にとっては忌々しい その事実を瞬に知らせてやることになった。
「奴は殺しても死なない」
「兄さんも生きてるんだね、よかった……」
この場に兄がいないことを、瞬はずっと心配していたのだろう。
兄が生きていることを知って 心から安堵したような笑みを浮かべた瞬に むっとして、氷河は口をへの字に曲げた。

「まあまあ」
全人類の胸を打つような感動の名場面が、独占欲の強い男の小さな嫉妬ひとつで台無しである。
瞬のためになら 自分が命を落とすことになるかもしれない事態をさえ受け入れようとする男が、こんな些細なことで機嫌を損ねる。
いったい氷河は 度量が広いのか 狭いのか。
恋する男の気持ちが、星矢には どうにも解せなかった。

「おまえと一輝が、今は 瞬を間において 犬猿の仲だなんて、瞬に知らせるわけにはいかないだろ。ここは抑えろ」
「うむ。瞬の心は決まったようだし、今はまず、おまえの――大人の瞬を取り戻す方法を考えなければならん」
「その黒づくめの男ってのは やっぱり、地上に仇なす強大な力を持った邪神か何かなのかな。人間の意識を、時間の流れを無視して 本来の肉体から別の肉体に移動させるなんて、サガのアナザーディメンションどころの話じゃねーぞ」
「その男は、自分が何者なのかということは 今はまだ知らなくていい――というようなことを、8歳の瞬に言ったんだろう? 大人の瞬は 何も言ってなかったから、となれば、“その時”はまだ来ていないと考えるのが妥当だろう。“その時”は これから来るんだ」
「十二宮の戦いが終わって、やっと平和な時が来ると思ってたのに、また 新しい敵が現れるのか……。まあ、サガも、地上は常にいろんな神サマに狙われ続けてるみたいなこと言ってから、こんなことだろうとは思ってたんだけどさー」
地上の平和を守るために戦い続ける覚悟はできている。
むしろ、アテナの聖闘士の戦いは始まったばかりなのだということにも、薄々 気付いていた。
しかし、では いったい その戦いは いつまで続くのか。
アテナの聖闘士の前途を思うと、星矢たちは嘆息を禁じ得なかったのである。

「あの……」
そんなアテナの聖闘士たちに、瞬が不安そうな目を向けてくる。
やがて強大な小宇宙を その身に備えることになるアンドロメダ座の聖闘士の、頼りなげな その眼差し。
アンドロメダ座の聖闘士に限らず アテナの聖闘士たちは誰も、戦う術と力を持たない非力な者たちを守りたいという気持ちに突き動かされ、戦う術と力を持たない人たちから力を得て、戦い続ける意思を保ち続けることができているのかもしれないと、瞬の瞳を見て、星矢たちは思ったのである。
今はまだ戦う術と力を持たない非力な瞬の前で、今 星矢たちは――アテナの聖闘士たちは――強い自分であることを何にも増して望んでいたから。
「大丈夫。俺たちは死なないから」
「うん。僕も頑張って聖闘士になる。絶対に挫けない」
「ああ、おまえなら大丈夫」

瞬の健気な決意は頼もしいものであり、瞬は 必ず その決意を現実のものとする。
それはわかっているし、確信もできているのだが、その健気な決意を有効なものにするためには、瞬を元の世界(時間?)に帰さなければならない。
そのためには どうすればいいのか――。
アテナの聖闘士たちが その根本的な問題に立ち返った時だった。
彼等の前で、健気で心強くはあるが どこか頼りない瞬きを繰り返していた瞬が、ふいに大きく瞳を見開き、
「あれ? 氷河が大きい!」
という奇妙な言葉を口にしたのは。
その変化(変位というべきか)が、いかなる前触れもなく、あまりに唐突に行なわれたため、瞬以外のアテナの聖闘士たちは、いったい今 この場で何が起きたのかを、すぐには把握できなかったのである。






【next】