雪と氷の城砦に、瞬は どんな悶着もなく すぐに迎え入れられた。
盛夏のギリシャから そのまま飛んできたような瞬の恰好が 今にも凍えそうに見えて、その砦を守る者を慌てさせたのか、タナトスが言っていたように、どんな力も持っていないことが一目瞭然の瞬の様子が 白鳥座の聖闘士の胸中に油断を生んだのか、あるいは その両方だったのか。
それは瞬には わからなかったが、ともかく 瞬は、純白の世界で何もできぬまま凍え死ぬという最悪の事態だけは免れることができたのである。
ただ、鳳凰座の聖闘士の弟だという瞬の名乗りが、多かれ少なかれ 白鳥座の聖闘士の心情に作用したのは事実のようだった。
氷雪の砦を守る白鳥座の聖闘士は、瞬の兄と全く知らぬ仲ではなかったらしく、それが瞬には幸いしたようだった。

「一輝の弟?」
行方の知れぬ兄を探して ここまで来てしまったという瞬の説明を、砦を守る聖闘士が信じてくれたのは、瞬の兄の性癖を 彼が知っていたから。
手足が剥き出しの、到底 北の国を訪問する者の恰好とはいえない瞬の出で立ちを、彼が不審に思わなかったのも、『あの一輝の弟なら、それくらいの無謀を平気で しかねない』という、鳳凰座の聖闘士への ある種の信頼(?)があったからのようだった。

「一輝の放浪癖は、ほとんど病気だな。アテナが 奴に好き勝手を許しているのは、それが たとえアテナの命令でも、一つところに留まっていられない奴の性癖に、アテナもお手上げ状態だからだろう」
呆れた口調で そう言って、その口調そのままの目で、彼は瞬の出で立ちを見おろしてきた。
「普通の人間なら、そんなふうに手足を剥き出しにした格好で 外に立っていたら、10分ともたずに命を落とすぞ。鳳凰座の聖闘士の弟の面目躍如といったところか。実は おまえも聖闘士なんじゃないのか?」
「ま……まさか。そんな とんでもない。それは もちろん、聖闘士になって兄さんと一緒にアテナと地上の平和のために戦えたらいいなあ……とは思っていますけど」

その願いも、こうして 聖域とアテナに反逆する者として アテナの聖闘士の前に立っている今となっては、ただ空しいだけである。
瞬は、白鳥座の聖闘士の前で 力なく項垂れた。
聖域から遠く離れた北の果て。
それでも アテナの命令を遂行するために、アテナの聖闘士として、後ろめたさ一つなく まっすぐな目をして 非力な反逆者の前に立っていられる白鳥座の聖闘士が、瞬は心底から羨ましかった。

「顔をあげろ」
後ろめたい気持ちいっぱいで顔を伏せていた瞬に、白鳥座の聖闘士が命じてくる。
瞬が 恐る恐る その言葉に従うと、彼は、それこそ瞬の瞳に向かって まっすぐ一直線に、刺すように鋭い視線を投げてきた。
白鳥座の聖闘士の瞳は、抜けるような青空を切り取って作られた宝石のように透き通った青色をしていて、その瞳に何かを探るように凝視された瞬の心は、早く――1秒でも早く、彼から視線を逸らしたいと悲鳴をあげることになったのである。
彼は、鳳凰座の聖闘士の弟の目の中に 裏切者の翳りを見て、自分を粛清しようとするのではないか。
ただちに そこまでのことはしなくても、何らかの疑いの念を抱き、聖域とアテナへの反逆者に尋問を開始するのではないか。
瞬は、そうなる事態を恐れたのである。
にもかかわらず、瞬は 彼の瞳から視線を逸らすことができなかった。

どこまでも続く、晴れて澄み切った夏の青空。
見詰めていると、心が身体ごと吸い込まれてしまうような錯覚に囚われる真っ青な空。
その感覚が不思議に心地よかった幼い日の記憶。
彼に 罪の片鱗を見付けられたくないという気持ちより、この青い瞳を ずっと見詰めていたいという気持ちの方が強すぎて、瞬は どうしても白鳥座の聖闘士の瞳から目を逸らすことができなかったのだ。

白鳥座の聖闘士は――彼も――瞬きをすることすら忘れたように、瞬の瞳に見入っていた。
まるで二人の間の時間が凍りついてしまったかのように、二人は互いに互いの瞳を見詰め合ったまま動かずにいた――というより、二人は 動くことができずにいたのである。
そんな二人に動くことを思い出させてくれたのは、白鳥座の聖闘士が瞬を城砦の中に迎え入れた時、彼が瞬のために起こしてくれた暖炉の火だった。
強い炎が薪の芯にまで届き、その芯を燃やし尽くしたらしく、かさりと音を立てて薪が崩れ、その弾みで ぱっと火の粉が飛び跳ねる。
その音と 火の粉の影が、二人を我にかえらせた。
慌てて瞼を伏せた瞬の耳に、どこか きまりの悪そうな白鳥座の聖闘士の吐息の音が忍び込んでくる。

「あ……ああ、すまん、つい……。一輝が…… 一輝は おまえのことを、清らかで美しくて優しい心を持っているが、だからこそ 戦いには向かない子なのだと、いつも言っていたぞ。だから、アテナへの推挙を ためらっているのだと。運動能力だけなら、既に十分に 聖闘士の域に達している――とも」
「え……」
「弟の資質や性情を危ぶんでいるというより、ただの自慢にしか聞こえなかったんで、俺は 話半分で聞いていたんだがな。あの一輝の弟が 清らかで美しいなんて、そもそも想像を絶しているじゃないか。あ、いや……」
「あの……」
きまりの悪さをごまかそうとして慌てたとはいえ 言葉が過ぎた――とでも思ったのか、瞬の前で 白鳥座の聖闘士が口ごもる。
あの兄が、彼の弟を そんなふうに思ってくれていたことへの驚きと、白鳥座の聖闘士の兄への気安げな悪態が意外で、瞬は 白鳥座の聖闘士の前で、(顔を伏せたまま)瞬きを繰り返した。

「考えてみれば、綺麗だの、清らかだのという言葉は、事実でなければ、あの朴念仁が口にする言葉ではなかったな。本当に綺麗だ。澄んで清らかな目。仲間の言葉を信じずにいた自分を、俺は大いに反省したぞ」
「あ……」
「少し つらそうだが、兄の身を案じているのなら、そんな心配は無用だ。アテナの聖闘士の中で、一輝ほど しぶとい生命力を持っている男はいない。兄に会いたい気持ちは察するが、奴を心配するのは完く無意味だな。おまえは笑っていた方がいい。その方が可愛いし、似合う」
「あの……僕……」

何か――瞬が想像していたものとは随分と様相を異にする――むしろ、真逆といっていい言葉が、白鳥座の聖闘士の口から出てきたことに、瞬は面食らってしまったのである。
澄んで綺麗ではあるが、そのどこかに鋭さがある(ように感じられる)のに、彼の目には まるで人を見る力を備えていない。
地上の平和を乱す邪心邪欲を持つ者たちと戦うアテナの聖闘士なのに、彼は 人を疑うことを知らない。
自分は この人を騙し、罠にかけ、アテナの命令を遂行できなかった聖闘士にしなければならないのか――。
突然 飛び込んできた闖入者のために上着を用意し、椅子を暖炉の側に移動させ――聖域とアテナを裏切ろうとしている人間に彼が示してくれる優しさの一つ一つが、瞬には心苦しく――それこそ 刃物で肌を切りつけられるように痛かったのである。

こんなに優しくしてもらっても 自分には何の礼もできないと、瞬が告げると、彼は、
「俺のことは、氷河と呼んでくれ。礼は それで十分だ」
と、まるで割に合わない礼を求めてきた。






【next】