瞼を動かせるだけの力を 瞬が取り戻したのは、それから どれほどの時間が経ってからだったのか。
ぼんやりと瞬が瞼を開けると、そこには 不安と後悔と気遣いとが ないまぜになったような 氷河の瞳があった。
瞬が瞼を開ける かなり前から、彼はずっと瞬の顔を見詰めていたらしい。
瞬の覚醒に気付くと、氷河は 少し気後れしたような表情を浮かべ、だが すぐにその気後れを打ち消して、瞬に謝罪の言葉を差し出してきた。
「あ……あ、瞬、すまん。すまない。こんなに乱暴にするつもりはなかったんだ。俺はただ――」

氷河は何を謝っているのか。
かろうじて瞼を開けることはできていたが、身体は重く 意識も判然としていなかった瞬は、氷河の済まなそうな声や表情の訳が わからなかったのである。
はっきりしないのは、意識や身体だけでなく――それは、記憶や時間を認識する力にまで及んでいた。
氷河の瞳は 晴れた日の青空の色をしている。
その青い色が、瞬を錯覚させた。
今は朝。朝でなくても日中と呼べる時刻なのだと。

記憶が少しずつ鮮明になってくる――瞬は思い出し始めた。
氷河に愛する人がいたこと。
その事実を知らされたせいで、自分の感情や思考が乱れ、氷河を他の誰かに渡したくないということしか考えられなくなり、使ってはならない薬を使ってしまったこと。
その薬が氷河を狂わせてしまったこと。
たとえ氷河が正気でなかったにしても、氷河に求められること、求められている時間は、瞬にとっては歓喜そのもの、歓喜を極めた時だった。
とはいえ、それは所詮は偽りの歓喜。
自分に残されている希望は、もはや ただ一つしかない――。

徐々に、今 自分が置かれている状況が見えてくる。
氷河が正気を失い、哀れな反逆者を貪っていた時間は どれほどだったのか――多分、短い時間ではない。
氷河は幾度も瞬に挑みかかってきた。
聖域とアテナへの裏切者の身体を愛撫するのにも、その身体を貫き終えるのにも、相当の時間をかけていた。
それから深い眠りの淵に引きずれ込まれ、そこから這いあがるまでに どれだけの時間が かかったのか。
氷河の瞳は晴れた日の空の色。
だが周囲は ぼんやりと薄墨色に 霞んでいる――。

何とか そこまで意識と記憶を組み立て終わった瞬間、瞬の思考は、研ぎ澄まされ 曇りの消えたナイフのように鋭く、その刃に現実を映すことになったのである。
氷河の激しい情欲に翻弄されていた時間、疲れ果てて眠りに身を任せていた時間、青いのは氷河の瞳だけ――。
瞬の全身から血の気が引いていった。
兄を救うこと以外、自分には何の希望も残されていないのに、今は 朝でも昼でもない夕刻。
新月の夜が始まろうとしている夕刻なのだということを、瞬は知った。

「壺……アテナの壺はどこ。氷河が守っている、アテナの封印が施された壺は……」
兄を救うという、たった一つの希望。
その希望を叶えるためには、アテナの壺を アテナの結界の外に運び出し、その封印を破らなければならない。
まもなく 新月の夜が始まる。
時間はもう ほとんど残されていないのだ。
瞬には既に、氷河に怪しまれることを恐れる時間さえ 与えられていなかった。
瞬の切迫した様子に気圧(けお)されたのか、あるいは、瞬に為した乱暴への後悔や負い目のせいなのか、瞬に問われた氷河が 拍子抜けするほど抵抗を示さずに 答えを瞬に返してくる。

「壺? アテナの壺なら、この砦の南の端の塔の上に置いてあるが。あの塔は、聖域のアテナ像と向かい合う方向に建っているから、最もアテナの加護を――」
「服……服を着せて」
「あ……ああ」
今の氷河には、瞬の頼みを拒むことなど 思いもよらないことだったのだろう。
彼は 自身の上着を羽織って寝台を下り、寝台の足元に放り投げられていた瞬の服を拾い上げた。
瞬の上体を抱き起し、気遣わしげな手で 瞬の肩と身体を その服で覆う。

足に力が入らない。
だが、瞬は、這ってでも砦の最上階にある塔にまで行かなければならなかった。
なのに、歩くことはおろか、立ち上がることさえできない。
瞬は、しかし、今は なりふりを構っていられなかった。
「僕を塔まで連れていって。アテナの壺があるところにまで連れていって」
「……瞬?」
「早く! 新月が……新月の夜が始まる前に! 早くしてっ!」

瞬の鋭い命令の訳を、その命令に至った事情を、瞬に問い質すことが 今の氷河にできるはずがなかった。
もちろん、『そんなことはできない』と言うわけにもいかない。
地上の平和を守るために戦う正義の士が、情欲に支配され、何の罪もない(ことになっている)か弱い人間に 無体を働いてしまったのである。
その人の望みを叶えるために努めるのは当然、拒むことなどできるわけもない。
氷河は 瞬を抱き上げ、瞬が連れていけと命じる場所に 瞬の頼りない身体を運んだ。
世界の北の果ての城砦、その最も高い場所。
元々 物見のために作られたのだろう その塔は、壁がなく柱の上に屋根があるだけで、砦の四方を見渡すことができる。
空に新月はまだ見えないが、それは いつ姿を現わすかわからなかった。






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