「アテナの壺……これが」
方形単脚の台座の上に置かれている それは、多少のレリーフは施されていたが、一見した限りでは 何の変哲もない古い青銅の壺だった。
いったい何が入っているのか、大きさも さほど大きなものではなく、オレンジを5、6個も入れれば いっぱいになってしまいそうな、ごく普通の壺。
だが、確かに、蓋は アテナの名が記された護符で封じられていて、それが金銀二柱の神が言っていたアテナの壺であることに間違いはなさそうだった。

「瞬。おまえは なぜ――」
アテナの壺があるところまで瞬を運んできて初めて、瞬がなぜ この壺に興味を示すのか、それ以前に なぜ この壺が この砦にあることを知っていたのかということに疑念を抱いたらしい氷河が、彼の腕の中にいる瞬に、その訳を問うてくる――おそらく、問おうとした。
だが、瞬は、氷河が問うてくることに答えることはできなかったし、その時間も残されていなかったのだ。
自分のものとは思えないほど自由に動かすことのできない身体を 懸命に鼓舞して、氷河の腕から すり抜け、アテナの壺を掴みあげると、瞬は それを勢いをつけて塔の下に投げ落とした。

「瞬、何をするんだ!」
瞬の振舞いに慌てて――というより、その行動を理解できず、氷河が瞬の名を呼ぶ。
しかし 既にアテナの壺は 高い塔の上から地面に向かって投じられてしまった。
もろい青銅の壺は、もはや砕け散るしかない。
そして、その瞬間に、瞬は本当に アテナと聖域に反逆する者になってしまったのである。
つまり、氷河の敵に。

「瞬、おまえは いったい……」
タナトスとヒュプノスは、仮にも神。
約束をたがえることはあるまい。
すべては兄の知らないところで為されたこと。
兄までがアテナへの反逆者と見なされることはないだろう。
結果的に反逆者の反逆行為に手を貸したことになる氷河も、彼に反逆の意思はなかったのだから、罪に問われることはないはず。
当の反逆者が 死んでしまえば――その命で罪を贖えば、氷河は、反逆者に利用された被害者としての立場を貫くことができるだろう。
「氷河……ごめんなさい」
アテナの寛大と聡明を信じて、瞬は そのまま、壺のあとを追って その身を宙に躍らせた。
瞬は、生きているわけにはいかなかったのだ。
兄のため、そして、氷河のために。

「瞬っ!」
壺が投じられた時には 身じろぎ一つしなかった氷河が、ほとんど間を置かず、瞬の投身のあとを追って、塔の床を蹴る。
重力に身を委ねただけの瞬と 加速がついていた氷河の違いか、あるいは、聖闘士としての氷河の力が重力に勝ったのか――氷河は、氷雪の大地に叩きつけられる前に 瞬の腕を掴み、その身体を抱き抱えてしまった。

(え……)
痛みを感じるのは ほんの一瞬。
美しい純白の世界を 反逆者の赤い血で汚すことになるが、それは すぐに白い雪が覆い隠してくれるに違いない。
そう思っていたのに、瞬の身体は 冷たい氷の大地に叩きつけられることはなかった。
氷河のために命を捨てようとしたのに、瞬は、他ならぬ氷河に その決意の遂行を邪魔されてしまった――瞬は氷河に抱きかかえられた状態で、ふわりと雪の大地に着地してしまったのである。
「あ……」
何が起こったのか――瞬は しばらく その把握ができずにいた。
が、やがて、その事実――自分が死に損なった事実に気付く。

どうして こうなってしまうのか。
どうして こんなことになったのか。
死に損なった自分は、どうすればいいのか。
迷い、混乱し、いっそ氷河を責めてしまおうかとさえ、瞬は思ったのである。
だが、死に損なった反逆者の身体を抱きかかえている氷河が、死に損なった反逆者以上に困惑した目で自分を見ていることに気付き、瞬は そうすることができなくなってしまったのだった。

聖域とアテナへの反逆者が その報いを受けて命を失ってしまえば、氷河や兄に累が及ぶことはない。
自分も みじめな事情説明や 見苦しい弁解をせずに済む。
そうなることを期待して死を選ぶという、考えようによっては卑劣な逃避に走ったというのに、では 自分は己れの罪を氷河に告白し、氷河に軽蔑されなければならないのか。
軽蔑されるだけなら 耐えることもできるが、真実を知った氷河が傷付くことになってしまったら――。
瞬は、それが恐かった。
せめて、反逆者に利用されたことに憤った氷河が 反逆者を憎んでくれたなら、死に損なった事実を、自分は何とか耐え抜くことができるだろうか――。

「瞬、いったい――」
氷河が、残酷な問いを瞬に投げかけようとする。
真実を告げて氷河を傷付けるより、いっそ舌を噛み切ってしまおうかと、瞬は思った。
実際 瞬はそうしようとしたのである。
しかし、瞬には そうすることさえ許されなかった。
僅か数歩分とはいえ アテナの結界が張られた城砦の外。
その場に、金銀二柱の神が 不吉で傲慢な姿を現わしたのだ。

「一応、アテナの結界の外に壺を運び出すことはできたようだな。綺麗な顔以外には何の力も持たない者にしては上出来だ。だが、あと一仕事 残っている。さあ、アテナの封印を破れ」
銀色の神が、瞬に命じてくる。
高い塔の上から氷の大地に叩き落され 割れているはずのアテナの壺は、割れずに雪の上にあった。
「貴様等は何者だ」
瞬が金銀の神に何事かを言う前に、氷河が彼等を睨みつける。
金銀二柱の神は、そんな氷河に嘲笑の答えを返した。

「我等は冥府の王ハーデス様に従う者」
「ハーデスだとっ」
神話の時代からアテナとの聖戦を繰り返してきた、いわばアテナと聖域の宿敵の名を聞かされた氷河が、瞬時に全身と周囲の空気を緊張させる。
そんな氷河とは対照的に、二柱の神は泰然としたものだった。
彼等が示す余裕は、だが、アテナの聖闘士としての氷河の力に脅威を感じていないからというより、氷河の知らないことを自分たちが知っていることによるものだったろう。
氷河に真実を知られることを恐れ、だが その事態を避けられないことを悟った瞬が、氷河の腕の中で 身体を強張らせ 顔を伏せる。
そんな瞬に一瞥をくれてから、タナトスは ひどく楽しそうに――まるで屋根裏部屋で見付けた宝の地図を仲間たちに披露する子供のように得意げに――その事実を氷河に告げたのだった。
「瞬は、我等の命令に従って、貴様を罠にかけるため、貴様の許に赴いたんだ。その壺をアテナの結界の外に運び出し、アテナの封印を解くために。貴様は まんまと その罠にかかった」
「罠?」
「そう、愛の罠――いや、情欲の罠だな。瞬は、愛の神が作った愛の秘薬を使って 貴様を意のままに操った。そろそろ恋の魔法も解ける頃ではないか。あの薬の力が効いているのは1日だけと、愛の神は言っていた。所詮は 紛いものの愛。薬に頼らず生まれた、貴様等人間が真実の愛と呼ぶものとて、3日もてば上等なんだ。偽りの愛が1日もてば、それは奇跡と言ってもいいだろう」

アテナの聖闘士を嘲弄できることが嬉しくてたまらないのか、タナトスの口は やたらと滑らかになっていた。
対照的に、氷河は、呻吟の声一つ洩らさず、その頬からは血の気が引いている。
恐る恐る 窺い見た氷河の顔を、瞬は2秒と見詰めていることができなかった。
アテナと聖域への反逆どころか、人間として最低のことをした卑劣漢の自分が 氷河の腕の中にいることさえ 恐ろしく――氷河を侮辱する行為のように感じられて、そこから逃れたいのに、そのために身体を身じろがせることもまた、恐くてできない。
青ざめた頬をした氷河が 口を開いたのは、タナトスの嘲弄から かなりの時間が経ってからで――それとも瞬が そう感じただけだったのだろうか――彼は、それでも瞬を抱きかかえている腕を解こうとはせず、低く呻くような声で瞬に問うてきた。

「瞬。こいつの言うことは本当か。おまえは、そんな得体の知れない薬を使って――俺は そんな薬のせいで――」
「あ……」
『違う』と言えたら、どんなによかったか。
だが、タナトスの言葉は真実で、瞬は氷河に嘘をつくことはできなかった。
何も答えられずにいる瞬の代わりに、タナトスが 一層 得意げに言葉を重ねる。
「哀れな貴様は 瞬に騙され、利用されたのだ。愚かにも、こうして アテナの壺をアテナの結界の外に持ち出すことに力を貸した。あとは、この封印を破るだけ――」
「兄さんを助けて……!」
氷河を愚弄する言葉を、これ以上 タナトスに言わせたくない。
しかし、彼の言葉を嘘だと断じることも、自分の罪の言い訳をすることもできない。
だから 代わりに、瞬は 叫んだのである。
兄を助けてくれと。
瞬に残された ただ一つの希望は、今は それだけだったから。
タナトスが――嘘をつくことのできない神らしく、瞬の懇願に 顎をしゃくるように頷いてみせる。

「ああ、貴様の兄の命は助けてやる。我等は、おまえの兄の命を奪うことはしない。我等は、貴様が 貴様の兄を救うために、それが どんなに卑劣なことであっても、我等の指示に従うことはわかっていたからな。さあ、今すぐ その壺の封印を破り、先の聖戦でアテナに封印されたハーデス様の魂を、その壺から解放するのだ。そうすれば、我等は永遠に貴様の兄に関わりを持たないことを約束しよう」
「壺の封印……」
「そう。その蓋に貼られているアテナの護符を引き千切るんだ。それで、貴様の仕事は終わりだ。それだけ やり遂げれば、我等は 貴様の兄だけでなく 貴様自身にも、未来永劫 関わることをしないと、約束しよう。貴様は 今では 卑劣と汚辱にまみれ、地上で最も汚れた者。ハーデス様の依り代となる者が備えているべき清らかさの かけらもない。今の貴様を殺しても ハーデス様はお怒りにもなるまいが、我等が わざわざ そんなことをする必要もなくなった」
「ハーデスの依り代? あなたは何を言っているの。そんなことより、兄さんは無事なの? 兄さんが無事だという証拠を見せて!」
「なに?」
「兄さんが無事でいるっていう証拠を見せてくれないなら、僕は これ以上 何もしない。あなた方の言うこともきかない!」

それは、瞬にしてみれば、当然の要求だった。
瞬は、兄の命を守るために、アテナと聖域に反逆する者になった。
兄の命を守るために、氷河を騙し利用するという卑劣をしたのだ。
瞬の当然の要求に、タナトスが なぜか たじろぐ。
立て板に水を流すようだったタナトスの弁舌が、初めて その流れを淀ませた。
「貴様は、たかが人間の分際で、神の言葉を疑うのか? 神は、下劣な人間などとは違って、嘘をつくことはしない。神を疑うなんて不遜は、人間ごときに許されることではない」
「信じているから、兄さんの無事な姿を見せてと言っているんです!」

瞬は“神”を疑っているわけではなかった。
神は嘘をつくことができない。
神は、人間との約定をたがえることはできない。
それが、神と人間の あり方のルールなのだということは、瞬とて知っていた。
決してタナトスの言葉を疑っているわけではないのだが、タナトスの たじろぎが、瞬の中に不審の念を運んできたのだ。
嘘をつくことのできないはずの神の たじろぎの訳は、意外や、瞬が騙した人の口から もたらされた。

「一輝を助けるの、一輝が無事かどうかだのと――瞬、おまえは何を言っているんだ。一輝は この砦の奥の部屋で ぐーたらしているが」
「え……?」
それは いったいどういうことなのか。
氷河の その言葉の意味が、瞬には すぐには理解できなかった。
神と違って人間には 嘘をつくことが許されている。
氷河は嘘をついているのだろうか?
だが、だとしたら何のために――?






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