氷河が校内で上級生相手に喧嘩騒ぎを起こし、被害者と共に生徒指導室に連行されたという報に 星矢が接したのは、それから数日後の放課後のこと。
いったい何が起こったのかと、押っ取り刀で駆けつけた生徒指導室の前の廊下には、既に紫龍がやってきていた。
「氷河の奴、何やらかしたんだよ! なんで、何のために!」
たとえ上級生であっても、この学校に 氷河に喧嘩を売ることができるほどの度胸の持ち主はいないだろう。
となれば、喧嘩は氷河が吹っかけたことになる。
まさか 氷河は、瞬を襲えない鬱憤を 瞬以外の生徒に向けてしまったのではないかと、星矢は何より その事態を案じていた。
星矢に問われた紫龍が、まず 明白な渋面を返してくる。
それから彼は、彼が入手している情報を星矢に開示してきた。

「どうやら 氷河が、一般の生徒に殴りかかっていったらしい。相手は もちろん丸腰、無抵抗だった」
まるで氷河が一般の生徒ではないような口振りである。
氷河も(一応は)一般の生徒の一人なのだが、星矢は 紫龍の使用した言葉を不適切不適当と指摘する気にはならなかった。
氷河を一般の生徒と一緒にしたら、それは一般の生徒に失礼というものだろう。
「氷河が んなことしたら、立派に暴力、暴行だろ。相手は怪我をしたのか? もし、出るとこに出ようなんてことになったら……」

“同性への実らぬ恋からくる欲求不満で前科者”など、全く自慢にならない肩書きである。
氷河が そういう肩書きの持ち主になること自体は構わないが、被害者が被害届を提出し、この騒動が傷害事件となれば、氷河は警察で事情聴取を受けることになる。
その“事情”の内容が瞬の耳に入ってしまったら、瞬は どうするのか。
“普通の男”になりたいという氷河の切なる願いはどうなるのか。
星矢の最大の懸念は そこにあった。

「それは なさそうだ。相手は大した怪我をしていないようだし、被害者が そのあたりの事情を大っぴらにしたくないらしい」
「大した怪我をしていない? 氷河に殴りかかられて、大した怪我なしで済んだのかよ? 一般生徒が?」
星矢が目を丸くして驚くのも、ゆえなきことではなかった。
星矢たちには親がない。
守ってくれる親のない子供は、政治的社会的経済的に非力な弱者である。
ゆえに彼等は、他者からの不当な侮辱や弾圧に抗するための力を持たなければならなかった。
それも、手っ取り早く、金のかからない方法で。
それが、プロの格闘家にも劣らない腕力、体技、格闘技術だったのだ。
実際に星矢たちは その力を身につけている。
だから―― 一般の生徒が 氷河に殴りかかられて 大した怪我を負っていないという事態は、奇跡といっていい事態なのだ。
星矢の驚きは 至極自然なものだった。

「ああ。瞬が止めてくれたらしい」
「瞬? 瞬が その場に居合わせたのか? そりゃ、不幸中の幸いだったな」
事情を聞いて、星矢は得心し、安堵の息を洩らした。
プロの格闘家にも劣らない腕力、体技、格闘技術を身につけているのは、瞬も同じ。
どんな美少女より可憐清純な姿を持ち主でありながら――むしろ、だからこそ――我が身を守る術を身につけることは、瞬には絶対に必要なことだったのだ。
瞬なら、興奮状態で手がつけられなくなった氷河を押しとどめることも容易にできるだろう。
では、どうやら氷河は前科者にならずに済むらしい。
星矢は ますます心を安んじたのだが、紫龍の表情は一向に晴れなかった。

「幸いかどうか……。氷河の喧嘩の原因は、おそらく瞬だ」
「瞬?」
安堵し 弛緩しかけていた星矢の心身が、一転 緊張を取り戻す。
考えてみれば、他人に――いわゆる 一般人に――基本的に無関心な氷河が暴力沙汰を興す原因など、瞬の他にあるはずがない。
そんな考えるまでもないことに、考えなければ思い至らなかった自分の迂闊に、星矢は軽い苛立ちを覚えてしまったのである。
「でも、いったい なんで――」
誰よりも強いが、誰よりも争い事の嫌いな瞬が、どうすれば 争いの原因になることができるのか。
星矢の疑念への答えは、どうやら喧嘩をした当人にしてもらえそうだった。
生徒指導室のドアが開き、氷河が星矢たちの前に姿を現わす。
少し遅れて、被害者らしき一般の男子生徒と、二人の喧嘩の原因なのだろう瞬が 廊下に出てきた。
一般の生徒は、確かに 見たところ 大した怪我はしていない。

「下校する前に、念のため、もう一度 保健室で診てもらいましょうか。腫れがひどいようなら湿布薬を変えてもらった方がいいでしょうし。あんなふうに拳を打ち込まれた時には、後ろに身体を退くより、相手の拳が向かう方向に身体をずらした方がいいんですよ。相手が右手で左に拳を入れてきたら左に――つまり、自分の右側に身体を移動させるんです。相手との距離や 相手のリーチがどれくらいなのかにもよりますけど、後ろじゃなく左右どちらかなら、振り向かなくても 周囲の様子を確かめられるでしょう?」
どうやら氷河に殴りかかられた一般生徒は、氷河のパンチを逃れようとして後方に身を引き、その際に転倒、弾みで手首を捻挫することになったらしい。
熱心に格闘技のレクチャーをする学園一の美少女に、一般生徒は ぼうっとした顔で 見とれている。
氷河の拳は その場にいた瞬に払いのけられ、一般生徒にはヒットしなかったのだ。
一般生徒の負傷は、彼が勝手に転んだ際の手首の捻挫のみ。
確かに傷害事件にするのは、微妙な内容の喧嘩である。
瞬に(喧嘩の)個人教授を受けて ぼうっとなっている一般生徒が警察に被害届を出すことは、まずなさそうだった。

氷河が起こした喧嘩騒動のニュースは、既に校内の隅々にまで行き渡っている。
いつものように校内のカフェテラスで報告会などしていたら、他の生徒たちに好奇の目(と耳)を向けられることは避けられない。
「あとから来い。氷河のマンションで落ち合おう」
そう耳打ちして、星矢は、一般生徒の被害者と一緒に保健室に行こうとする瞬を見送ったのだった。






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