氷河が起こした喧嘩騒動のニュースは、既に校内の隅々にまで行き渡っている。
いつものように校内のカフェテラスで報告会などしていたら、他の生徒たちに好奇の目(と耳)を向けられることは避けられない。
そう考えて、学校の外で 氷河の事情聴取をすることにした自分の判断は的確なものだったと、星矢は しみじみ思ったのである。
「あの3年生が、身の程知らずにも、瞬に付き合ってくれと申し込んでいたんだ!」
玩具を買ってもらえないことに癇癪を起している子供のように 拳を振り上げながら、大声で わめいてみせる氷河に呆れながら。
この調子で 校内で がなり立てられたなら、氷河の喧嘩騒動に興味のない生徒たちの耳目までが 氷河の上に集まること必定。
それは あまり好ましい事態とはいえなかった。

「瞬が入学した時から ずっと好きだっただ !? 何が、瞬が入学した時からずっと、だ! 俺は小学校に入る前のガキの頃からずっと瞬が好きで、だが『瞬に嫌われたくない』の一心で 懸命に自分を抑えて告白もせずにいたのに、ただの一般の普通の青二才のガキが! お……男の癖に! この俺でさえ必死に我慢してるのに、あんな 何の芸も才も力もない普通の男が……!」
自分より年上の3年生を“青二才のガキ”と呼ぶ氷河の社会性には少々 問題があるような気もしたが、氷河の青二才呼ばわりに、星矢は感性の上では同感できないでもなかった。

体格、運動能力で自分より劣り、(これは当人の責任ではないが)社会的差別を受けたこともなく、そういった苦労も知らない一般の生徒。
あの上級生は、瞬の姿の可愛らしさや優しさは知っていても、瞬の心身両面での強さまでは、おそらく真に理解してはいない。
瞬の優しさや博愛主義が 驚くべき強さの土壌に培われたものであることを認識していない。
瞬の真の価値を わかっていない青二才が、瞬の真の価値を知らないがゆえに、自分の身の程も わきまえず、自分が瞬に釣り合うと思い上がって、瞬に交際を申し込んだ。
誰よりも正しく瞬の価値を認識し、誰よりも長く瞬を思い続けてきた男を差し置いて。

氷河にとって、これは そういう事態なのだ。
氷河の立腹や憤怒は、星矢にも理解できた。
だからといって、その怒りに我を忘れ、一般生徒に殴りかかっていく氷河の大人気なさは、氷河自身も立派に青二才に分類される男だということを証明するものであるような気はしたが。
ともあれ、怒り狂った氷河の雄叫びのおかげで、星矢は、氷河に殴られた一般生徒が この件を内密にしようとする本当の理由を知ることができた。
それは、傷害事件にできるほどの重傷を負っていないから――ではなかったのだ。
同性に交際の申し込みをしている時に、急に殴りつけられ(そうになっ)た――などという事情は、それこそ 社会に向かって大っぴらに訴えられることではない。

「それで、おまえは前科者になることを免れたわけか、まあなー。瞬を知ってる人間なら、瞬に交際 申し込む男がいることは納得できなくもないけど、学校の外の奴等は――瞬が どんな奴なのか知らない奴等には、『男が男に告白して殴られた』なんて、普通に気持ち悪い事件でしかないもんな」
そう 星矢が得心したところに、
「サイトウさんの捻挫、大したことないって、保健室の先生が言ってたよ。利き腕じゃない方だったし、普段の生活にも支障は出ないだろうって」
と言いながら、瞬が待ち合わせ場所にやってきた。

氷河は瞬に その好意を告白はしていないが、マンションの共用玄関や エントランス内玄関ドアの暗証番号のみならず、個室のカードキーも渡してあったらしい。
余計なものを全く置かないから綺麗なのだと思っていた氷河の部屋は、もしかしたら瞬が時々やってきて掃除をしているから綺麗なのかもしれないと、星矢は思うことになったのである。
個室のキーまでは、さすがに星矢も(おそらく紫龍も)、渡されてはいなかった。
勝手知ったる仲間の家と言った様子で氷河の部屋に入ってきた瞬が、仲間用のソファやテーブル以外に家具らしい家具もなくリビングのテーブルにグラスもカップも載っていないのを見ると、そのまま キッチンに向かい 4人分のお茶の準備を始める。
仲間の前に お茶のカップを置き 自分の定位置に腰を下ろすと、瞬は、瞬の来訪をきっかけに“怒れる男”から“静かなる男”に変わってしまっていた氷河に、気遣わしげな視線を向けた。

「氷河はどうして あんなことをしたの」
遠慮がちに尋ねた瞬に、氷河からの答えは与えられない。
氷河は口を一文字に結んだまま、ひたすら だんまりを決め込んでいた。
氷河としては、一度 口を開いてしまったら 言ってはならないことまで わめき立ててしまいそうな自分を抑えるために――瞬のためにも――そうするしかなかったのだろう。
が、氷河の沈黙は かえって瞬を不安にしたらしい。
おかげで、星矢が――この場で最も事件の事情を知らない星矢が――脇から口を出すことになってしまったのである。

「どうしても こうしても……。上級生の男が、おまえに告白してたんだろ。氷河は、おまえのために、そいつを追い払ってやろうとしただけで――」
「でも、それは いつものことだし、あんなふうに乱暴に、物も言わずに突然殴りかかっていくようなことはしなくてよかったと思うんだ。僕はいつも丁重に お断りしてるよ」
「いつものこと?」
到底 軽く聞き流すことのできない瞬の その言葉を鸚鵡のように復唱して 瞬の顔を覗き込んだのは、星矢だけではなかった。
紫龍も、それまで だんまりを決め込んでいた氷河までが、その言葉を繰り返し、結局 瞬の仲間たち三人の声は 見事に綺麗に重なることになったのである。

三者三様、微妙にトーンの違う仲間たちの声が作った和声を、瞬が どういう意味に捉えたのかは、ハモった三人にも(正確には)わからなかった。
瞬が、軽い調子の溜め息を洩らし、微苦笑といっていい表情を その顔に浮かべ、頷く。
「僕、女の子から 付き合いたいって申し込まれたこと、これまでに一度もない。そういうこと申し込んでくるのは、大抵 男の人で」
「大抵 男の人って……いつものことって……。その『大抵、いつも』って、どれくらいなんだ? これまで何人くらいの男が、おまえに交際 申し込んできたんだよ!」
「んー……。高校に入学してからだと、30人くらいかな」
「にゅ……入学してから30人ーっ !? そんなに普通じゃない男がいるのかよ、ウチのガッコーはーっ !? 」

星矢は、ほとんど奇声といっていいような声で、応接セット以外 家具らしい家具のない広いリビングに木霊を作った。
だが、声と言葉を作ることができただけ、瞬の発言によって生じた星矢の驚愕と衝撃は 小さなものだったといえたのかもしれない。
氷河などは、奇声をあげることはおろか、呼吸することすら忘れたように、驚愕の視線を瞬の上に据えているだけ。
そんな氷河と瞬を交互に見やってから、紫龍が、頭痛を こらえるように、右の手を額に当てる。
「ウチの学校は、1学年が200人、200人×3学年で、全校生徒600人。その半数の300人が男子。30人といえば、10人に1人だぞ。1割、10パーセントという割合は、もはや“普通じゃない”と言うことのできない数値だ」
「つーか、瞬。おまえ、男に そんなこと言われて、嫌じゃないのかよ!」
「嫌だなんて、そんな……。そういうの、中学の頃からのことだし、嫌われるよりいいんじゃないかなって思うけど……」
「中学の頃からーっ !? 」

星矢は そろそろ、この異常事態に いちいち驚くことに 疲れ始めていた。
『高校に入学してから30人』、そして、『中学の頃から』。
いったい瞬は、これまでに何人の男から『好きだ』と告白され、交際を申し込まれてきたのか。
星矢は、瞬に訊くのも、自分で考えるのも恐ろしかった。
「ま……毎回、丁重に お断わりしてんのかよ」
「当然でしょう」
「そりゃそうだけど……。相手は男なんだしな」
「そういう理由で お断わりしているわけじゃないんだけどね」
「そういう理由じゃなかったら、どういう理由だよ」
「えっ……」

“毎回 丁重に お断りすること”を“当然”と言うからには、瞬は、男に告白されることには慣れているが、それを“普通のこと”だとは思っていない――ということなのだろう。
すべての人の善意と誠意を信じている瞬は、人を“異常”だと思うこともできず、それゆえ同性から好意を告白されることに慣れている自分を作ることもしたが、それが“普通”のことではないと思う判断力までは損なっていないのだ――。
そう考えて、星矢は、激しい目眩いに襲われても 何とか瞬の常識を信じることができていた。
しかし、『相手が男だから断っているわけではない』という瞬の発言は、星矢が信じている瞬の常識の存在を危うくするもの。
では なぜ断っているのかと星矢に問われると、瞬は その頬を ぽっと微かに上気させた。

これは恋する者の直感というべきか。
氷河が目ざとく 瞬の頬の上気に気付き、
「どういう理由だ」
険しい口調で、瞬に その理由を問い質す。
「え……あ……」
瞬は答えを言い淀み、その様子は、氷河に最悪の事態の可能性を想起させることになったらしい。
「誰か好きな奴がいるのか……?」
一層 険しく、厳しく、だが 震えを隠しきれていない氷河の声。
ほのかに上気していた瞬の頬が真っ赤に染まり、それで氷河は確信した――確信しないわけにはいかなくなった。
(相手の性別は さておき)自分への交際申し込みを、人が毎回丁重に“お断り”する訳。
その理由に『他に好きな人がいるから』以外の理由が あり得るだろうか。
そういうことだったのだ。
瞬には好きな人がいたのだ。

「そうか……」
氷河の肩から がっくりと力が抜ける。
その力を、氷河が 自分の意思や感情の制御に まわしていることが、星矢にはわかった。
ここで――瞬の前で――怒りを爆発させたり、泣きわめいたりするわけにはいかないと考えて、氷河は懸命に自分を抑えているのだ。
しかし、その自制も長くは続かない。
瞬の前で 自分を抑制し続けるにも限界があると悟ったのか、やがて氷河は、掛けていたソファから ゆらりと亡霊のように立ち上がった。

「すまん。俺は今回の件を深く反省して、しばらく自宅謹慎することにした。俺は部屋にこもるから、おまえ等は適当に帰ってくれ」
憤怒も嘆きも――はっきり それとわからない態度と声で そう言えただけでも称賛に価すると、星矢は思ったのである。
もしかしたら それは、あらゆる感情が絶望に打ち消されてしまっただけのことだったのかもしれないが、そうであったにしても。
「誰って訊いてくれないの」
と、軽く失望を見え隠れさせて告げる瞬を 残酷だとさえ、星矢は思った。
氷河が、
「知りたくない」
と、全く抑揚のない声で答える。

男が男に恋することを普通のことではないと思っている氷河は、ある意味では、極めて古風な価値観を持っている男だといえるだろう。
瞬の好きな相手が誰なのかを知り、女を妬むなどという行為は、男として みっともなく情けないことだと、氷河は、これまた古風な価値観で思っているのかもしれなかった。
「氷河……」
瞬の軽い失望(に見えていたもの)が、なぜか不安の色を帯びる。
その微かな変化の意味に気付いたのは、紫龍だった。
足のある亡霊か 重度の熱病患者のような足取りで ふらふらとリビングを出ていこととする氷河を、彼は引きとめた。
あろうことか、
「氷河! 瞬が好きなのは おまえだそうだ!」
という言葉で。






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