飛び道具を持ち出されさえしなければ、瞬は下手なセキュリティポリスの隊員などより よほど頼り甲斐のあるボディガードである。
守ってくれる親はなく、公的権力や社会的抑制力も頼りにならない俗界では、瞬のように 一見 か弱く可憐な花は、自分で自分の身を守る術を身につけておくことが必要だったのだ。
瞬は、頭がよく、運動神経や反射神経にも優れており、氷河が教える それらの技を、砂が水を吸い込むように我が物にした。
であればこそ 氷河は、その日、瞬とナターシャが買い物に出掛けることを許可したのである。
人気のないところには絶対に 足を踏み入れない――という条件をつけて。
必要なもの、欲しいものは、ネットで容易に入手できる世の中だが、毎日 部屋の中に閉じこもっていることは、さすがに生物として問題がある。
氷河としても、瞬が学校に行っている間、ナターシャと二人きりでいることは息苦しく、たまには面倒事から解放される時間がほしかったのだ。
それが まずかった。
瞬が頬を蒼白にして二人の部屋に駆け込んできたのは、瞬がナターシャと連れだってマンションの部屋を出ていってから2時間後。
瞬の傍らに、ナターシャの姿はなかった。

「ずっと目の届くところにいたんだよ。でも、その……女の子のことだから、僕が一緒だと買いにくいものもあるだろうって思って、お金だけ渡して、店の出入り口でナターシャさんの買い物が済むのを待ってたんだ。洋服を選ぶわけじゃないし、すぐ済むだろうと思ってたのに、30分以上待っても お店から出てこなくて……。それで勇気を出して お店の中に入っていってみたら、中年の男の人に連れられて出ていったって、店員さんが教えてくれたんだ」
「おまえらしくないポカだな。なぜ 目を離したんだ」
「ごめんなさい……。まさか女性専門のランジェリー屋さんに平気で入っていける男の人がいるなんて思わなかったから……」

『おまえなら、一緒に商品を選んでいても、誰からも奇異の目を向けられることはなかったろうに』と言うわけにもいかなかった氷河は、瞬のミスに、
「それは――俺でも目を離すな」
とコメントすることしかできなかった。

それは ともかく。
人間(人質)というものは、基本的に 生かしておいてこそ使えるものである。
ナターシャが 命を奪われる可能性は低いが、問題は、彼女を さらっていった者が日中露 どの陣営にいる者なのかということだった。
それがロシアンマフィアであっても、予断は許されない。
ナターシャをさらっていった者が、ナターシャの兄が属するロシア陣営に属する者であったとしても、その中に造反者や裏切者がいないとは限らないのだ。

「どうしよう……僕のせいだ……。ナターシャさんに もしものことがあったら、僕はどうすればいいの……」
瞬は 自らの手落ちを悔やみ、かなり気持ちが乱れているようだった。
そんな瞬に、氷河は少しく苛立ちを覚えたのである。
瞬は繊細で 感受性も豊かだが、二人が二人になってから 瞬が こんなふうに取り乱す様を見るのは、氷河はこれが初めてだったのだ。
言ってみれば、縁も ゆかりもない女。
そんな女のことに、瞬が ここまで責任を感じる必要はないはずだった。

「どうするも こうするも……。さらっていった相手がアクションを起こすのを待つしかないだろう。相手が どこのどいつなのかが わからないのでは、動きようがない」
氷河は瞬を落ち着かせようと考えて そう言ってやったのだが、それは逆効果だった。
「氷河は どうして そんなふうに落ち着いていられるのっ!」
まるで、落ち着いていることが途轍もない悪事であるかのように険しい口調で、瞬が氷河を責めてくる。
その瞳に涙が にじんでいるのを見て、氷河は――氷河もまた――冷静でいることができなくなったのである。

つい数日前まで、その存在をすら知らなかった女。
そんな女のために 瞬が涙を流し、10年以上の時を 互いに支え合って生きてきた同志にして親友を責めている。
そんな理不尽なことがあって いいものだろうか。
いったい なぜ瞬は、あんな女に そこまで入れ込むのだ――。
氷河は、頭に かっと血がのぼった。
しかし、その怒りは一瞬で消えてしまった。
瞬は泣いているのだ。
その涙が、これまでのように誰かのための涙ではなく、瞬自身のために生み出される涙であるような気がして、氷河の心は急激に冷めてしまったのである。
瞬が 自分のために泣く。
それは つまり、あのナターシャが、瞬にとって自分と同じものだということなのではないだろうか――。

氷河は今 初めて、その可能性に思い至った。
これまで ただの一度も考えたことのなかった、その可能性。
そんなことは あり得ないと信じていた、その可能性に。
「瞬。おまえ、あの女が好きなのか?」
「え……?」
氷河に そう問われ、瞬は、涙でいっぱいの瞳を大きく見開いた。
氷河を見上げ、見詰め、瞬きをした次の瞬間、瞬の瞳から涙の雫が零れ落ちる。
その綺麗な 透き通った雫が 氷河の心を凍りつかせ、次の瞬間、氷河の心は 凍りついたまま 燃え上がっていた。

「もう放っておけ! これ以上、あの女に関わるな! おまえは、おまえにできるだけのことをした。これ以上 できることはないし、すべきじゃない。多くの買い物客の目があるところで 平気で人ひとり さらっていくような奴等だぞ。あの女どころじゃない。おまえの身が危ない!」
「氷河、僕は――」
「もう あの女には関わるな! おまえは、俺を一人にするつもりか!」
「氷河、僕の話を――」
「聞きたくない!」
ナターシャを見捨てろと 冷酷に言い放つ男の無慈悲を悲しんで、瞬のトーンが切なげに身悶える。
それでも、その強さ大きさを失わず、それどころか一層 力強くなっていく瞬のトーンが、氷河の怒りを激しくし、やるせなさを深めた。

なぜ こんなことになったのか。
幼い二つの孤独な魂が出会い、二人で寄り添い 支え合って生きてきた長い時間。
どんなことがあっても、二人が離れることはないと信じることができるからこそ、俺は我慢してきたのに!

言葉にはせず、叫び、吠える男の浅ましいトーンの様が、瞬の目には見えているのだろうか。
だが、それは、意思の力では制御できない。
それは、勝手に強まり、深まり、燃え上がるもの。
これまで 他人の醜く脆弱な それを見て 散々軽蔑し、嘲笑ってきた、あの卑小で卑俗な人間たちと 自分が同じものだと思うことは、氷河には 耐え難い苦痛だった。
しかし、それは事実――それは 自分という男の本性なのだ――。

切なく、悲しく、やるせなく――氷河が その唇を噛みしめた時だった。
突然 マンションの緊急時用インタフォンが警告音を響かせ、続いて マンション管理人の声が二人の許に届けられたのは。
「た……大切なものを お預かりしているので、CKコンテナ埠頭の 017890−07140倉庫においでくださいとの伝言です……」
管理人の声は上擦り、半ば 引っくり返ってしまっている。
彼が何者かに脅され、その伝言を言わされていることは明白だった。
CKコンテナ埠頭は、昨今 急激に増加している中国船のための航路が集まっている埠頭である。
ナターシャをさらっていったのはチャイニーズマフィアと見て、まず間違いがなさそうだった。
おそらく、3つの陣営の中で最悪の敵である。

「CKコンテナ埠頭、017890−07140倉庫」
伝言の内容を復唱して、瞬が部屋の扉に向かって駆け出す。
心を捕まえることができないのなら、せめて その身体だけは。
氷河は、一瞬の逡巡も見せずにナターシャを救いに行こうとする瞬の腕を掴んだ。
「氷河、急ごう!」
瞬は どうやら、彼の同居人が自分と一緒に来てくれるものと思っていたらしい。
だが、氷河には その気は全くなかった。
命をかけて救おうとするだけの価値が、あの女にあるだろうか。
氷河の答えは、断じて『否』だった。






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