「瞬。行かないでくれ」
瞬に軽蔑されることを覚悟して、氷河は瞬に告げた――頼んだ。
瞬が 一瞬 全身を硬直させ、その澄んだ瞳の中に氷河の姿を映す。
そして。
そうして瞬は、その瞳と唇に、氷河が戸惑うほど優しい微笑を浮かべた。

「氷河はいつかロシアに帰って、氷河のマーマを探すんだよね。うん。氷河は危ないことをしちゃだめだよ。でも 僕は一人だから――だから、僕は 誰かのために僕ができることをしたい。それで死んでも、誰も悲しむ人はいないもの」
「――」
いったい瞬は何を言っているのかと、氷河は暫時 混乱した。
そして、思い出したのである。
児童養護施設で瞬と出会った頃、幼かった自分が瞬に告げた言葉を。
『俺はマーマが死ぬのを見ていない。マーマはきっと生きている。いつか俺は、マーマを探しにロシアに行くんだ』
氷河は、瞬にそう告げたことがあったのだ。
瞬は、もしかしたら その言葉を忘れずに、それが異国からやってきた孤児の ただ一つの願い、ただ一つの希望なのだと、ずっと信じていたのだろうか?
それが、母を失った不幸な子供の哀れな夢想にすぎないことも知らずに。

「瞬。それは嘘だ。俺のマーマは死んだ。俺の目の前で、俺を救うために。いつかマーマを探しに行くというのは、子供だった俺が 母の死を信じたくなくて ついた嘘だ。マーマのいない世界で生きているのが つらくて、だから 自分が生きていくために 自分についた嘘なんだ、それは」
「氷河……」
氷河自身が忘れていた嘘を、ずっと瞬は信じていたのだろう。
瞬の瞳とトーンが、戸惑いに揺れる。

「ナターシャのことを調べている時、マ――母の名を見付けた。モスクワを拠点にする あるマフィア組織の 当時のナンバー2の愛人――いや、その男は独り身だったから恋人か。合意だったのか、やむにやまれずだったのか――ともかく 二人の間には子供ができて、息子を――俺を 裏の世界から遠ざけようとした母は、俺を連れて国外への逃亡を計ったんだ。そして、船の座礁事故に遭って、俺を救うために命を落とした。墓もあるらしい。俺の実父が遺体を引き取り、母の生まれ故郷の東シベリアの村に埋葬した。その実父も、母の死の3年後、組織のトラブルで死んでいる」
『だからもう、俺には おまえしかいないんだ』
声には出さずに訴えた その言葉が、瞬に聞こえなかったはずはない。
だが瞬は、それでも自分の決意を変えるつもりはないようだった。
「僕は ナターシャさんを助けにいく」
「瞬!」

おまえは、俺より あんな女を選ぶのか。
なぜ おまえは俺を見捨てることができるんだ――。
我儘な子供のような駄々を、口にしても しなくても、隠そうとしても しなくても、瞬には すべてが見えているはずだった。
見えていることが、氷河にはわかっていた。
瞬のトーンが、氷河の目の前で、それこそ 子供の母親のそれのように変わっていったから。

思いを言葉にしなくても、互いの心は 互いに見えている。
そう信じていた氷河に、瞬が告げた言葉は、実に奇妙なものだった。
瞬は、
「氷河はナターシャさんを好きなんでしょう?」
と、訳のわからないことを言ってきたのだ。
「マーマがいないのなら なおさら、氷河を幸せにできる人はナターシャさんしかいないよ」
と。
瞬のその言葉に、氷河は、こんな切迫した時だというのに、しばし呆けてしまったのである。
そんなことがあるはずがないではないか。
なぜ瞬が そんな誤解をすることになったのか、氷河には その訳が まるでわからなかった。

「おまえだ、それは。俺を幸せにできるのは、おまえしかいない」
「嘘」
「なぜ嘘なんだ」
氷河に問い返された瞬のトーンが寂しげに透き通る。
もしかしたら自分は、瞬のトーンを読み違えていたのだろうかと、氷河は、おそらく瞬に出会ってから初めて、その可能性に考えを及ばせた。
その可能性は 可能性ではなく、ただの事実で、そして、トーンを読み違えていたのは氷河だけではなかったようだった。

「ナターシャさんが ここに来た時、氷河のトーンが揺れた。少し温かくなって、すごく切なくなって、僕まで切なくなった。それからも、ナターシャさんの名前が出るたび、氷河はいつもそうだった。ナターシャさんを好きなのは、氷河の方なんでしょう? 氷河、僕を危険な目に合わせないために、ナターシャさんの命を諦めようとしているの? そんなことをされても、僕は少しも嬉しくない。氷河は、本当はナターシャさんを助けに行きたいんでしょう? なら、一緒に行こう」
トーンは言葉ではないのだ。
その人間の心根や その時々の感情を映し出しはするが、それは言葉ではない――。

「瞬、それは誤解だ。俺は、あんな女は――」
「誤解なんかじゃないよ。氷河のトーンは確かに……」
「もし俺のトーンがナターシャの名で変化していたとしたら、それはあの女の名前のせいだ」
「名前?」
問題は名前だった。
そして、当然のことながら、トーンでは そんなことまでは伝わらない。

「俺のマ……母の名前はナターシャだったんだ。ロシアではありふれた名前だが、日本で その名を持つ人間に会ったのは あの女が初めてで――今のところ ただ一人で……。それだけだ。おまえが あの女の名を呼ぶたび、マーマのことを思い出して、もしマーマが生きていたら、きっとマーマは 俺と同じように おまえを愛してくれるだろうと、おまえとマーマが一緒にいる光景は どれほど俺を幸福な気持ちにしてくれるだろうかと、俺は いつも そんなことを夢想していた」
瞬の前で無理にクールを気取っても仕様がない。
氷河は開き直って、『マーマ』を『母』と言い換えるのをやめた。
今は、瞬の誤解を解くことが最重要課題なのだ。

氷河のトーンの変化の事情を知らされた瞬が、自分が思い違いをしていたことに気付いて、戸惑い、うろたえる。
まさか 氷河に そんな事情があったなどということを、瞬は考えたこともなかったのだろう。
「そんな……。僕、てっきり氷河は 僕よりナターシャさんの方が大事になったんだと思って、だから 僕――」
「どうして そんな誤解ができるんだ! そんなことがあるはずないだろう! あんな女より、おまえの方がずっと綺麗で可愛いのに! ずっと優しくて強いのに! ずっと……ずっと俺たちは一緒だったのに……!」
氷河は、それが不思議だったのである。
どうにも合点がいかなかった。
二人で助け合い、支え合い 生きてきた10年余の時間、互いが互いを どれほど必要とし、愛し、信じ合っているのかを、瞬は忘れていたのだろうか。
二人が共に過ごした長い時間のうちに培われた絆が、昨日今日 現われた女の存在によって断ち切られることがあると、瞬は 本当に――真面目に、冗談でなく――考えたのだろうか。

瞬は 本当に――真面目に、冗談でなく――そう考えていたらしい。
考えていたようだった。
「だって、氷河が……氷河は、僕たちが二人で暮らすようになってから 時々、僕のこと避けるようになったんだもの。氷河の気に障るようなこと、何もしてないと思うのに、急に僕から目を逸らしたり、ぷいっと どこかに行っちゃったり……」
「それは……」
それは確かに、そういうことが幾度かあった――そういうことは幾度もあった。
しかし、氷河が そういう振舞いに及んだのは、そうしなければならない やむにやまれぬ事情があったからだったのだ。
その事情までを 瞬に知らせていいものかと、氷河は迷った。
迷って――本当のことを言わないと、瞬の誤解を解くことはできないことを悟り、腹をくくる。
大きく深呼吸をして、氷河は、彼の事情を瞬に告げた。

「俺は――俺には、おまえしかいない。おまえだけだ。おまえ以外の誰も ほしくない。だから、俺は おまえを抱きしめたくなるんだ。おまえの すべてを俺のものにしたくなる。そうしないと不安で、いつか おまえがどこかに行ってしまうんじゃないかと、どうしようもない不安にかられるんだ。だが、そんなことはできないだろう?」
「氷河……」
「おまえの側にいて、おまえを見ていると、ろくでもないことを考えてしまう。その考えを実行に移しそうになる。そうしないために――そんな自分を抑えて 冷静になるために、俺は おまえの側から逃げ出さなければならなかったんだ」
「あ……」

瞬が驚きに目をみはる様を見て、氷河は、自戒のために奥歯を噛みしめた。
今こそ クールになるべき時、今こそ 氷河は心の乱れを完璧に隠し通さなければならなかった。
激しい欲情は意思の力で 捻じ伏せられることを、彼は 瞬に示してみせなければならなかったのだ。
「もちろん、俺は これからも自分を抑えきってみせる。決して おまえに無体はしない。そんなことをして おまえを失うことになったら、俺の人生は破滅する。おまえは安心していてくれ」
そんな決意表明に どれほどの効果があるのかと 思わないでもない。
瞬を必要としている男が、瞬に対して 激しい情欲を抱いていることは、そのトーンで 瞬にはわかってしまっているだろう。
これまで瞬は、その激しいトーンを生むものを忌避の念だと勘違いしていたにすぎないのだ。
しかし瞬は、トーンが どれほど乱れ 濁り 愚図っていても、その人間が為す親切や善行を認める人間だった――人の偽善をも許す人間だった。

だから瞬はきっと わかってくれる――浅ましい欲を抱えながら、瞬の前では、瞬のために、冷静な男でいようとする男の気持ちを、瞬は許してくれる。
それが、氷河の希望だった。
残念ながら、瞬は、氷河の希望を叶えてはくれなかったが。
氷河の苦渋と偽善を許し 受け入れるどころか。
氷河の告白に驚き 当惑しているようだった瞬は、時間をかけて その当惑を消し、代わりに 安堵の色を濃くし、最後に 嬉しそうに その両腕で氷河を抱きしめてきたのだ。
そして、瞬は 氷河の胸の中で、
「氷河しかいないのは、僕の方なんだよ」
と、囁くように言った――。

瞬のその優しい囁きは、かつて経験したことがないほど大きな驚愕と混乱と迷いとを、氷河の中に生むことになったのである。
許されることなら、今すぐ 瞬を自分のものにしたい。
瞬の言葉が真実のものだと確かめたい。
時が時でなかったら。
場合が場合でなかったら。
なぜ今は こんな時で、こんな場合なのだと、氷河は、信じてもいない神というものを恨んでしまったのである。

だが、今は、時が時で、場合が場合だった。
今こそ 理性をフル稼働させ、氷河は 彼の“クール”を瞬に示してみせなければならなかった。
きつく ではなく優しく、瞬の肩と背中を抱きしめる。
そして氷河は、彼なりに精一杯 抑揚と震えを抑えた声で、瞬に尋ねた。
「ナターシャを、どうしても助けたいのか」
「うん」
「なら、俺も一緒に行こう。ここは、チャイニーズマフィアだけでなく、日本側にもロシアにも目をつけられてしまっているだろう。どちらにしても、ここでの今の生活は捨てなければなるまい」
「ごめんなさい。でも、僕、ナターシャさんを放っておけない」
「俺は――おまえが あの女を好きなんだと思ったから、あの女が憎かっただけだ。そうでないなら――人の命は、それが誰のものであっても、おまえの次くらいに大事なものだ。今度は 地方で一戸建てというのもいいな」

“愛する人が一人、自分の側にいてくれれば、それだけで いい”という身の上は、ある意味、軽快で快適である。
自分の人生に必要な ただ一つのものの手をとって、氷河は、母と同じ名を持つ少女が囚われている場所に向かうため、マンションのドアを開けた。
そして。
そうして 氷河は、これから彼が救出に向かうはずだった少女の姿を その場に見い出すことになってしまったのである。






【next】