氷河は、一輝を憎んでいたわけではない。
一匹狼を気取って 瞬を寂しがらせ。にもかかわらず 瞬に慕われている鳳凰座の聖闘士。
決して好きなわけではなかったが、嫌っていたわけでも 憎んでいたわけでもない。
戦いの場では(戦いに間に合いさえすれば)頼りになる男だと思い、そういう意味では 信頼してもいた。
彼を殺さずに済むのなら、その方がいい。
殺す振りをするだけで済むものなら、氷河は そうしたかった。
しかし、それだけで目的を果たすことができなかった時には、本当に殺すしかないだろうとも、氷河は思っていたのである。

目的というのは、他でもない。
白鳥座の聖闘士の命を瞬に絶ってもらうこと――“瞬に殺してもらうこと”。
氷河は、自分が潔く死ぬために、瞬に殺されることを望んだのである。
白鳥座の聖闘士を殺すのは、瞬でなければならなかった。
地上で最も清らかな魂を持つ人間。
キグナス氷河を殺す権利を持っている人間は 瞬しかいない――瞬だけが、その権利を持っている。
瞬以外の凡百な人間に殺されるのは 御免被りたかった。
地上で最も清らかな魂を持つ人間――ありふれた、極めて俗な例えを用いれば、天使のような人間。
自分と同じ人間に殺されるのは嫌だが、天使に殺されるのなら、それは一個の人間にとっては 最も光栄な死といえるだろう。

だが、“天使のような”瞬は、人間の命を何より大切なものと思っていて(自分の命は簡単に諦めるくせに!)、『俺を殺してくれ』と頼んでも、快く その望みを叶えてはくれないだろう。
自分の命を奪おうとした敵をさえ許そうとし、実際に許してしまう瞬。
そんな瞬に殺してもらうには、瞬の兄を傷付けるしかない。
そう、氷河は考えた。
だから、氷河は一輝を殺そうとしたのである。
だから、一輝に――否、瞬の兄に――戦いを挑んでいったのだ。
殺す振りをするだけで済むようにと、胸の中で願いながら。

自分が一輝に倒される可能性は考えなかった。
一輝は、敵に対しては容赦のない男だが、味方や仲間に対しては――所詮は 瞬の兄、非情にも残酷にもなりきれない男である。
実際、一輝は、ジュデッカで、その身体をハーデスに支配された瞬の命を絶つことができなかった。
絶とうとして、そうすることができなかった、
その程度のものなのだ、一輝の容赦のなさなど。

だが俺は違う――と、氷河は思っていた。
“瞬に殺してもらう”。
その願いを叶えるためになら、“一輝の命が失われる”程度のことは、やむを得ない犠牲でしかない。
『殺す振りだけで済めばいい』と 氷河が思うのは、一輝の命を惜しむからではなく、不必要に瞬を悲しませたくないからだった。
死を望む者と 生を望む者――死を望む白鳥座の聖闘士と 生を望む鳳凰座の聖闘士とでは、覚悟の強さが違う。
一輝と戦って自分が負けることがあるなどとは、氷河は考えてもいなかった。

実際、氷河は勝った。
一輝と戦い、一輝を圧倒したのである。
本気で仲間を倒す気になれない鳳凰座の聖闘士は、今は死だけを望む白鳥座の聖闘士の敵ではなかった。
氷河が一輝の命を奪わなかったのは、彼が そうする前に、瞬が その場に来てくれたから。
兄を死なせないために、瞬が白鳥座の聖闘士の命を奪ってくれれば、それで氷河の願いは叶うことになる。
それが氷河の望み――最善の結末だった。
もし 瞬が その望みを叶えてくれなかったなら、次善の策は、白鳥座の聖闘士が瞬の兄の命を絶ち、兄を殺された憎しみゆえに 瞬が白鳥座の聖闘士の命を奪ってくれること。
瞬が仲間を殺すには――白鳥座の聖闘士が 天使に殺されるには――その二つの道しかないだろうと、氷河は考えていた。
冷酷に――仲間への信頼、仲間への友情など忘れたように―― 一輝を倒した氷河の願いを、しかし、瞬は叶えてくれなかった。

「氷河……どうして、こんなことを――」
瞬は、その瞳に涙をたたえて、氷河に尋ねてきた。
それは、傷付いた兄の苦しみを嘆く涙か、仲間に裏切られた兄を嘆く涙か、それとも、仲間を傷付けた白鳥座の聖闘士を嘆く涙なのか。
問われたことに、氷河は答えを返さなかった。
それが嘘でも真実でも、何か答えれば――何らかの言葉を瞬に与えてしまえば、瞬は白鳥座の聖闘士の中に同情の余地を見い出し、その優しさゆえに白鳥座の聖闘士を殺してくれないかもしれない。
そうなることを、氷河は恐れていた。
何も答えず、仲間の足元に倒れ伏した一輝を冷ややかに見やっていれば、瞬は自分を殺してくれるはず。
そうなることを願っていたのに――瞬は動かない。
瞬が白鳥座の聖闘士を殺そうとしないことに焦れて、結局 氷河は沈黙を貫き通すことができなくなったのである。

「俺が憎いなら、俺を殺せ。一輝を助けたければ、俺を殺せ」
それは、心底からの氷河の願いだった。
「そんなこと できるわけがないでしょう」
「殺せ。でないと俺は 一輝を殺さなければならなくなる」
「なぜ」
「俺は清らかな人間でいることに失敗して、罪びとになった。最初は実の母、次には 不出来な弟子を聖闘士にまで育てあげてくれた師を倒し、俺を庇って 海に呑み込まれた兄弟子の命をも奪った。一人の人間が一生のうちに犯す罪としては、十分すぎるほど十分な罪だろう。そろそろ自分の生に見切りをつけてもいい頃だ。俺は、今の罪びととしての生を終え、新しい命を生き直したい。今度こそ、どんな悲しい罪も犯さずに済む生を手に入れたい。そのために、俺は――俺はおまえに殺されたいんだ。だから、一輝を殺すことにした。一輝を殺せば、おまえは俺を殺してくれるだろう?」
「氷河……」
「おまえに殺されたい。おまえでなければ駄目だ」

氷河の願いを瞬が どう思ったのか。
それは氷河には わからなかった。
仲間を傷付けることができずに地に伏した、まるでアンドロメダ座の聖闘士のような兄の姿を痛ましげに見詰め、それから ゆっくりと顔をあげる。
氷河を見上げる瞬の瞳には 憎しみより悲しみの色の方が濃く――というより、悲しみの色しかなかった。
否、悲しみに紛れて もう一つ。
それは後悔の色だった。
その色を生んだのは、これまで これほど冷酷な男を仲間と信じて過ごしてきた時間への後悔か、それとも、死に瀕した白鳥座の聖闘士を死の淵から呼び戻してしまった過去の自分への後悔なのか。

いずれにしても、氷河の願いは叶えられそうだった。
瞬の兄を傷付けるという策は、的を射たものだったらしい。
「氷河の望み通り、氷河を殺してあげるよ」
後悔と悲しみと。
二つの色を瞳に たたえ、瞬は そう言ってくれたのだ。
氷河は、喜びに身を震わせた。

瞬の瞳を覆っていた後悔と悲しみが その涙で流され消えていくのを、氷河は最後に見たような気がした。






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