対人恐怖症――社会不安障害ともいう。 他者に対して 強い不安と精神的な緊張感を持ち、自分に対する他者の目を恐れるあまり、可能な限り 他者との社会的接触を避けようとする神経症の一種。 不運にして この病を得た者は、その結果、必要な人間関係の構築ができなくなり、社会生活に支障をきたす。 氷河が その病気にかかっているのだと 瞬が思うようになった原因は、幼い頃の氷河の振舞いにあった。 たった一人で、見知らぬ国、見知らぬ家に連れてこられたなら、それだけでも大抵の子供は不安になる。 その上 氷河は唯一の肉親だった母親を失ったばかり。 彼の幸福のすべてを担っていた母を失ったことで 自分はもう幸せになれないのだと思い込み、無気力になり――城戸邸にやってきた頃の氷河は、他者との接触を全く持とうとしない子供だった。 他者というものが――大人も子供も すべて――その視界に入っていないかのような目、表情、態度。 それこそ 自閉症を疑われるほど、当時の氷河は 自分の殻の中に閉じこもっていたのである。 「あの金髪のガキは自閉症なのか。まるで口をきかないが」 「自閉症というのは、そのほとんどが先天的なものだろう。あのガキは、母親を亡くしたショックでコミュニケーション不全の状態に陥っているんじゃないか? 母親が死ぬ前は、普通に話すことも 笑うこともできていたようだからな。母親との衝撃的な死別を経験したせいで、別離を恐れるようになり、一時的に 他者との接触を持つことができなくなっているだけだろうと、医者は言っていた。運動神経も身体能力も優れているし、知能も高い。周りのガキ共と うまくやっていけなくても、だからといって、あのガキが聖闘士になれないということはないだろう」 「ある種の対人恐怖症と言えるのかもしれないな。あのガキにとって、他人は、自分にまた つらい別れをもたらすかもしれない恐いもの――というわけだ」 誰とも口をきかず、一人で部屋の隅に うずくまっている氷河。 そんな氷河について語り合っている大人たちの会話を漏れ聞いて、瞬は、『氷河は対人恐怖症という病気なのだ』と思うようになったのである。 対人恐怖症――その時 初めて聞いた病気の名。 そして、その病名以上に、『母親が死ぬ前は、普通に話すことも 笑うこともできていた』という大人たちの言葉が、大きく瞬の胸に響いたのである。 氷河は、以前は 喋ることも 笑うこともできていたのだ。 氷河は笑うことができないわけではない。 おそらく、ここに連れてこられる以前――母親と暮らしていた頃の氷河は 当たりまえのように笑顔で毎日を過ごしていたのだ。 瞬は、氷河の笑顔を見てみたいと、強く思ったのである。 お陽様の光のような髪と 晴れ渡った空の色の瞳を持つ氷河の笑顔は、きっと輝くように明るく、その笑顔を見る者の心を浮き立たせてくれるに違いない――と。 その笑顔を見ることができたら、自分は どれほど嬉しく楽しく幸福な気持ちになれるものか。 まだ見ぬ氷河の笑顔を想像するだけで――だが 想像しきれず、想像しきれず曖昧だから なおさら――瞬は夢見心地になった。 とはいえ、もちろん、夢は夢見ているだけでは実現しない。 その惨酷な事実を、瞬は よく知っていた。 夢を実現したいなら、人は そのための努力をしなければならないのである。 では、その夢を叶えるために 自分はどうすればいいのか。 『氷河の笑顔を見たい』の一心で、瞬は 懸命に その方策を考えたのである。 氷河は母親を失ったことがショックで、人との死別を恐れるようになり、人と関わりを持つことができなくなっているのだと、大人たちは言っていた。 ならば、氷河に『瞬は死なない』と思ってもらえれば、彼は自分と関わりを持つことを恐れなくなってくれるに違いない。 氷河に『瞬は死なない』と思ってもらうには、彼に『瞬は弱い人間だ』と思わせないことが必要。 そう考えた瞬は、氷河の病名を聞いて以降、人前で泣くことをやめたのである。 泣きそうになった時には 必死に歯を食いしばり、いつも笑顔でいることを心掛けた。 そうして あれこれと氷河に話しかけ――無視されても 無視されても、そのたび 懸命に涙をこらえて 根気よく、瞬は氷河に言葉を投げかけ続けたのである。 氷河は もしかしたら そんな瞬に根負けしたのだったかもしれない。 あるいは、無視するたびに 瞬が泣きそうな顔になるのを見て 罪悪感を覚えるようになってしまったのかもしれない。 努力の甲斐あって、氷河は少しずつ瞬と言葉を交わすようになり、微かにではあるが笑うこともしてくれるようになった。 初めて 氷河が口をきいてくれた時には 嬉しさのあまり 泣き出すという大失態を演じてしまったのだが、泣き笑いしながら『嬉しい』を繰り返す瞬に 何か感じるものがあったのか、その日から 氷河は 瞬にだけは打ち解けてくれるようになった。 夢見ていた通り、氷河の笑顔は 瞬を とても幸せな気持ちにしてくれた。 だから 瞬は、その幸せな気持ちを自分以外の仲間たちにも味わってもらいたいと思ったのである。 一つの夢が叶った瞬の、それが次の夢になった。 幸い、氷河は、瞬経由でなら 他の子供たちともコミュニケーションを持つようになってくれていた。 焦らず、根気よく、氷河の心の中から 人を恐れる気持ちを取り除いていけば、いつか氷河は誰にでも笑顔を見せてくれるようになるだろう。 瞬は そう考え、二つ目の夢を叶えるために、なおも そのための努力を続けた。 道は険しそうだったが、瞬にだけ見せてくれる氷河の笑顔が、瞬の原動力になった。 だが――現実は いつも冷酷である。 瞬の二つ目の夢が叶う日が来る前に 幼い二人に別れの時がやってきた。 聖闘士になるための本格的な修行をするために、二人は別々の修行地に送られることになったのである。 氷河は東シベリア、瞬はインド洋上に浮かぶ孤島。 数千キロの距離を隔てた、遠い遠い場所に。 別れの日にも 瞬は、せっかく笑顔を見せてくれるようになった氷河が元に戻ってしまわないよう、 「僕、必ず 生きて帰ってくるからね、氷河、また笑わなくなったりしないでね」 と何度も何度も 氷河に念を押した。 瞳を涙でいっぱいにして そんなことを言う瞬を、氷河はどう思ったのか――。 瞬は その時 初めて、氷河の青い瞳に浮かぶ涙を見たのだった。 氷河の その涙が、ずっと瞬の心に残っていた。 氷河が感情を取り戻しつつあったのなら、それは喜ばしいことだが、もし氷河の涙が別離を悲しむ涙だったなら、氷河はまた 別離を恐れるあまり、他者との関わりを持つことを恐れる以前の氷河に戻ってしまうかもしれない。 氷河の笑顔を消してしまわないために、自分は必ず 生きて もう一度 氷河に会わなければならない。 それが、瞬の次の夢になり、もちろん瞬は その夢の実現のために努力したのである。 そうして 数年後。 瞬の三つ目の願いが叶った時、氷河は 幼い頃と同じように瞬に笑顔を見せてくれた。 幼い頃と同じように、瞬にだけ。 氷河が 瞬以外の人間と積極的に他人と関わりを持とうとしないのは、幼い頃と全く変わっていなかった。 というより、氷河の病気は、幼い頃より はるかに重篤になっていた。 再会の日、瞬を強く抱きしめてくれた氷河は、瞬以外の人間を明確に恐れるようになっていたのだ。 なぜ自分が他人を恐れるのか、氷河は その理由を忘れてしまっているようだった。 その理由は憶えていないのに、『他人は恐いものだ』という固着観念だけが 氷河の心に根付いてしまっていたのである。 |