そんなある日のこと。
その日は、ハロウィンの飾りつけをするというので、カボチャや お菓子や ゴーストの置物を抱えたメイドたちが、朝から邸内を 騒がしく行き来していた。
当然、氷河は自室に閉じこもり、瞬は ラウンジのソファで 秋の野草の写真集を眺めていた。
そのページを繰った弾みに、写真集の間から 栞にしてはサイズの大きい紙片が ひらひらと2枚 床に舞い落ちる。
それが足元に滑ってきたので、星矢は その紙を拾い上げた。

「なんだ、これ。大英帝国 絵本の歴史展? 今日までのチケットじゃん」
「あ、それは――先週、沙織さんに もらったんだ。行けたら行きたいなあって思ってたんだけど、でも、一人にすると氷河が恐がるし、人がいっぱいいるところに氷河を連れていくわけにもいかないから……」
それ以前に 氷河は絵本の歴史などに興味はないだろう――という推察は さておいて、星矢は、しょんぼりと両肩を落とした瞬に嘆息することになったのである。
その溜め息を 最後まで吐き出し終える前に、星矢の中に『これでいいわけがない』という考えが頭を もたげてくる。
こんな状況が いいことであるはずがないのだ。
瞬にとっても、氷河にとっても。

「氷河は、俺たちが見ててやるから行ってこいよ。ほんの数時間だろ」
腹の中の苛立ちを なるべく表に出さぬよう 気をつけながら、だが 半ば以上 命じるような口調で、星矢は瞬に外出を勧めた。
「でも……」
仲間の申し出に ためらいを見せる瞬に、
「いいから、行ってこいって。おまえは氷河の親でもベビーシッターでもないんだぞ!」
まるで瞬に外出させることが 世界を滅亡の危機から救う第一歩だと言わんばかりの勢いで、星矢が重ねて命じる。
「星矢の言う通りだ。それに、沙織さんの厚意を無にするのも どうかと思うぞ。おまえのことを気に掛けていてくれるから、沙織さんも おまえが好みそうなイベントのチケットを わざわざ持ってきてくれたんだろうし」
紫龍にまで そう言われて、瞬は やっと その気になったらしい。
というより、瞬はむしろ、沙織の厚意を無にするのは よろしくないという紫龍の言葉に 逆うことができなかったのだろう。

星矢と紫龍に背を押され、悪事を働こうとしているわけでもないのに、まるで泥棒のように足音を忍ばせて玄関に向かう瞬。
そんな瞬を見送るため――というより、瞬の外出を きっちり見届けるために、星矢と紫龍もまた玄関まで同道した。
そこに どういうわけか、自室に閉じこもっていたはずの氷河が やってくるのは、単なる間の悪さか、氷河の勘の良さゆえか。
エントランスホールに続く階段の上に氷河の姿を認めた途端、瞬は びくりと身体を震わせ、そして、罪人のように その顔を伏せてしまった。

氷河に内緒で外出しようとしていた自分に、瞬が 覚えなくてもいい罪悪感を覚えているのは明白。
そんな瞬に、
「瞬、俺を見捨てるのか」
と訊いてのける氷河は いったい どういう了見でいるのかと、星矢は思い切り むかついてしまったのである。
まるで弁解でもするように、
「そ……そんなことしないよ!」
と答える瞬。
そんな瞬を外出させないために、わざとらしく 沈んだ口調で、
「いや、いいんだ。行ってくれ……」
と告げる氷河は、狡猾な策士である。
そして、瞬は、まんまと氷河の策に はまった。

「あ……ううん。やっぱり、出掛けるのは やめるよ。外、寒そうだし」
本日は晴天。
典型的 小春日和である。
決して 寒くなどないし、寒かったとしても、それが瞬の外出にどんな支障を生じるというのか。
「瞬。俺のことなら、気にしなくて いいんだ。俺は 一人で おまえの帰りを待っている」
しおらしく(= 恐るべき厚顔で)氷河に駄目押しをされて、瞬は 外出を諦めたようだった。
「ん。でもいい。氷河を一人にして出掛けたら、気になって、楽しめなさそうだし」
「本当に いいのか?」
「うん」

瞬の首肯を見て、氷河が、申し訳なさそうに 安堵の笑みを浮かべる(= 勝ち誇ったように、満面の笑みを作る)。
その笑みが真に意味するところは どうであれ、
「ずっと側にいてくれるな?」
瞬は 氷河の笑顔に弱い。
「もちろんだよ」
瞬は、氷河に笑っていてもらうためになら、何でも――どんなことでも――するのだ。
子供の頃から、瞬は いつもそうだった。
そんな瞬を見て、瞬の仲間たちが苛立ちに囚われていることになど気付きもせずに。

星矢の苛立ちに気付いてはいないのだろうが(気付いていないからこそ?)、氷河の笑顔を見詰め、瞬が心配そうな目を氷河に向ける。
そして、不安げな口調で、瞬は氷河に告げた。
「でも……今は僕が氷河に ついててあげられるから 何とかなってるけど、万一 僕の身に何かあった時のことを考えると、僕、やっぱり氷河の対人恐怖症は治した方がいいと思うんだ……」
“病気”とは、身体や心に不調や不都合が生じている状態のこと。
病気は、それがどんなものであれ治した方がいいに決まっている。
病気に罹っていながら、それを治したがらないのは、その病によって何らかの益を得ている人間だけだろう。
つまり、今の氷河が そうだった。

「おまえに万一のことなど起こらない。俺が おまえを守るからな。この命に代えても」
「氷河……」
病人は自信満々だが、看護人は心配顔。
当座の生活に支障がなければ それでいいという氷河が、瞬は心配でならないのだろう。
病気の完治という根本的な解決を避けている氷河の未来に 大きな落とし穴が待ち構えているのではないかと、瞬は それを案じているのだ。
瞬が、誰のために 何を心配しているのか わかっていないはずはないのに、氷河は 瞬に事実を告げない。
そんな氷河を睨みつけている星矢の こめかみは、先程から ずっと ぴくぴくと引きつっていた。
怒り心頭に発しているのだろうに、ぎりぎりのところで踏みとどまり 爆発せずにいる星矢を、紫龍は褒めてやりたいと思っていたのである。
氷河の仮病の事実を知ったら、仲間に騙されていたことに、瞬は傷付くだろう。
そう考えているからこその、星矢の忍耐なのだ。
思い遣りという点では、氷河より星矢の方が はるかに大人だった。
もっとも、瞬の耳目のあるところでは 瞬のために我慢している分、瞬のいないところでは、星矢は遠慮というものを知らなかったが。

「氷河! この我儘大馬鹿野郎! 瞬は、ほんとにおまえのことを心配してんだよ。それが わかんねーのか、おまえは! 病人を庇って守ってるだけじゃ おまえのためになんないから、おまえと おまえの将来のために、ビョーキは治すべきだって、瞬は思ってるんだ。わかってんのか、おまえ!」
「それくらい、俺だって わかっている」
「わかってて、自分はビョーキだって言い張ってんなら、おまえは最低で最悪な男だ! いい加減、ほんとのこと言って、瞬を自由にしてやれよ! おまえ、瞬が好きなんだろ。病気の振りして、瞬の目を自分に向けておこうなんてのは、母親の気を引くために泣きわめくガキと おんなじだぞ、このマザコン野郎!」

図星なだけに、氷河は 星矢の糾弾が不愉快だったのだろう。
当然である。
氷河は、せっかくの瞬の誤解を 賢く有効利用しようとしているだけで、そこに瞬への厚意と好意はあっても、悪意は かけらほどにもないのだから。
だから、星矢の剣幕は、氷河には大袈裟なものに思えたのかもしれない。
本当に 嫌なのであれば、瞬は はっきり『嫌だ』と言うはずだという、少々 身勝手な思い込みも、氷河の中には あるのだろう。
実際 瞬は、氷河の世話を焼くことを心底から嫌がってはいないのだろうと、紫龍は思っていた。
瞬は ただ、病気の氷河の行く末が心配なだけなのだ。
そして、紫龍は、そんな二人の行く末こそが心配だった。

「さすがに おまえが瞬を母親の代わりにしているのだとは思わないが、そろそろ路線を変えた方がいいのではないかとは、俺も思うぞ。おまえが瞬なしではいられない振りをしていても、何にもならないんだからな。瞬が おまえなしではいられないようにしなければ、おまえの恋は実らない。病気の振りをしている限り、瞬はおまえの恋人にはならない。瞬は いつまでも おまえの保育士か介助士のままだ。おまえは それで満足なのか」
「……」
もちろん 氷河が“それで満足”のはずはなかった。
氷河が欲しいのは 母親ではなく、保育士でも介助士でもないのだ。
仲間たちに そこまで言われてやっと、氷河は、自分の病気の治療の方策を 真面目に考え始めたようだった。






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