報を聞いた氷河が 母の亡骸の前にやってきたのは、ナターシャの瞼が閉じられてから小半時が過ぎてから。 「僕は 王大后様を殺してしまいました。気分を落ち着かせる薬草を、本来の倍の量、王大后様に飲ませて。僕は氷河の大切なお母様の命を奪った、氷河にとっては母の仇。氷河、僕を殺して」 母の亡骸の前で呆然としている氷河に、ナターシャに指示された通りの言葉を告げる。 長い――長い沈黙のあと、氷河はナターシャが考えていた通りの答えを瞬に返してきた。 「……事故なら仕方ない」 「復讐を果たさないと、氷河の誇りが保てないんでしょう?」 「死なせようとして、そうしたわけじゃない。父の場合とは、事情が違う」 ここまでの氷河の言葉は、ほとんどナターシャの想定通り。 このままナターシャの指示通りに会話を続けていけば、氷河はナターシャが用意していた結末に辿り着くだろう。 だが 瞬は、そこでナターシャの用意したものとは違う言葉を、氷河に告げたのである。 「事故ではないんです。僕は、王大后様を殺そうとして殺しました」 氷河がナターシャの台本にはなかった表情を浮かべる。 続けて氷河が口にした台詞も、ナターシャの台本には記されていない台詞だった。 「そんなことがあるはずがないだろう。そんなことをする理由が、おまえにはない」 「理由ならあるよ。僕は 僕より氷河に愛されている王大后様を妬んでいたの」 「まさか」 「どうして まさかなの」 「おまえは嘘をつけない。俺には わかってるんだぞ」 「僕には嘘をつけない? そうだね。僕は嘘をついていない。すべて 本当のことだよ。氷河を独り占めするためなら、僕は何だってするよ」 『おまえは嘘をつけない』 氷河は いったい どこで、そんな おとぎ話を拾ってきたのだろう。 人は 誰でも嘘をつくことができる。 どれほど賢明な人間も、どれほど誠実な人間も、愛に追い詰められれば、人は誰でも嘘をつくことができるのだ。 愚かな人間や卑劣な人間は 自分のために嘘をつき、賢明な人間や誠実な人間は 愛する者のために嘘をつくという違いがあるだけのこと。 自分は どちらなのだろう。 そう思いながら、瞬は必死に自らが用意した台本の役柄を演じ続けた。 「まさか、本当に」 「本当だよ」 だが、ここまでくれば、もう嘘をつく必要はない。 偽りの役を演じる必要もない。 瞬の必死さに気圧された氷河が、瞬の嘘を信じかけていることに気付き、瞬は僅かに肩の荷が軽くなった――ような気がした。 「王大后様の仇を討って。氷河にとって復讐は、ヒュペルボレイオスの民の命を犠牲にしても成し遂げたいことなんでしょう?」 「それでも、できない。おまえを殺すなど――復讐など できるわけがない。俺はおまえを愛している!」 「殺して! そして、お父様の復讐を忘れて」 「なに?」 なぜ、母の仇を討つことが、父の仇を忘れることに繋がるのか。 氷河には それは筋の通らない話――全く別の話だったのだろう。 だが 瞬にとって それは、同じ一つの物語。 同じ一つの泉を源とする二つの川の事相だったのだ。 「僕を殺せば、氷河はすべての復讐をやり遂げることになるの。それが いちばんいいんだ。僕にとっても、氷河にとっても」 「どういう意味だ」 「氷河が復讐を忘れてくれないと、僕は氷河を殺さなきゃならなくなる」 「おまえは何を言っている」 「氷河のお父様の命を奪ったのは、僕の父だよ」 「……」 これまでの やりとりだけでも十分に混乱していたのだろう氷河が、瞬の告白に ぽかんとした顔になる。 氷河には、それは寝耳に水のこと。 あまりに唐突すぎ 突拍子がなさすぎて、信じる信じない以前に、自分が何を知らされたのか、今の氷河は 理解が追いつかない状況なのだろう。 だが、それは厳然たる事実だった。 「エティオピアの現在の国王は僕の兄です。氷河がもし エティオピアの現国王の命を奪うことで お父様の復讐を遂げたなら、今度は氷河が僕の兄の仇になる」 「な……何を言っているんだ。おまえは赤ん坊の時から、俺と一緒だったじゃないか……!」 それが、氷河にとっての事実であり真実。 それは、瞬にとっても事実であり真実(の一部)だったので、瞬は氷河に 切なく頷くことになったのである。 「俺は――俺は憶えている。父が殺されて半年。マーマが赤ん坊のおまえを抱いて、俺の部屋に入ってきたんだ。それまで 笑い方を忘れてしまったように、毎日 つらそうにしていたマーマが、あどけなく笑っている赤ん坊のおまえを見て、微かに笑った。もう二度と見ることはできないのかもしれないと思っていたマーマの笑顔に、俺が どんなに歓喜したか――どれほど おまえに感謝したか……。おまえは、俺とマーマのために神々が贈ってくれた贈り物なのだと、俺は――」 「……」 氷河の言葉が、切なく苦しい。 氷河が神々からの贈り物だと信じていたものが、本当は 彼の父を殺した男からの罪の代償だったのだ。 その事実を氷河に知らせることは、瞬には 本当につらいことだった。 できれば永遠に知らせないままでいたかった。 だが――だが、今、氷河の手の内には、一度 失ってしまえば二度と取り戻すことのできないヒュペルボレイオスの民の命がある。 それらを取り返しがつかないものにしないために、瞬は氷河に事実を告げなければならなかった。 「氷河の お父様が亡くなってから 2ヶ月後、僕は生まれた。僕を産んですぐに、僕の実母は産褥で亡くなったの。父は それを天罰だと思ったそうだよ。氷河の お父様を死なせてしまって、でも、僕の父はエティオピアの王で、国と民に責任があって、自分の命で自分の犯した罪を償うわけにはいかなかった。だから、代わりに、妻が命がけで残した 妻の忘れ形見である僕を ヒュペルボレイオスに――王大后様と氷河に差し出したの。僕の命は王大后様と氷河のもの、お二人の好きなようにしていいと言って」 「そ……そんな勝手が、実の父親と言えど、許されるか!」 「それくらい、僕の父は自分の罪を悔いていたの。あんなことになってしまったけど――あんなことになるまで、氷河のお父様と僕の父は とても仲のいい従兄弟同士だったから」 「――」 氷河も、それは聞いていた。 エティオピア国王への氷河の憎しみは、だからこそ 一層 募ったのだ。 仲のいい従弟を装って、エティオピア国王は その胸中にヒュペルボレイオス王への憎悪を養っていたのだと。 そうだった――のだろうか? 「王大后様は復讐なんて考えなかった。僕の命を奪うことをせず、僕を氷河と分け隔てなく育ててくれた。僕は何も知らずに、氷河と共に幸福に育った。僕は 王大后様が好きで、氷河が好きで――自分が王大后様や氷河の仇だということも知らず、氷河に愛されて、幸せだった。氷河が成人して親政をとることになった時、王大后様が事実を教えてくれたの。僕がエティオピアの王子だということ、僕に兄がいること。兄がずっと、僕を返してくれとヒュペルボレイオスに頼み続けていたこと――。どうしたいって、王大后様は 僕に尋ねた。僕の好きにしていいって、王大后様は言ってくれた。僕は――それが当たりまえのことのように、氷河と王大后様の側にいることの方を選んだよ。その時にはもう、僕は 氷河と離れることができなくなっていたから」 「瞬……」 氷河が瞬を初めて抱きしめたのは、瞬がまだ14の時だった。 氷河が王としての親政を始める1年前。 では、あの時 瞬は、自分が何者であるのかを知らないまま、我が身を 兄弟のように育った幼馴染みに委ね、そうしてから 事実を知らされたことになる。 そして、事実を知ったあとも、瞬は 氷河に対して沈黙を守り続けていたのだ。 「おまえはそれを知っていて……おまえの父が 俺の父の仇であることも――」 「僕は氷河を騙していたの。だから 氷河、僕を殺して。そして、それで 氷河の復讐を終わりにして」 「瞬……」 「氷河は、僕を殺せるでしょう? こんな姿の王大后様を見たら」 言われて、氷河は、母の亡骸に視線を落とした。 自分の命より大切な人だと、一瞬の逡巡もなく断言できる美しい人。 氷河の不幸は、“自分の命より大切な人”と言い切れる人が、母の他に もう一人いることだった。 その人が、母を殺した――。 これは悪夢だと、氷河は思ったのである。 悪夢を生む神ポベードールが、美しく愛らしい恋人を持つ男を妬んで、こんな夢を見せているのだと。 そうでなければ、こんなことは起こり得ないことだ――と。 |