「氷河」
瞬が、氷河の手に剣を手渡してくる。
細く頼りない華奢な短剣。
だが、瞬の命を奪うには十分な鋭さを持つ短剣。
手渡された その剣を、氷河は しばし無言で見詰めていたのである。
青い瞼の母の亡骸を見、瞳を涙でいっぱいにして 無理に微笑みを浮かべている瞬を見、最後に 氷河は目を閉じて天を仰いだ。
父の仇、母の仇、愛する瞬。
いっそ この剣で、自分の胸を突いて この苦悩を終わらせてしまおうかとも、氷河は考えた。
しかし、氷河は、ナターシャの息子――優しく愛情深く、聡明で賢明なヒュペルボレイオス王大后の血を受け継いだ、彼女のただ一人の実子。
氷河は、瞬に手渡された剣を床に投げ捨てた。

「瞬。おまえの期待に背いて申し訳ないが、俺は そこまで馬鹿ではないぞ。おまえの命を奪って、父母の復讐を遂げ、それで俺に何が残るというんだ? 何も残らない。俺は すべてを失う。俺は、そこまで欲のない男じゃない。幸福になる可能性が僅かでもあるのなら、俺は それに しがみつき続ける」
「氷河……?」
「俺にはもう、おまえしか残っていない。俺は おまえを手放さない」
「あ……」
「おまえは俺のものだ。俺は復讐を忘れる。エティオピア国王に頭を下げ、交易の再開を乞うこともしよう。それでいいか?」
「それでいいか――って……。でも、あの……」
瞬には、それは想定外の展開だった。
父の復讐だけなら ともかく、母の復讐をも忘れると、氷河が言い出すことは。

瞬は ここで死ぬつもりだったのだ。
自らの死で、氷河の中にある すべての憎しみを清算してもらうつもりだった。
それでヒュペルボレイオスの民の命も救われると思っていた。
氷河に、『それでいいか』と問われ、『それでは困る』と答えることもならず――瞬は返答に窮し、対処に窮し、自分が どうすればいいのかが わからなくなってしまったのである。
迷い、戸惑い、いっそ この場から逃げ出してしまおうかと、瞬は そんなことまで考えた。
幸い 瞬は、そんな きまりの悪いことをせずに済んだのだが。
瞬を その窮地から救ってくれたのは、他でもない、瞬が命を奪った(ことになっている)氷河の母ナターシャだった。
「氷河。あなたが こんなに前向きで強く賢明な子だったなんて。マーマは嬉しいわ」
まだ半日以上は目覚めないはずの人が、いつのまにか死の床の上に身体を起こしていた。
そして、彼女は 彼女の息子に 称賛の言葉と拍手を送っていた。

「王大后様、なぜ……」
なぜ こんなに早く目覚めているのだと、言葉にはせず(できずに)瞳で瞬がナターシャに尋ねる。
ナターシャは、何を そんなに驚いているのだというような眼差しを、瞬に向けてきた。
「私の愛の力を見くびらないでちょうだい。あなたと氷河の危機となったら、私は 冥界のタルタロスからでも甦ってみせるわよ。可愛い嘘つきさん。私を騙すなんて」
「騙すだなんて……僕、そんなつもりは――」
ナターシャに責められた瞬は、身の置きどころをなくしたように、瞼を伏せ、身体を縮こまらせた。
「僕は、氷河に本当に幸せになってほしかったんです。氷河に本当のことを知らせて、僕の命で 氷河の復讐を終わらせれば――それで復讐に こだわる必要がなくなれば、氷河は本当に幸せになれると思った……」

決して言い訳ではなく、ただ真実を告げているだけのつもりなのに、言い訳じみた声に聞こえるのは、その考えが間違っていたことを、今では瞬も知っているから――だった。
瞬は、ナターシャから 更なる叱責を受ける覚悟をした。
ナターシャが そんな瞬を見やり、細い溜め息をつく。
「あなたが、嘘をつくことができず、人に秘密を持っていることを苦しく思う子だということを失念して、あなたに こんな芝居をさせようとした私の思慮が足りなかったわ。でもね、瞬。私は、氷河に復讐の無意味を教えようと言って、あなたを この死んだふり計画への協力を頼んだのよ。氷河に復讐を成し遂げさせて 氷河をすっきりさせてやろうなんて、そんなことを考えたわけじゃない。そうすることで、氷河が本当に幸せになれてしまったりしたら、私の息子は ただの馬鹿だということになってしまうじゃないの」

幸い、ぎりぎりのところで馬鹿息子の証明をせずに済んだ氷河は、母の口にした“死んだふり計画”なる言葉に呆れ、少々 脱力気味。
もちろんナターシャが、その計画に“擬死による ヒュペルボレイオス国王更生計画”などという仰々しい命名をしないのは、この出来事を重大事にしないための気配りだということは わかっていたが、この“死んだふり計画”は まかり間違えば重大事件になっていたのだ。
一つ間違えば、瞬の命が 地上から消え去り、ヒュペルボレイオス国王は真の幸福に至る道を永遠に失い、ヒュペルボレイオス国王大后は 決して忘れられない後悔を、その身に負うことになっていた。
そうならずに済んだのは――。

「氷河。あなたが瞬の命を奪うようなことをしなくてよかったわ。瞬は 私の子も同然。あなたが瞬の命を奪っていたら、今度は あなたが私の子の仇になっていたわ」
「奪わなかったのではなく、奪えなかったんです」
「それは、あなたの中で、憎しみより愛の方が 強い力を持っているということよ。良いことだわ。その愛情、国民にも与えてやりなさい」
「はい」
実に全く耳に痛い。
氷河が神妙に母に頷くのを確かめると、ナターシャは彼女のいる寝台の側に 瞬を手招いた。

「瞬。あなたは最初から 自分が死ぬつもりで私の計画に協力してくれたの……。私が 秘密を秘密のままにしておこうとしたから……。かわいそうに。あなたは ずっと苦しんでいたのね」
ナターシャが瞬の肩を抱き、その髪を撫でる。
瞬が 必死に涙をこらえていることを――否、愚かな幼馴染みに涙を見られまいとしていることを、瞬の肩の小刻みな震えが、氷河に教えてくれた。
瞬の肩を抱きしめたまま、ナターシャが彼女の息子に視線を向けてくる。
息子を見詰めるナターシャの瞳には、優しさと厳しさの他に、今 彼女の目の前に立つ我が子を誇らしく思っているような輝きが たたえられていた。

「あなたの お父様が亡くなって……あなたはまだ幼い。父を失った あなたは、幼い子供なのに事情を察していたのか、ひどく ぴりぴりして、突然 訳もなく暴れ出したかと思ったら、翌日から何日も沈み込んで部屋に閉じこもって、出てこなかったり――私はどうすればいいのかわからず、途方に暮れ、迷っていたのよ。そんな私に生きる力と目的を与えてくれたのは、瞬の笑顔だった。あなたも、瞬と一緒にいる時には穏やかな表情になって、笑ってくれるようになった」
「そうだ。瞬は、俺たち母子の救い主だった。だから、できない。復讐などできるわけがない。たとえ瞬が母の仇でも」
母に向かって そう言えるほど ものが見えるようになっているのなら、もう大丈夫。
ナターシャは そう判断し、瞬が自分の命を捨てても隠し通そうとした秘密を 息子に打ち明ける決意をしたのである――そして、彼女は語り始めた。






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