「あなたのお父様は大変な激情家だったわ。人を愛するのも憎むのも激烈で――いつも狂気の女神リュッサが傍らにいるような人だった」
「狂気の女神リュッサ――」
それは、英雄ヘラクレスに狂気を吹き込み、彼に その妻子を殺させた忌まわしい女神の名である。
そんな女神を いつも傍らに置いているような男。
そんな男が自分の父だったというのか。
自分から知りたいと望んだことだというのに、氷河は、母の唇が作った女神の名に不吉なものを感じないわけにはいかなかった。

「彼は、私とあなたを とても深く――狂的といっていいほど深く愛してくれていたわ。対照的に、エティオピアの国王陛下――瞬の お父様は とても穏やかな方。だから 二人は とても仲のいい従兄弟同士だったのよ。二人には二人が必要だった。あなたの お父様の激しさを、瞬の お父様が和らげ、人を統べるには少々 消極的なところのある瞬の お父様を あなたの お父様が励まし、鼓舞し――わかるでしょう」
「俺と瞬のようだ」
「ええ。そう。似ているわね。あなたのお父様は もっと激しかったけれど」

ナターシャは そこで一度 言葉を途切らせた。
瞬の肩に置いた手の指先に力を込め、彼女が 再び口を開く。
「きっかけは些細な――ちょっとした手違いだった。あの頃、ヒュペルボレイオスとエティオピアでは、毎年 交互に国王が互いの国を訪問することが慣例になっていたの。あの年は、瞬の お父様がヒュペルボレイオスを訪問する年に当たっていた。エティオピア国王陛下ご訪問の日々は楽しくすぎていったわ。歓迎の宴も 親交を深めるための催しも つつがなく行われた。エティオピア国王陛下の帰国の前日、私は、瞬を身籠っていたエティオピアの王妃様への贈り物を準備したのだけど、その中に、誤って あなたのお父様から贈られたハンカチを紛れ込ませてしまったの。帰国の船に乗る直前、そのハンカチに気付いた瞬の お父様が私のところに それを持ってきてくださった。『自分が妻に贈った物が他の男の手にあったら、我が従兄殿は大騒ぎを起こしますよ』と言って、こっそりとね。その様子を たまたま あなたのお父様が見てしまったの。そして、その時、彼の傍らには、おそらく狂気の女神リュッサがいたのでしょう。あなたの お父様は、私と瞬の お父様の仲を疑って――そんなことはないといくら言っても聞いてくれなかった。妻の懐妊中に わざわざ故国を離れて遠い北の国にやってくるのは おかしいと、あの人は そんなことまで言い出した。エティオピアの国王陛下は、従兄への愛情と友情のために、そんな時にもかかわらず、慣例通りに ヒュペルボレイオスにいらしてくださったというのに」

その先のことは、もう聞かなくても想像がつく。
狂気リュッサに憑りつかれた英雄ヘラクレスは 我が子を その手で殺し、彼の妻メガラーは 我が子の死を悲しんで 自らの命を絶った。
それと似たような悲劇が、この城で起こったのだ。
ただ、リュッサの狂気の犠牲になった人物が違っていただけで。

「あなたの お父様は、最後には剣を抜いて、エティオピアの国王陛下に切りつけようとした。あの人の剣は、二人のいさかいを止めようとした私や あなたにまで向けられた。エティオピアの国王陛下は、その剣から私と私が抱いていたあなたの身を守ろうとしてくださって、そのために 二人は揉み合いになり――あなたの お父様は、自分が持ち出した剣で 自分の命を落としてしまったのよ」
「……」
あまりのことに、氷河は声を失ってしまったのである。
エティオピア前国王は 確かに父の仇だが、では、彼は母と その息子の命を守ってくれた恩人でもあった――ということになるではないか。
「私たちは――私とヒュペルボレイオスの家臣たちは、国王の死が国王自身の狂気にあったという事実を国民に知らせることはできなかった。エティオピア国王陛下は、そんなヒュペルボレイオスの事情を理解してくださって、従兄殺しの汚名を着たまま、弁解もせず、国に お帰りになったのよ」
そうして彼は――瞬の父は――従兄殺しの汚名を着たまま、氷河に憎まれたまま、彼を憎む王のいる国に 妻の忘れ形見を預けたまま、十数年の時を生き、死んでいったというのか。
それは、氷河には、彼の理解を超えた強さ――強さなのだろう――だった。

「なぜ……なぜ本当のことを教えてくれなかったんだ。国民の混乱を避けるためだというのなら、せめて俺には――。真実を教えてもらえていたら、俺は エティオピアとの国交断絶など考えなかった」
王を殺されたというのに、報復のための戦はおろか、国交を断絶することもせずにいたのは、そういう事情があったから――当時 この城に勤めていた者たち皆が、その事実を知っていたからだったのだろう。
彼等の判断は正しいと思う。
当然のことだと思う。
だが、なぜ それを自分に――まがりなりにもヒュペルボレイオスの国王である自分に教えてくれなかったのか。
その事実を知ってさえいれば、自分はエティオピアの国を憎まずに済み、瞬の父をも憎まずに済んだのだ。
せめて 王としての親政を始めた時に知らせてくれていたなら、ヒュペルボレイオスの民に飢餓の不安を抱かせることはせずに済んだのに――。

「あなたには永遠に事実を知らせてはならないと、帰国の際に、瞬のお父様がおっしゃったのよ。母の不義を疑った父の狂気を知ったら、あなたは悲しむでしょう。それだけでなく、あなたは、自分の身体に流れている狂気の父の血を恐れることになるかもしれない。そして、その恐れは、あなたに本当に狂気を運んでくるかもしれない。だから、事実を知る者は誰も あなたに本当のことを語れなかった。私も、家臣たちも、瞬も――」
「父の狂気の血……」

言われて、氷河はぞっとしたのである。
確かに それは恐ろしいことだった。
信頼し合う親友でもあった従弟や 自らの妻子の命までも奪おうとするほど激しい愛の狂気。
そのために死んだ男の血が、自分の身体に流れている。
氷河は、これまで自分の正気を疑ったことは一度もなかったが、父の復讐を願うあまり、民の窮状を看過していた王が正気だったと、誰に言えるだろう。
氷河が何より恐ろしかったのは、瞬時も途切れることなく 瞬に向かって生じ続ける自分の思いが 愛ではなく狂気である可能性だった。

「そんなことはないよ。氷河は狂気に陥ってなんかいない。そんなことにはならない……!」
言葉にすることもできずにいた氷河の不安を否定してくれたのは、氷河が愛し求めてやまない瞬 その人だった。
つい先ほどまでナターシャにすがりつき、ナターシャに抱きしめられていた瞬が、いつのまにか顔を上げ、まっすぐに氷河を見詰めている。
それは事実なのか、瞬の希望にすぎないのか。
たった今も(こんな時だというのに)、母さえ この場にいなければ瞬を抱きしめてしまいたいと訴える自らの心身に戸惑い、恐れさえ感じて、氷河は瞬の澄んだ瞳を無言で見詰め返したのである。
そこに、突然、ナターシャの明るい笑い声が響いてくる。

「そうなのよ。私としたことが、うっかり忘れていたのよ。氷河は、確かに あの人の激しさを受け継いでいるけれど、同時に この私の賢明の血も受け継いでいるのだということを。氷河が、瞬を離さない、復讐などしない、エティオピアとの交易を再開すると宣言してのけた時、私はその事実を思い出したの。私ったら それまで、私が氷河に与えたものは、この輝くばかりの美貌だけだと思い違いをしていたのよね!」
「マーマ……」
もちろん わざとそういう言い方をしているのだということは わかるのだが、実に派手やかな自信家振り。
彼女から 輝くばかりの美貌を授かった息子は、彼女から受け継いだ賢明ゆえに、少々 疲労感を覚え始めていた。
「はい……! はい。ヒュペルボレイオス王大后様の おっしゃる通りです」
瞬が あまりに嬉しそうに(おそらく)心底からナターシャの自信を受け入れてみせるので、氷河は その件に関して母に意見することはできなかったのだが。

「エティオピアの現国王――瞬のお兄様は、我が国からの一方的な国交断絶の知らせを受けたあともずっと、ひそかにヒュペルボレイオスに食料を送ってくれていたわ。瞬を飢えさせないためと言っていたけれど、でも、幾艘もの大型船に満載した穀物が 瞬のためだけのものだったはずはないわね」
「エティオピア国王には頭を下げ、これまでの勝手と無礼を詫びます」
瞬の兄も、おそらく 事実を知っていたのだろう。
誰も彼もがヒュペルボレイオスの未熟で我儘な王のために 心を砕いてくれていたのだ。
氷河は、世界中のすべての人に感謝の言葉を告げてまわりたい気分だった。






【next】