『最も美しい女神へ』と記された黄金のリンゴ。 ペーレウスとテティスの婚礼に招かれなかった争いの女神エリスが、その黄金のリンゴを婚姻の祝宴の場に投げ込み、三柱の女神――大神ゼウスの妻である神々の女王ヘラ、愛と美の女神アフロディーテ、知恵と戦いの女神アテナの間に争いを招いたことが、そもそもの発端だった。 『私を選んでくれたなら、そなたに、この世で最も美しい女を与えよう』という言葉に心を動かされた審判のパリスが、そのリンゴを愛と美の女神に手渡したことが。 「発端というのは、トロイア戦争の?」 女神アテナにとって、それは、俗に言う黒歴史というものだろう。 思い出したくない その騒動の件を、 あえて持ち出したアテナの意図を量りかね、かといって ひたすら沈黙を守っているのも気まずかったので、瞬は 恐る恐る 知恵と戦いの女神アテナ こと グラード財団総帥 城戸沙織に尋ねてみたのである。 瞬に問われた沙織は、まるで すっかり忘れていた忘れ物のことを思い出したような顔になって、軽く その肩をすくめた。 「ああ、そう。あれもエリスのリンゴのせいだったわね。そういえば、そうだったわ」 「……」 どうやら沙織は、トロイア戦争のことを言っているのではなかったらしい。 では、アテナが語ろうとしているのは、トロイア戦争の後に起こったオデュッセウスの放浪の旅のことか、あるいはトロイアの王子アエネアスの苦難の遍歴のことか。 他に 黄金のリンゴが発端になって起こった事件があっただろうかと、瞬は考えを巡らせた。 瞬が その答えに辿り着くのを待っていられなかったらしい沙織が、さっさと 答えを瞬に知らせてくる。 「あのリンゴが発端になって起きたことといったら、美人コンテストのことに決まっているでしょう!」 なぜ そんなことがわからないのだと言いたげな沙織の口調。 しかし、沙織は すぐに 思い直したように、その顔に にこやかな微笑を浮かべた。 その微笑の後を追って、 「そういうわけだから、瞬、お願いね」 という言葉が、瞬に与えられる。 「は? お願い……?」 何が『そういうわけ』なのか。 『お願い』とは、いったい何のことなのか。 まるで 訳がわからないのに、なぜか嫌な予感を感じる心だけが重くなっていく。 瞬の嫌な予感は、もちろん的中した。 沙織が 更に続けて曰く、 「だから、その美人コンテストに、私の代理で、出てちょうだいって」 「……」 本当に訳がわからない――というより、わかりたくない。 瞬は、救援を求めて、その場にいた仲間たちに すがるような視線を投げかけたのだが、“訳のわからなさ”では、彼等も瞬と大同小異。 結局、瞬と瞬の仲間たちは沙織の説明を待つことしかできなかった。 訳をわかってもらわないことには話が進まないと判断したらしい沙織が、少し億劫そうに、やっと その説明を始める。 瞬の嫌な予感は 相変わらず 警報を鳴らし続け、そして、沙織の説明は実に不可解なものだった。 「黄金のリンゴが発端になって行なわれた美人コンテストは、そのコンテストの参加者が へたに有力な女神たちだったものだから、それぞれの立場や面子があって、誰も引くに引けない状況になり、オリュンポスの神々を二分する大騒ぎに発展した。で、その騒ぎに懲りた神々は、女神たちの美人コンテストを行なう際には、必ず人間の代理を立てるというルールを作ったのよ。それなら、コンテストに負けた女神たちの立場も悪くなることはないでしょう?」 「そういうもの……なんですか」 負けて立場を悪くしたくないのなら、そんなコンテストに参加しなければいいではないか。 それ以前に、そんなコンテストなど開催しなければいいではないか。 ――と、胸中で瞬は思った。 が、そういう真っ当な考えは、神々の世界では認められないものであるらしい。 沙織は、少々 憂鬱そうな面持ちで 瞬に頷いてきた。 「ええ。そういうものなの。もっとも、今、そのコンテストに出馬させられているのは、私とアルテミス、そして、ヘスティア――いわゆるギリシャの三大処女神で、その主催はヘラ、審判はゼウスということになっているのだけどね」 説明を聞いても、やはり 沙織の言うことは訳がわからない――というより、ますます わからなくなった。 『コンテストに出馬させられている』ということは、沙織は 本心では そのコンテストに参加したくないと思っているのだろうか。 にもかかわらず、何らかの事情があって、参加を余儀なくさせられている――ということなのだろうか。 何も言えずにいる瞬への沙織の説明は、 更に不可解さを増していく。 「あ、私は 別にコンテストの勝ち負けにこだわっているわけではないのよ。私は、これまでは、私の身近にいる女性は女聖闘士しかいないと言って、コンテストには 仮面をつけたままの女性聖闘士たちを送り込み、適当にお茶を濁してきたの。顔を見せないのだから、当然 勝つことはできない。それで私は 私の代理人たちを守ってきた。でもね――」 「勝ち負けに こだわってないのに、なんで瞬を代理人に指名するんだよ。沙織さん、思いっきり勝ちにいくつもりじゃん」 星矢が 沙織の話の腰を折ったのは、訳のわからない説明を延々と聞かされても、自分は理解のゴールに辿り着けないと判断したからだったろう。 星矢は、訳のわからない説明が広がりすぎる前に、矛盾や不可解な点を一つずつでも潰していこうと考えたようだった。 「それは心境の変化というか、何というか」 「何が心境の変化だ! 要するに気まぐれだろう。そんなもののために、瞬を恐ろしい女の争いに巻き込むつもりなのかっ」 氷河がラウンジに怒声を響かせたのは、彼が 最初から 沙織の説明を理解するつもりがなかったからだったろう。 氷河は、瞬が神々の争いに巻き込まれて 害を被ることになる事態を回避しようとしたのだ。 「主催や審判者が誰であっても、参加者が誰であっても、美人コンテストに、男子である瞬を代理に立てるのは、いくら何でも非常識でしょう」 紫龍のコメントは、訳のわからない事柄の中に少しでも常識の姿を見い出したいという気持ちがあったからだったろう。 つまり、紫龍は常識人たる自分の立ち位置を守りたかったのだ、おそらく。 瞬の仲間たちが求めるものは極めて明瞭だったが、同時に全く異なるものでもあった。 星矢は、矛盾なく納得できる説明――つまり、明快。 氷河は、瞬に被害が及ばない事態――つまり、安寧。 紫龍は、常識が守られている状況――つまり、秩序。 望むものが異なる三人の会話は、当然のことながら、今ひとつ噛み合わない。 「でも、勝ちにいくつもりでいるのなら、瞬を指名するのは妥当じゃん」 「何が妥当だっ! 女の醜い争いの中に、どうしても誰かを ぶち込まなければならないというのなら、女にも容赦はしないと 常日頃から豪語している一輝あたりを代理に立てるのが妥当だろう!」 「一輝を美人コンテストに出すなどという非常識はやめてくれ。そもそも コンテストの主催がヘラというのは どういうことなんだ。美人コンテストなんてものに 最も懲りていそうな女神なのに」 「つーか、俺、そのヘラっていう女神サマとヘスティアって女神サマを知らないぞ」 「……」 それまで 自分の求めるものだけに固執していた氷河と紫龍が、星矢のその発言を聞いて、ふいに黙り込む。 2014年11月現在、『聖闘士星矢』に、ヘラとヘスティアは未登場。 星矢の言は、『聖闘士星矢』のタイトルロールとしては 至極 妥当なものだった(かもしれない)。 が、ギリシャ神話の偉大な女神アテナに従って戦う聖闘士の一人として、星矢の不識は常識的なものだったかどうか。 「ヘスティアはともかく、ヘラを知らないのは問題よ」 沙織が呆れたような声で ぼやく。 「でも、俺、これまで そんな神様たちに会ったこともねーし、戦ったこともねーし」 「……」 重ねて星矢に そう言われ、沙織は溜め息を洩らし――だが、彼女は すぐに気を取り直したようだった。 |