「氷河、僕、クレープが食べたい」
ふいに美少女が――瞬が、氷河にそう言った。
俺のポケットの中にあるものに気付いていないふうに。
氷河は 少しの間、何か考え込んでるふうにしてて――そして、必要なことを考え終わったのか、やがて肩から力を抜いた。
「ベンチに座って待ってろ。そこのガキも」
氷河は、俺と瞬にそう言って、それから瞬に、
「イチゴと生クリームのやつか?」
って訊いた。
「うん。君は?」
瞬が氷河に頷いて、それから俺に訊いてくる。
「クレープなんて、食ったことない」
だから、どんなものがあるのか、俺は知らない。
瞬は、そんな俺を見て、俺の代わりに俺が食うものを決めてくれた。
「彼はチョコバナナクリームのキャラメルソースがけ」
何だ、その甘そうなの。
ガキじゃあるまいし。
――って思ったけど、俺は黙ってたんだ。
氷河と瞬に見捨てられなかったことに ほっとして。

なんか、腹が立つくらい長い脚で、クレープ屋のトラックの方に歩き出した氷河は、数分後、紙に包まれたクレープを両手に持って、俺たちのところに戻ってきた。
俺と並んでベンチに座ってた瞬が、それを二つとも受け取って、
「こういうの、お友だちと食べたりしないの?」
と訊きながら、片方を俺に手渡してくる。
「友だちなんていない」
俺は、正直に答えた。
胸の中で、これから死のうとしてる人間に そんなものいるわけないだろうって思いながら。
「友だちがいない?」
それは、そんなに不思議なことなんだろうか。
瞬は、そんなことが あり得るのかって疑ってるみたいな声で、俺に訊き返してきた。
そんなの、すごく当たりまえのことなのに。

「みんなが俺を嫌いなんだ。親も、学校のみんなも」
「そうなの?」
「そうだよ」
「でも、本当にそうなのか、確かめてみたわけじゃないんでしょう?」
「確かめなくても、それくらいわかる。みんなが俺をいじめる。誰も 俺を庇ってくれない」
「……」
それは、瞬には信じられないことだったのかもしれない。
そりゃ、そうだよ。
こんなに綺麗で可愛くて優しそうな人を いじめようとする奴なんて、この世にいるはずない。
きっと瞬は、つらい目に合ったり、悲しい思いをしたりしたことのない、世界で最も幸せな人種なんだ。
幸せな人が 俺を見詰め、黙り込む。
そんな瞬を見て、俺は、幸せな人間が知らない つらさとか悔しさや不幸を知ってる俺は 瞬より大人なんだと思い、もしかしたら 不幸自慢をしたい気持ちになっていたのかもしれない。

「だから、あいつ等を見返してやろうと思ったんだ。頭のいい奴しか入れない中学に入って、俺はあいつ等とは違うってことを、あいつ等に思い知らせてやろうとした。でも、失敗した」
「それで やけになっているのか」
瞬と俺の前に立って 俺たちを見おろし、そのやりとりを聞いていた氷河が、呆れたような声で 俺に言う。
大人の振りしたって、自分だって苦労知らずの おめでた野郎のくせに。

「やけになってるんじゃない。わかったんだ。この世に確かなものなんてない。愛だの友情だの、そんなのは全部 嘘で、本当の幸せとか 永遠の幸せなんてものも存在しない。だから、さっさと何もかも諦めちまった方が楽になれるんだって」
「そう言う割りに、未練たらたらのようだが。そんなに楽になりたいのなら、今すぐに そこのビルからでも飛び降りてみたらどうだ」
おめでたい氷河が、吐き出すように そう言って、
「氷河!」
幸せな瞬が、そんな氷河の名を責めるように呼ぶ。
氷河は、おどけた仕草で肩をすくめた。
未練なんか――未練なんか、あるものか。

「そうしようとしたんだ! そしたら、やたら幸せそうにしてる あんたたちが 俺の目の前を通り過ぎていって、だから、どうせなら、あんたたちに俺の死ぬとこを見せてやって、現実っていうものを思い知らせてやろうとしたんだよ! なのに、あんたたちが 俺の気も知らずに さっさとどっかに歩いてくから!」
「それで僕たちのあとをつけてたの?」
瞬は気付いてたらしい。
俺が二人のあとをつけてたことに。
「おまえは馬鹿か?」
それが、氷河のコメント。
「氷河!」
瞬が また氷河の名を呼んで、氷河を睨む。
そうして氷河を黙らせてから、瞬は、
「クレープ食べて。おいしいよ」
って言って、俺にクレープを食べるように言ってくれた。
バニラとキャラメルとチョコの香り。
一口食ったら、死ぬほど甘くて――こんなの女の食い物だって思ってたけど、でも、うまい。
知らなかった。

「おいしい?」
瞬に訊かれて、別に嘘をつく必要もないから、俺は正直に頷いたんだ。
「よかった」
瞬は嬉しそうに笑って、自分もぱくっと イチゴと生クリームのクレープを一口食べた。
クレープを食べてる俺たちの頭上には 冬の夜空。
明るい街の空に見える星の数は、指を折って数えられるくらい少ない。
そんな夜空を仰いで、瞬は呟いた。
「そっかー……。この世に、確かなものは何もないのかー」
って、切なげに。

そうだよ。
この世に確かなものは何もないんだ。
愛も友情も、夢も希望も、優しさも何もない。
人の命だって、全然 確かなものじゃない。
だから、俺は こんなに不幸で、死ななきゃならないんだ。
「あんたたちだって、今はすごく綺麗だけど、そのうち、歳をとって死ぬんだ」
「うん。それは……そうだね。君の言う通りだ。でも、僕たち、その時までずっと一緒にいようって約束して、きっと そうするって決めてるんだよ」
「その前に別れるんだ。きっと喧嘩するんだ。でなかったら、そいつが浮気するんだ」
「勝手に決めるな!」
おめでたい氷河が、むっとした顔で俺に文句を言ってくる。
いっそ『おまえが振られるんだ』って言ってやればよかったぜ、この馬鹿。

「でも、それが普通なんだ。永遠の愛とか、永遠の幸せとか、そんなのはないんだ。子供の頃は、俺だって今より幸せだった」
「今だって、十分 子供だろう」
氷河は、いちいち うるさい。
大人も子供も おんなじだ。
人はみんな ハカナイものなんだ。

「でもね。今は つらいかもしれないけど、そのうちに――」
瞬が馬鹿なことを言おうとしている。
大人はいつも子供を騙そうとする。
でも、俺は騙されないぞ。
「いいことなんて起きない。あんたたち、おめでたすぎるんだよ。ちゃんと現実を見ろよ。あんたたちも、今 幸せだったら、あとは不幸になるしかないだろ!」
俺は、俺の理屈は完璧だと思ってた。
だから、自信満々で そう言った。
幸せな人間が ずっと幸せでいることもあるなんて、俺は考えてもいなかったんだ。
いちいち 余計な一言を言いたがる氷河も そう言わなかった。
『幸福な人間は いつまでも幸福なまま、不幸な人間は いつまでも不幸なままでいるんだ』とは。
もし そう言われていたら、俺は 人生の不平等に泣き出していたかもしれない。
でも氷河は その事実(事実だ)を俺に突きつけるようなことはしなかった。
代わりに、氷河は、俺に訊いてきたんだ。
「おまえ、パスカルの賭けを知っているか」
って。






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