普通に『ごめんください、こんにちは』では扉を開けてもらえないことは、既にこの10日間で学習済み。
ですから 氷河は、言っても無駄な『ごめんください、こんにちは』を省略して、瞬の家の扉の前に到着するなり、その用件だけを、大きな声を張り上げて 瞬に訴えたのです。
「瞬! おまえの兄のことを聞いた。おまえが神々に立てた誓いのことも! 瞬、俺の計画を聞いてくれ。俺たちは必ず幸せになれる!」
自分の足元と はるか彼方の山の頂しか見ていない氷河の訴えは、まるで要領を得ないものでした。
少し経ってから、まるで家の扉そのものが怯え戸惑っているように 少しずつ開かれたのは、氷河の訴えが瞬の心を動かしたからではなかったでしょう。
瞬は、氷河が何を言っているのか わからなくて、わからないことの不安を消し去るためには 家の扉を開けるしかない――と判断したのです、おそらく。

「氷河……」
半分だけ開けられた扉の向こうに、久しぶりに間近で見る瞬の瞳、瞬の姿。
自信過剰の氷河は、瞬の この不安な瞳は自分への恋ゆえと決めつけ、早速 瞬の瞳を明るくするための作業(瞬の瞳を明るくできると、氷河が信じている作業)に取りかかりました。
「俺は、明日にでも おまえの兄を探す旅に出ることにした。兄が見付かれば、おまえは俺を受け入れてくれるんだろう?」
「……」

いったい氷河は唐突に何を言い出したのか――そう言いたげな眼差しを、瞬が氷河に向けてきます。
実際、氷河の決意は いかにも唐突なものでしたから、瞬の当惑は当然のものだったでしょう。
足元と はるか彼方にある成功の頂だけを見ている氷河と違って、瞬は その頂に至る道の険しさを考慮・想像できる人間でしたから。
『兄が見付かれば、おまえは俺を受け入れてくれる』と決めつけるような行為は、険しい道を踏破する方策を考え、せめて その成功のめどが立ってから行なうべきこと。
常識を備えた普通の人間なら、そうするものです。
そして、瞬は、普通の人間でした。

「兄さんを探すって、どうやって? 当ては 何もないんだよ。どんな事情で 兄さんが突然 消えてしまったのかすら、誰も知らないのに」
瞬が氷河に そう告げたのは、おそらく氷河に 彼の計画がいかに無謀で楽観的にすぎるものであるかを 気付かせるためだったでしょう。
けれど。
氷河は 確かに 自分の成功を疑うことをしない超楽観的な男でしたけれど、決して馬鹿ではなかったのです。
超楽観的ではありましたが、氷河は氷河なりに、成功の頂に駆け上がる道について ちゃんと考えていました。
氷河は ただ、自分の計画が失敗する可能性を全く考えていないだけだったのです。

「ヘリオスの許に訊きに行く。毎日 天を巡って 地上のすべてを見ている太陽神ヘリオスなら、おまえの兄の居場所も知っているに違いないからな」
「ヘリオスの許に……って、ヘリオポリスに行くつもりなの? そんな無茶だよ!」
瞬が 氷河を思いとどまらせようとしたのは、至極当然のことでした。
普通の人間は、そんな無謀に挑むことは、そもそも考えもしません。

太陽神ヘリオスの住まいであるヘリオポリスがあるのは 西の大陸。
エジプトの南方に広がる広い砂漠を超えた、更に先。
到底、人の身で、人の足で、辿り着けるものではありません。
そこは太陽の馬車を駆るヘリオスだからこそ 行くことができる場所、地上世界にあるとはいえ、神の領域なのです。
それに もし氷河が人の身でヘリオポリスの太陽神殿に辿り着けたとしても、ヘリオスが氷河を褒めてくれるとは限りません。
むしろ 誇り高い太陽神は、その者が 人の身で太陽神の神殿に辿り着いたことに不快を覚え、怒りに任せて その命を奪わないとも限らない。
ヘリオポリスは そんな危険な場所なのです。

頬を蒼白にして 顔を強張らせた瞬に、氷河は明るく笑って、
「大丈夫だ」
と言いました。
氷河のその言葉、氷河のその楽観に、もちろん根拠などありません。
氷河は成功しか見ない男。
見えない物事について考えを及ばせることはしないのです。
けれど、瞬は、氷河が見ない物事こそに 深い考えを巡らせる人間でした。
明るく楽観的な氷河の前で、瞬が視線を下に落とし、何やら考えている素振りを見せます。
そんな瞬の様子を見て、楽観的な氷河は、瞬は そこまで自分の身を案じてくれているのだと決めつけ、一人で感動していました。
まもなく 氷河は、現実の冷酷と惨酷を思い知ることになったのですけれどね。

長考熟慮の末、やっと顔をあげてくれた瞬は、無情にも氷河に言ってくれたのです。
「そんなところに行っても無駄です。氷河が兄を探し出してきてくれたとしても、僕が氷河を恋することがあるとは思えませんから」
と。
楽観的な氷河は 最初、それを(たち)の悪い冗談だと思いました。
けれど、瞬は、待てど暮らせど、その言葉を冗談だとは言ってくれません。
その発言を撤回するどころか!
質の悪い冗談を言った(はずの)瞬の瞳は、至って平静、至って冷静。
発言の撤回を待つ氷河を、静かに 冷ややかに見詰めているばかり。

どうやら それは冗談ではなかったようでした。
極めて真面目に、冷たく、瞬は 彼にとっての真実を言葉にしただけのようでした。
そして。
いかに自信過剰で 楽観の天才である氷河でも、瞬の その冷徹な言葉を希望に変換することはできなかったのです。
「瞬……」

瞬を責めるわけにはいかず、かといって笑い飛ばすことも無理。
ですから、氷河は ふらふらと歩き出しました。
氷河は、どこか 瞬の目の届かないところに行かなければならなかったのです。
瞬の前に、取り乱した姿を さらしてしまうことを避けるために。


どこをどう歩いたのか――。
氷河は いつのまにか、彼が初めて瞬に出会ったアルカディアの野に来ていました。
ここまで来れば もう、瞬の目も届きません。
そこで氷河はやっと足を止め、そのまま 仰向けに大地に身を投げ出したのです。
そのまま――瞬の言葉によって受けたショックのせいで、再び立ち上がり 再び歩き出す力が湧いてこなかったので、氷河は その夜を、瞬との出会いの野に仰向けに横たわったままで過ごしました。

今 この大ショック状態で 家に帰ったら、口も性格も悪いポイニクスに何を言われるか、わかったものではありません。
常々 氷河の自信過剰に苦言を呈していたポイニクスのこと、彼は 氷河の失恋を大笑いするくらいのことは平気でするでしょう。
他のことでなら、氷河は、誰に何を言われようが 笑われようが、全く平気でした。
けれど、瞬との恋が破れたことを笑われるのは!
瞬に 愛を拒まれたことを笑い飛ばされるのは!
それだけは、氷河にも耐えられそうになかったのです。
誰もが呆れるような強靭な楽観的精神を有する氷河にも、楽観でいられる限界はあったのでした。
ちなみにアルカディアは気候の温暖な理想郷ですから、一晩を野原に寝転がって過ごしても、凍え死ぬようなことはありませんから、心配は無用です。






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