翼あるもの

- 第一夜 -







時刻は、夜の10時過ぎ。
店の名前は、『выпьем』。
ロシア語は酒に関する動詞が多すぎて、確信は持てないのだが、確か意味は『(我等は)飲む』。
あまりに直截的すぎて、瞬はまず その店名に戸惑ってしまったのである。
すぐに、それは実に彼らしい命名なのかもしれないと思い直したが。

扉を開けるために手を動かすことが なかなかできない。
そもそも 瞬は、バーというものが どんなところなのかを よく知らなかった。
もちろん、客に酒を提供する店だということは知っている。
だが、そこは 誰かの紹介もなく 飛び込みで入ってもいいものなのか、一人で入ることは不自然ではないのか、服装はカジュアルスーツで構わないのか――。
そういったことを、瞬は知らなかったのだ。
そして、本当に ここに氷河がいるのか どうかも。

いったい自分は、彼が この扉の向こうにいることを 期待しているのか、恐れているのか。
いないことを期待しているのか、恐れているのか。
自分の気持ちがわからないことが、瞬を不安にさせていた。
だが、ここまで来てしまったのだ。
彼の存否を確かめずに帰るわけにはいかない。
そう自分に言いきかせて、瞬は その店の扉を押し開いた。

大人が夜に入る店なのだから、店内は薄暗いのだろうと思っていたのだが、案に相違して 店内は存外に明るかった。
右手にカウンター、左手にテーブル席が幾つか。
イタリア製の家具と装飾は店名に そぐわなかったが、よい家具を求めたら こういうことになってしまったのかもしれない。
カウンター内の壁面の棚に ところ狭しと並べられた酒の壜。
城戸邸の、壜の大きさやデザインが 似通っているワインのコレクションを見慣れていたせいか――酒といえば それしか見たことがなかったせいか、色も形も大きさも異なる壜の群れは、瞬に 雑然とした印象を抱かせた。
だが、それらのものはすべて脇役。
すべては人間の手が作った人工物――背景でしかない。
主役は、自然にしか生み出すことのできない金色と青色を持つもの――人間だった。

「あ……」
溜め息じみた その声を、瞬は自分の外には出さなかっただろう。
むしろ 瞬は、逆に息を呑んだ。
カウンターの内側に見知った男が一人、見慣れぬ恰好で立っていた。
白い立ち襟のシャツにクロスタイ。シングルのジレと、黒く長いソムリエエプロン。
およそ 彼らしいとはいえない その姿に、瞬はあっけにとられてしまったのである。
見知っているのに 見慣れぬ その男も、無言で瞬を見詰めている。
1分に なんなんとする沈黙。
先に その沈黙を破ったのは、見知っているのに 見慣れぬ恰好をした、青い瞳の男の方だった。
以前は、その陽光のように輝く金髪に まず目を奪われたのに、今は 瞳の青さに意識を奪われる。

「よく来たな」
「あ……あの……」
カウンター席に女性客が一人と 男性客が一人いた。
女性は 30代半ば。
色は鮮やかだが、比較的シンプルなデザインのノースリーブのワンピースを着ていて、どう見ても一般民間企業や公企業に勤めている会社員や公務員ではない。
しかし、化粧はさほど派手ではなく、隙のない所作。
瞬は彼女の職業を察することもできなかった。

男性客の方は、女性客より少し年上。
あまり手入れのされていないダークスーツを身に着けていて、だからこそ 逆に、やはり何者なのか わかりにくい。
普段 あらゆる職業の人間に接している瞬に、ここまで素性を推し量らせない人物に、瞬は困惑した。
どういう人間たちが この店の主たる客層なのかが、まるで わからない。
ただ自分が この場に そぐわない人間だということだけは、瞬にも感じ取ることができたのである。

自分よりは この店に ふさわしい――と 瞬が感じる女性客が、扉の前に立ち尽くしている瞬の姿を認め、苦笑混じりに声をかけてきた。
「まあ、可愛らしい お客さん。坊や、大丈夫なの? 未成年だと、飲ませた方が犯罪者になってしまうのよ。大学生でも未成年は駄目。高校生なら、なおさら」
「こいつは成人している。医者だ。臨床研修も終えている」
瞬は、氷河が なぜこんなところに こんな恰好でいるのかを知らないのに、氷河は瞬の現況を知っているようだった。
以前は人間に対して 極力 無関心のポーズを取り、仲間たちを通じて かろうじて社会と関わりを持っているような人間だったのに、幾年も会わずにいる間に、氷河は変わってしまったらしい。
氷河をすら変えることのできる時の力に、瞬は 少し寂しい気持ちで嘆息した。

女性客が、掛けていたカウンターチェアから立ち上がり、瞬の方に歩み寄ってくる。
その歩き方と姿勢で、彼女が肉体の鍛錬を欠かしたことのない人間だということが、瞬には わかった。
スポーツ選手や格闘家ではない。
モデルか舞踊家――彼女は、そういう分野に身を置く人間のようだった。
「医師の臨床研修って、2年以上はするはずよね。じゃあ、26は過ぎているの? 嘘みたい。だって、この肌……」
女性が瞬の頬に 手で触れようとする。
初対面の人間の肌に 断りも得ずに触れようとする人間の手を逃れて 身を引くことは、失礼に当たるだろうか。
すぐに その答えに至ることができず、瞬は身体を強張らせた。
が、幸い、瞬は、彼女の不躾に耐えることも、彼女に対して失礼を働くこともせずに済んだ。
瞬の頬に触れる直前で、彼女は その手を止めてしまったのだ。
そして、
「女の子?」
と、怪訝そうに呟く。

何歳になっても、自分は この誤解と質問から逃れることはできないのだ――と、とうの昔に達観できている。
告げるべき言葉が何もない瞬の代わりに、氷河が彼女を あしらってくれた。
「初見で女と決めつけ、あとで男かもしれないと思い直す奴には 幾人も会ってきたが、その逆は珍しい」
「だって、スーツのボタンが右前じゃない。でも、この肌は……。どっちなの? 男? 女?」
「男だ。綺麗だろう」
「まあ……」
それは安堵の吐息なのか、落胆の吐息なのか。
彼女は、瞬の前で 隠す様子もなく深く長い溜め息を洩らした。

「ええ。これは もしかすると氷河より綺麗かも」
「当然だ。さて、帰ってもらおうか。会うのは久し振りなんだ。二人きりになりたい。最後の1杯はサービスにしておく」
「なによ。客を追い出すの? いいじゃない。見たって減るものじゃないんだし」
「俺の瞬は繊細で、図々しい女を恐がるんだ」
「そう言って、綺麗なものを独り占めするわけ? あなたが目も当てられないほど不細工な男だったら、そんな横暴、私は絶対に許さないわよ!」

氷河が美しい男だから、彼女は その横暴を許すらしい。
バーテンダーは、bar(酒場)における tender(世話人)のはずなのだが、氷河はサービス精神に欠ける世話人であるらしく、彼女は自分の手でコートを身に着けた。
「じゃあ、またね。綺麗で繊細な、氷河の瞬チャン。ほら、黒木くん、帰るわよ。――って、いやだ、黒木くん、もう素描を2枚も描き終えてる! いくら滅多に会えない美形だからって、手が早すぎ!」
快活で お喋りな女性客とは対照的に、少なくとも 瞬が来店してから一言も口をきいていなかった男性客を、身仕舞いを整えた女性客が急かす。
ごく小さなクロッキーノートを手にして、彼は いかにも しぶしぶというていで、席から立ち上がった。

モデルあがりの服飾デザイナーと、彼女と組んでいるイラストレーター。
名残り惜しそうに店を出ていく二人の素性を、瞬は 最終的に そう判断した。
それが正解なのか否かを、瞬は確かめようとは思わなかったが。






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