星矢の中に生まれた謎は解明されないまま、それでも 一応平和裏に 正月三が日は過ぎていったのである。
沙織が設定した呪い――もとい 祝福――は終わりの時を迎えようとしていた。
20XX年1月3日。
時刻は、23時50分。
アテナの聖闘士たちは、城戸邸ラウンジに5人揃って、運命の(?)時の到来を、固唾を呑んで待っていた。
誰もが なぜか ひどく緊張して。

「俺たち、なんで こんなに緊張してんだ? この三が日は わりと平和に過ぎてったじゃん。残り、あと10分。もう何も起こんねーだろ」
それでも緊張を解くことができないまま、星矢が仲間たちに素朴な疑問を発する。
この三が日が“わりと平和”だったことが、たった今、自分たちの上に異常なまでの緊張を もたらしているのだということに、星矢は、その疑問を言い終えてから気付いた。
問題は、この3日間、大きなトラブルがなかったこと――なさすぎたこと――なのだ。
その事実が、アテナの聖闘士たちの上に 緊張という名の不安の影を落としていた。

「油断は禁物だぞ、星矢。『あやまちは、安き所に成りて 必ず仕る事に候ふ』。過ちというものは、難所を過ぎて もう大丈夫と気を緩めた時に犯すもの。こういう時に敵襲があるのが お約束というものだ」
星矢と似たり寄ったりのことを考えていたらしい紫龍が、険しい面持ちで警告を口にする。
それは そうだった。
それは その通りである。
だが。

「それは わかってるけど、でも、それで何か問題があるか?」
「チェーン攻撃されると思っていたところに、凍気や幻魔拳が飛んできたら驚かないか?」
「俺が 一輝や氷河の敵で、一輝や氷河が瞬に見えてたら驚くかもしれないけど、そうじゃないし」
「それもそうだ」
「だろ? だから、俺たちが緊張する必要なんて、これっぽっちもないんだよ。なのに、なんで俺たちは――」
星矢が そう言いかけた時だった。
20XX年の正月 三が日が過ぎ、1月3日の24時、つまり1月4日の0時が到来したのは。
ラウンジの壁に掛かっている時計は、一見したところでは ヘルムレ社の ごく古い型のものなのだが、その中身は 標準電波を受信して誤差を自動修正する電波時計。当然、1秒の狂いも生じない。
沙織が設定した呪いの期限――20XX年1月3日は、今 確かに、間違いなく、終わったのである。
だから世界が平和になったかというと、全く そんなことはなく――むしろ、争乱は、アテナの呪いが終わった瞬間に始まったのだが。

「氷河ーっ! 貴様、よくも瞬に化けてくれたなーっ!」
「貴様こそっ! よりにもよって、貴様が瞬! 瞬への冒涜だ、冒涜!」
瞬を愛する二人の男は、その時を待っていたらしい。
20XX年1月4日0時00分。
一輝と氷河は、5年分の盆と正月が同時にきても これほどとは――と思えるほど賑やかに派手派手しく、大喧嘩を開始。
この3日間の鬱憤を今こそ晴らしてやると言わんばかりの勢いで、怒声と拳を交える取っ組み合いに突入してしまったのだった。

室内での肉弾戦は、一般人同士のものでも傍迷惑なもの。
二人は、まして アテナの聖闘士である。
が、不幸中の幸いというべきか、氷河と一輝は 自分たちの醜い争いに小宇宙を燃やさないだけの分別は保持しているらしく、彼等の喧嘩によって城戸邸が崩壊することは心配しなくてもいいようだった。
交戦状態にあるのが一輝と氷河の通常モードと考えれば、今 彼等は極度の緊張状態から解放され、いつもの彼等に戻っただけなのだと言えないこともない。
彼等が(彼等にしては、比較的)静かにしていた この3日間の方が、不自然で不気味で異常で非常だったのだ。
氷河と一輝が 明白に いがみ合い、争い合っているのが、彼等の日常。
城戸邸は、今 やっと、平時の姿を取り戻したといえた。

「結局、敵襲はなかったか。沙織さんの呪いにしては 悲惨な結果を招くこともなく、意外に平和に終わったな」
「確かに。でも、それって いいことだし」
沙織も、彼女の聖闘士たちが正月から ひどい目に会うようなことは したくなかったのだろう。
沙織にも 彼女なりに慈悲の心はあったのだと、星矢が気持ちを安んじた時――実は、アテナの聖闘士たちの気付かぬところで、惨事は静かに始まっていたのである。

見慣れた兄と氷河の取っ組み合いを、困ったように(とはいえ、あまり深刻にではなく)見詰めていた瞬の、
「沙織さんの呪いは、まだ終わっていない……と思う」
という小さな呟きが、その惨劇の幕開けだった。
これまで いつもそうだったように――二人の喧嘩に決着がつかないだろうことを見越してか、瞬の目は 今は兄と氷河の醜い争いを見ていなかった。
瞬の視線は今、ラウンジの窓ガラスの向こうにある星空に向けられている。

「へ? 沙織さんの呪いが終わってない? おまえ、なに言ってんだ?」
アテナの呪いが解け、瞬の姿が一つしかない世界に戻ることができたからこそ、今 一輝と氷河は 見苦しい取っ組み合いをしているのではないのか。
なぜ瞬は急に そんなことを言い出したのか――。
訝った星矢が、瞬の発言の根拠を 瞬に問おうとした時、沙織が 彼女の聖闘士たちの前に登場した。

「騒がしいわね。深夜だというのに、いったい何事なの。静かにしてちょうだい。この家にいるのは あなたたちだけではないのよ」
沙織は、もちろん もう振袖姿ではない。
彼女の出で立ちもまた、氷河や一輝同様、通常モード――つまり、いつもの白のロングドレスに戻っていた。
邸の壁に穴を開けるほどではないにしても、日中なら ともかく深夜に、でかい図体をした男が二人、どたばた大騒ぎを起こしてくれているのだ。
青銅聖闘士たちの非常識を いさめるために、彼女は わざわざ ここまで足を運んできたらしい。
アテナの来臨を受けて、さすがの一輝と氷河も殴り合いを中断し、星矢が不機嫌そうな沙織に 事の次第を説明する。

「沙織さんの呪いが解けて、瞬が本物の瞬だけになったもんだから、氷河と一輝が喜んじゃってさあ――。瞬の顔さえしてなきゃ 心置きなく殴れるってんで、浮かれて殴り合いを始めちまったんだよ」
これほど わかりやすい状況説明はない。
この喧嘩騒ぎは、起こるべくして起こった、自然で当然で必然的な事象なのだということを、星矢は 極めて簡潔明瞭に沙織に説明したつもりだった。
にもかかわらず、沙織が不思議そうに首をかしげる。

「私の呪いが――いえ、祝福が解けた? そんなはずはないわよ。私は あの呪い――いいえ、祝福を、時計ではなく、日常感覚で実行したんだから」
「日常感覚で実行した?」
「そう、日常感覚。つまり、一日は明け六つに始まって 暮れ六つに終わる、昔ながらの日常感覚よ。私は、1月4日の夜明けまでは 三が日のつもりで、あの呪い――いいえ、祝福を授けたのだから、あれは1月4日の夜明けまでは有効なはずよ」
「え? でも、だって、現に 氷河と一輝は 偽物の瞬の姿が見えなくなったから――」
だから、二人は この大喧嘩を始めたはずである。
でなければ、彼等は たった今まで、彼等の最愛の瞬の顔を殴りつけていたことになるではないか。
星矢たちに疑いの目を向けられて、一輝と氷河は顔を強張らせた。

「いったい どういうことだよ」
星矢に そう問われただけなら、彼等は断固として黙秘権を行使していたかもしれない。
沙織に、
「ほんと、いったい どういうことなの。あなた方、そんなに瞬を殴りたかったの? いやだ、びっくり」
と言われ、紫龍に、
「それは衝撃の事実だ」
と驚かれるに及んで、彼等は事実を白状しないわけにはいかなくなったのである。






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