そんな 仕様もない経緯で、私が氷河の店に通い始めて1ヶ月が経った頃。
いつものように10時過ぎに氷河の店に行った私は、ドアの脇に臨時休業のお知らせが貼ってあるのに気付いた。
今週の金曜日。
『都合により休業』
この ひと月で すっかり顔馴染になったセンパイたちに訊いたら、この店は不定休で、月に1、2度、突然 お休みになる日があるらしい。
私は、ピンときた。
絶対、店を休んで 女と会うんだって思った。

これは 氷河の正体を暴く絶好のチャンス。
で、どうにかして その現場を押さえることはできないかと、考えを巡らせてみたんだけど。
私、氷河がどこに住んでるのかを知らないのよね。
氷河の正体を暴きたいっていうのは、私自身の好奇心でしかないから、ウチの調査員を使うわけにはいかないし。
私が一個人として調査依頼してもいいんだけど、そんなことしたら、我が社の調査員たちに『ウチの社長は何を始めたんだ』と不審がられかねない。
かといって、他の探偵社に 高い調査料を払って氷河の素行調査を頼むのも馬鹿げてるし――。
やっぱ、地道に会社帰りに この店に通って、氷河がぼろを出すのを待つしかないか。

もしかしたら、氷河の正体を暴く千載一遇のチャンスなのかもしれないのに、結局 私は そのチャンスを見送って、氷河の素行調査を断念するしかないっていう結論に達した。
でも、何か癪で――氷河の店がお休みになる日、私、氷河の店に行ってみたのよね。
いつも行く10時前後じゃなく、開店前の6時過ぎ。
営業日なら、多分、開店の準備をしている時刻よ。
氷河はいないだろうし、どんな情報も得られないだろうと思いつつ、氷河の店のあるビルの1階フロアの柱の陰で、氷河の店に続く地階フロアへの階段を、私は ぼんやりと眺めていたんだけど。

私が 探偵業を始めたのは、やっぱり運命だったんだろうか。
私の勘は冴えてる。
でなければ、私は多分 探偵業の神様に愛されているのよ。
私が問題のビルに入って、ほんの2、3分。
柱の陰に立つ私の前を通り過ぎて、一人の人物が地階に続く階段の方に歩いていくじゃないの。
このビルの地階フロアには、氷河の店しかない。
『えっ !? 』って、私、心の中で声を上げたわよ。
もちろん、その人物が氷河の店がお休みだってことを知らない通りすがりの人間だってことも考えられたけど――ううん、私は、その考えを2秒で放棄した。

だって、氷河の店に向かってる その人物は 普通の人間じゃなかったんだもの。
その人は特別な人間―― 一目で“特別”とわかる人間だった。
この人なら 氷河と個人的な知り合いでも納得できる――って即断できるほど特別な人だったんだもの。
その人は――ううん、その子は、濃紺のスーツを着た華奢な肢体の持ち主だった。
何か、どこかが異質で――こういう場所に対して異質なのか、個人経営のバーに向かう人間として異質なのか、それとも、こそこそと人の秘密を探ろうとしてる私みたいな人間に対して異質なのか――私が何に対して その子を異質と感じたのかは、自分でも よくわからないんだけど、とにかく その子は異質だった。
もしかしたら 私は、その子を、人間世界なんて俗っぽいところにいるにしては異質なもの――と感じたのだったかもしれない。

スーツを着てるから 最初は男性だと思ったんだけど、実は そうじゃなく、その子は ものすごい美少女だった。
ううん、ものすごい美少年か。
あれ、どっちだろ? 本気でわからない。
10代に見えるんだけど、堂々とバーに入っていこうとしてるんだから成人はしてるはず。
でも、それにも確信は持てない。
マニッシュな美少女。
あるいは、ボーイッシュな美少女。
フェミニンな美少年、ガーリーな美少年というのではないわね。
女性的とはいえない。
中性的、無性的――むしろ人間的でないというべきか。
姿勢がよくて、雰囲気が独特。
そして、とにかく綺麗。
間近で見なくても、距離をおいて遠目に眺めてるだけでも、その子が尋常でない美形だってことが、私には わかった。
周囲の空気が 張り詰めて 輝いてる感じがするもの。
バーが(いってみれば、夜の店よ)入ってるような、到底 健全、健康的とは言い難いビルのフロアに、彼女は 目に見えない光を振り撒いてた。

その光に引かれるように――私の足は いつのまにか、地下に下りていく彼女のあとを追っていた。
私が 地下フロアに続く階段のちょうど中ほどまで下りた時、彼女は 氷河の店のドアの前にいて(お休みのはずの店は、なぜか灯りがついてた)、彼女がそのドアを開けようとしたら、まるで彼女が来るのがわかってたみたいなタイミングで、店のドアは勝手に開いた。
「瞬」
ドアを開けたのは氷河。
氷河の声。
「こんにちは、氷河」
氷河に『瞬』と呼ばれた美少女の やわらかい声。
氷河への挨拶。

私はびっくりした。
死ぬほど驚いた。
だって、氷河が笑ってたんだもの。
大々的に顔を崩してるわけじゃないのよ。
表情自体はいつもの無表情。
だけど、目が輝いてる。
生まれて初めて飛行機を見た男の子みたいに きらきらと、氷河の目が輝いてる。
嬉しさに 溶けそうな目。
氷河は いつもより おしゃれしていた。
クロスタイのピンがダイヤで、ジレじゃなく、ちゃんとしたベスト着用。
けど、氷河の場合、そんなモノより、嬉しそうに輝いてる青い二つの瞳の方が、何にも増して、いつにも増して、珍しいアクセサリーだわ。

不意打ちを食らったみたいに見てしまった氷河の笑顔の衝撃が強烈で、私は階段の途中で ぽかんとしてたのよ。
そしたら、当りまえのことだけど、氷河が そんな私に気付いてしまった。
「誰だ」
まずい。
ここのところ頻繁に通ってるから、私は 氷河に顔を覚えられてしまっているはず。
日参じゃないけど、この1ヶ月で、私は氷河の店に10回は来た。
ここで氷河に不審がられて、お店に出入り禁止になるのは困る。
氷河の作るスティンガーは捨て難い――あの美味は、どんな男より別れ難く、忘れ難い。

「今日は休みだ」
不機嫌そうな声で――でも、その不機嫌を極力 隠そうとしてるのがわかる声で、氷河が私に言ってくる。
そりゃそうよね。
恋人の前では、不快の感情は できるだけ表に出したくないものでしょう。多分、氷河でも。
私は、
「知ってるわ」
と答えるしかなかった。
私の答えを聞いて、氷河が少し眉根を寄せる。
休みと知っていて やってくるのは空き巣くらいのものだ。
そう思ってるみたいな顔。

そう考えるのは自然なことだけど――ごく自然なことだとは思うけど――こういう場面では もっと違うリアクションがあってしかるべきなんじゃないの?
休みと言っておきながら 普通に店を開けてる理由の説明を――ううん、言い訳か――するとか。
氷河は、上得意の客を店から締め出すようなことをしたんだから。
それって、へたをすると得意客を不快にして、常連を失うような行為でしょう。
でも、氷河は、自分が何をしたのか、現状がどういうものなのか、本気でわかってないみたいだった。
氷河に『瞬』って呼ばれた美少女が、そんな氷河に、溜め息混じりに、
「氷河、また 人の顔を覚えてないでしょう」
って言う。
私とは これが初対面の美少女の方が、よほど正しく状況把握ができてるみたい。
彼女は、階段の中ほどに立つ私の方を振り向いて、申し訳なさそうな様子で、軽く首を横に傾けた。

「もしかして、氷河のお店にいらしたことのある方ですか?」
「……常連のつもりだったんだけど……」
言いながら、一段また一段と、私は階段を下りていった。
もっと近くで、この子の顔を見たい。
「すみません。氷河は……女性の顔を覚えるのが苦手なんです」
顔を覚えるのが苦手?
それって、脳に障害があって相貌失認を患ってるんでないなら、対峙する人間に興味がなくて、最初から顔を覚えようとしてないってことじゃないの?
対峙してる人間を軽んじてるってこと、接客業従事者が優雅に発現していい性癖じゃないわ。
私の立腹に気付いたらしい美少女が、困ったように瞼を伏せる。
でも、元凶の氷河は平然――っていうか、無反応。
それの どこが悪いんだって言わんばかりに無反応。
それで“瞬”は ますます困ったような顔になって、氷河の無礼の弁解を始めた。

「あ、あの……氷河は恥ずかしがり屋で、無意識のうちに、人と目を合わせないようにしているようなんです。女性の顔をじろじろ見るのは失礼でしょう?」
嘘ばっかり。
恥ずかしがり屋の男が、あれだけ たくさんの女の視線を集めて平然としていられるもんですか。
まあ、いいわ。
要するに、氷河の人生、氷河の生活において、彼の店に詰めかけてくる女性客たちは 十把一絡げの その他大勢、ただの背景、モブキャラクターでしかないってことでしょ。
いいわよ、別に、モブキャラでも何でも。
氷河がモブキャラの私を見付けてくれたおかげで、私は こうして間近で この美少女の顔を見ることができたんだから。






【next】