テンペスト

- プロローグ -







「じゃあ、また来るね。今度はマンハッタンあたりに挑戦してみるよ」
そう言って、瞬が掛けていた椅子から立ち上がったのは、開店から30分後。
氷河のバーに4人目の客が入ってきた時だった。
「ああ」
本当は『明日は休みなんだろう』と言って引き止めたい。
だが、氷河は 無理に その言葉を喉の奥に押しやった。

瞬が 開店と同時に来て、客が増え始める頃に出ていくのは、あまり商売に熱心でない職業人に仕事をさせるため、寂しがりや(と瞬が信じている)男を 誰もいない店に一人で残さないため。
そして、おそらく 二人きりになりたい思いを断ち切るため。
瞬にも仕事があることは わかっている。
夜間当直がある日は当然のこととして、外来や病棟勤務がある日の前夜に、遅くまでバーに入り浸ってはいられない。
自然に、瞬が氷河の店に来るのは 休日前夜か研究日前夜となるのだが、それも必ず来てくれるわけではない。
開業医と違って勤務医は時間が自由にならないし、緊急の呼び出しも多い。
瞬には瞬の都合があるのだ。
それはわかっているのだが、せめて今夜のような 休日前夜には できれば閉店間際に来てほしい。
それなら そのまま お持ち帰りができるのにと、氷河は内心で 瞬の気遣いを忌々しく思ったのである。

どうしても会いたい時には『会いたい』と連絡を入れれば、必ず瞬は飛んできてくれるから、たまにしか会えない現在の状況に、氷河は何とか耐えることができていた。
だが、その『会いたい』も、あまり頻繁だと、瞬は これまでのように“必ず”“飛んできて”くれなくなるだろう。
そうならないために、氷河は瞬に連絡を入れるのを、いつも ぎりぎりまで耐えていた。
耐えて耐えて、やっと二人きりの時間を持てた時には、それこそ 一日中 瞬を離さないこともある。
氷河は、その『会いたい』を1週間前に発動したばかりだった。
今夜 瞬を引き止めるわけにはいかない。
本当は酒など飲まなくても 一向に困らない瞬が、酒を提供する店に こうして足を運んでくれるだけでも有難いことなのだ。
自身に そう言いきかせて、氷河は、『瞬は いつも俺と一緒にいたいと思わないのか』と焦れ憤る自分を懸命に なだめすかした。

この店の主は 物事に動じることがなく、人間らしい感情を持ち合わせているのかどうかも怪しい――と思っているらしい この店の客たちが、自分の内実が このあり様だということを知ったら、どんな顔をすることか。
そんなことを胸中で考え、氷河は 表情には出さずに自嘲したのである。
氷河は、自分が興味のない事柄に無関心を貫いているだけだった。
だが、興味のあることに関しては(つまり瞬に関しては)尋常でなく執着心が強く 激情家で、クールでいたことなど一度もない。
氷河は、“本来はクールなのに、瞬の前でだけ激情家”なのではなく、“瞬と共にいる時には激情家だが、瞬が側にいない時には冷めている”だけだった。
だから――店内に瞬の姿が見えなくなると、客の数が増えてきても、氷河の目には 店の中が ひどく寒々しく映った。
春が去った世界に、一足飛びで冬が来てしまったかのように。






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