その女性は、瞬が病院の庭で出会った女性より5、6歳ほど 年かさのようだった。 30代。 上から下まで黒づくめの服を着ていて、赤い宝石の他は、髪だけが褐色。 その風情、表情は、瞬に、気位の高い黒いペルシャ猫の姿を思い起こさせた。 「あなた、どこかで……」 スタッフルームといっても、店の販売管理用のパソコンとラック、休憩用のカウチソファがあるだけの殺風景な部屋である。 三人掛けのソファの中央に彼女を座らせ、自分は腰掛けずに、瞬は その女性の険のある顔を見詰めた。 「会ったことなんかないわ。ないでしょう?」 自信ありげに彼女は断言したが、瞬はどこかで彼女に会ったことがあった――ような気がしてならなかった。 患者の顔を覚えておかないと 取り返しのつかないミスを犯しかねない仕事に就いているので、瞬は氷河と違って 極力 人の顔を記憶するようにしていた。 一度 覚えたら、忘れない。 会ったことがある(ような気がする)のに思い出せないという状況は、瞬には滅多にないこと――あり得ないことだった。 「氷河、こちらの方を知ってる?」 人間の顔は、その時々の表情から感情や思考を読み取るためのもので、いちいち その造作を覚える必要はない――を口癖(もしくは言い訳)にしている氷河に尋ねても無駄のような気はしたが、とりあえず氷河に確認を入れてみる。 氷河の返事は、案の定、 「知らん」 だった。 その返事は、だが、この場合は 良い方に作用した。 氷河のその返事に激昂した黒いペルシャ猫が、怒り狂って自己紹介を始めてくれたのだ。 「知らん――って……知らんって、何よ、それ! 知らない振りをしても駄目よ。私が 何度 この店に来てやったと思ってるの !? 1度や2度のことじゃないわよ。この2ヶ月で20回以上は来てる。もっと大きな店を持たせてあげるって、何度も言ってやったじゃないの! 私の父は、K洲会グループの理事長、徳畑潮よ !? 」 「K洲会? 何だ、それは。ヤのつく自由業の集団か」 「氷河……。K洲会っていうのは、50以上の病院と200以上の医療施設を経営する日本トップクラスの医療グループだよ。理事長の徳畑潮氏は、神経科、心療内科の権威で、確か、つい最近、催眠技能の――あ」 ここで彼女が 父親の名を出したのは全く賢明でなかっただろう。 彼女が口にした名は、瞬が身を置く世界のみならず、政界財界法曹界 あらゆる分野に尋常ならざる影響力を持つ大物の名だった。 が、それは氷河には聞いたこともない人物の名で、その上、瞬が完成させることができずにいたパズルを完成させる最後の1ピースになってくれる名前だったのだ。 「僕に催眠術をかけて、聞き出したんですね……!」 「思い出した。どこかで聞いた声だと思ったら、このヒステリックな声は、あの助平な催眠術師の男と一緒にいた女の声だ」 瞬が完成させたパズルを見て、氷河が――氷河もまた、彼のパズルを完成させることができたらしい。 それで初めて 瞬は、氷河も完成させることのできないパズルを抱えていたことを知ったのだった。 「氷河も同じことをされたの? 催眠術で、その……変なことを訊かれた?」 氷河は、彼女の顔は憶えていなくても、声は憶えていたらしい。 瞬に尋ねられると、彼は頷く代わりに顎をしゃくった。 「3日ほど前だ。この女が、閉店直後に俺の店に50絡みの男を連れてきて、俺に催眠術をかけて、俺から おまえとのことを聞き出そうとしたんだ。俺は、だが、なにしろ おまえの兄に幻魔拳を食らって、その手の攻撃に免疫があったからな。幻魔拳に比べれば子供だましのような術だったし、こいつ等が何を企んでいるのかを確かめてやろうと考えて、その催眠術にかかった振りをしたんだ。やたらと おまえとの行為のことを訊いてくるから 妙だとは思ったんだが、正直に答えてやった。そうしたら、夕べ 妙な若造が来て、俺の言ったことを 芸もなく そのまま繰り返すから、そんなことをして どうなるのかと不思議に思っていたんだが……」 「僕のところにも、今日、会ったことのない女性が来て、僕がいつも考えていることを そのまま話すから、妙だと思って――」 「おまえも、催眠術にかかった振りをしたのか」 「ううん。この人が連れてきた催眠技能士は かなり優秀な人だったらしくて、僕は催眠術をかけられたことにも、あれこれ氷河とのことを聞き出されてことにも、気付いてなかったの――忘れさせられていた。僕の警戒心は、相応の力を持つ人にしか反応しないようにできてるみたいで――」 「術中に落ちたのに、このからくりに気付いたのか」 「だって……今日、僕のところに来た女の人、僕から聞き出したことを、多分 ほとんど そのまま言ったんだと思う。その……あの時に 氷河に何度も求められたみたいなことまで言って――でも……」 「でも?」 「でも、氷河に何度も求められて、身体がもつのは僕くらいのものだと思ったから」 「違いない」 悪びれた様子もなく、さほど驚きを感じた様子もなく、氷河が頷く。 そんな氷河を見て、瞬は少々 不安になってしまったのである。 彼女の連れてきた催眠技能士に術をかけられ、『おまえとの行為のことを訊いてくるから、正直に答えてやった』と氷河は言っていた。 氷河は いったい、その催眠技能士に 正直に何を語ったのか。 聞くのが恐くて、瞬は それを氷河に確かめることはできなかったが。 代わりに、K洲会グループ理事長の令嬢に問う。 「なぜ こんなことをなさったんです。当人の許可を得ずに催眠術をかけて 個人情報を聞き出すなんて、このことが まかり間違ってスキャンダルにでもなったら、お父上の立場を悪くしかねない」 彼女は おそらく、父親配下の催眠技能士を使って こんなことをしたのだろう。 K洲会グループは それでなくても現在 内紛中で、独裁的な理事長一族の粛清が行われているという噂が流れていた。 そんな時に、彼女のこの行動は あまりに軽率である。 だが、彼女には、彼女のプライドという、彼女の父親の立場より重要なものがあったらしい。 「なぜ? こんな ちっぽけな店のバーテンの分際で、この男が私を袖にしてくれたからよ。歯牙にもかけなかった。この私を! この私をよ !? だから、この男に 自分が何をしたのかを思い知らせてやろうと思って 身辺を調べさせてみたら、恋人がいた。それも同性の。この私が、いくら綺麗でも男に負けるなんて、あっていいことじゃないわ。だから、二人の間に疑心暗鬼を生んで、あなた方を引き裂いて不幸にしてやろうと思ったのよ!」 「……」 いきり立つ彼女の言い分を聞いて、瞬は彼女が気の毒になってきてしまったのである。 彼女は、氷河が自分を袖にしてくれたと言うが、氷河には多分、そんなことをした自覚すらないのだ。 氷河は、残酷なほど、自分が存在価値を認めた人間以外の存在を気にかけない。 瞬の気の毒そうな視線を、彼女は誤解したらしい。 何より大事な自分のプライドを守るために、彼女は再び吠えだした。 「誤解しないでちょうだい! 私は 氷河に未練なんかないわ。でも、愛が冷めたからって、同時に憎しみもなくなるとは限らないでしょう。だから、売れない劇団員を雇って、あなたたちに一芝居 打ってやったのよ!」 彼女は懸命に自分の墓穴を深くしている。 自分の心を守ろうと もがき苦しむ人の姿を それ以上 見ていられなくて――瞬は、彼女のために、彼女に引導を渡してやることにした。 彼女の周りに それと気付かれぬほど微弱な気流を作り、その動きを封じる。 自分の置かれた状況が理解できず、空気の鎖の中でもがいている彼女の目を、瞬は正面から見詰めた。 「な……何……? 何なの、これ」 「動けないでしょう? 僕も少々 催眠術の心得があるんです。僕の目を見て」 「あ……」 身体の自由を奪われていなくても、一度 その眼差しの力に囚われたなら、黄金聖闘士レベルの意思の力を持つ者でない限り、背けることのできない“瞬”の瞳。 彼女は その澄んだ瞳に囚われ、恐怖に おののいていた。 「僕は、あなたに永遠に解けない催眠術をかけることもできます。あなたを謙虚で控えめで大人しい女性に変えてあげることもできる」 「い……嫌よ! そんなの、私じゃない!」 彼女らしい悲鳴。 瞬は なぜか微笑ましい気持ちになっていた。 彼女はもう、こんな不気味な二人に関わりたいとは思っていないだろう。 「じゃあ、氷河みたいな鈍感のことは もう忘れてくださいね。そこまでは調べられなかったようですけど、僕たちのバックにはグラード財団がついています」 「グラード財団…… !? 」 グラード財団の名は、彼女に駆使できる最後の手を封じることになったらしい。 彼女は やがて牙を抜かれた狼のように消沈し、大人しい大人になってくれたのだった。 |