仲間たちのいるラウンジに入ってきた瞬の様子は、氷河とは全く対照的――真逆だった。 瞬の表情と瞳は明るく輝いており、その声と足取りは 軽快に弾んでいる。 もちろん その小宇宙も、いつも通りに春全開。 瞬は、その手に、長さ10センチほどの細長い直方体の箱を2つ持っていた。 「万華鏡展、すごく綺麗で楽しかったよ! 星矢たちに お土産買ってきたんだ。ミニミニ星の万華鏡」 そう言いながら、瞬が、氷河が掛けている三人掛けソファの隣りに腰を下ろす。 これまでは何とも思っていなかった瞬の その振舞いが、氷河の恋未満の告白を聞いたあとでは、悲惨にも不自然にも感じられたのである。氷河と瞬の仲間たちには。 「瞬。何もそんなに 氷河に引っついて座んなくてもいいだろ。他にいくらでも座れるとこはあるんだから」 星矢が、ラウンジのセンターテーブルを囲んで置かれている椅子やソファを視線で示しながら、瞬に問う。 瞬は不思議そうな目をして、 「ここに座っちゃ いけないの?」 と、星矢に問い返してきた。 「んなこた、ねーけど」 「うん」 何が『うん』なのかは わからないが、ともかく瞬は『うん』と言って頷き、場所を移動しようとはしなかった。 おそらく 自分が『瞬もおまえのことを好きなんだと、ずっと思ってた』ことの原因は、瞬の こういう振舞いのせいなのだと、星矢は思ったのである。 恋人が 自分の恋人に対して行なうようなことを、瞬は(瞬にとっては)仲間であるところの氷河に対して、当りまえのことのように自然に行なう。 この状況の意味するところは何なのかと考え、その答えが見付からず、星矢は 眉間に皺を3本作った。 「万華鏡展は楽しかったのか。よかったな」 瞬に渡されたミニミニ星の万華鏡は 透明なアクリル製の箱に収められていて、筒の中を覗かなくても それだけでインテリア雑貨としての役目を果たせそうな装飾が施されていた。 それを眺めながら、早速 紫龍が瞬に探りを入れ始める。 「うん。すごく大きいのから すごく小さいのまであって、とっても綺麗で、とっても楽しかったよ」 「今、氷河の話を聞いていたんだが、氷河は説明下手でな。楽しかったような、楽しくなかったような」 「え?」 楽しかったことの報告は『楽しかった』の一言で済む。 紫龍が その点に確信を持てずにいるのなら、氷河は紫龍たちに『楽しかった』の一言を告げていないということ。 どうして そんなことになるのかを疑った様子で、瞬は 自分の隣りに掛けている氷河の顔を覗き込んだ。 「氷河も楽しかったよね?」 「あ……ああ」 到底 楽しかったようには聞こえない氷河の沈んだ声。 瞬は不安そうに眉を曇らせた。 「氷河、楽しくなかったの? 楽しかったのは、僕だけ?」 「いや。おまえと一緒にいて、俺が楽しくないはずがないだろう。万華鏡は どれも綺麗だった。特に本物の宝石を使った奴は、反射が複雑で――」 懸命に明るい声を作ろうとする氷河の口許の強張りが痛々しい。 が、氷河は何とか その作業をやり遂げてみせた。 努力の甲斐あって、瞬が安堵した笑顔になる。 「よかった。僕、氷河と一緒なら、どこに行っても、どこに行かなくても、楽しいから――。僕だけ、一人で浮かれてたのかと思った」 「おまえは 氷河と一緒なら楽しいのかよ?」 瞬が氷河のすぐ隣りに 自らの居場所を確保したことは、氷河にとっては幸いなことだったろう。 瞬が前を向いている限り、瞬は氷河の顔の複雑怪奇な歪みに気付くことはないのだから。 氷河の複雑怪奇に歪んだ顔と 瞬の嬉しそうな笑顔の両方が見える場所にいる星矢は、おかげで、氷河と同程度に 顔を歪ませることになってしまったのだが。 「もちろんだよ」 「てことは、おまえは氷河を好きでいるってことか」 「好きに決まってるよ。僕たちは仲間だもの」 「……」 氷河の顔の歪みは、いよいよ苦渋の度合いを深く濃くしていく。 好きな相手に『好きに決まってる』と明るく断言されて、ここまで不幸になれる男が、この地上世界に かつて存在しただろうか。 おそらく 氷河は、人類史上 稀に見る不幸な男であるに違いなかった。 瞬は、瞬のただ一人の恋人でいたい男を“仲間”という集団の一人にしてしまっているのだ。 無論、それは厳然たる事実である。 それが事実でなかったら 何が事実なのかというほどに、確かな事実。 だが それでも、星矢には、瞬の言動には 氷河を特別視している何かが含まれているように感じられてならなかったのである。 それは紫龍も同様だったらしい。 いかにも他愛のない雑談をする口調で、紫龍は 今度は正攻法で正面から瞬に切り込んでいった。 「で、おまえは、どんなふうに、どれくらい、氷河が好きなんだ?」 「どれくらい? 好きって、距離や重さじゃないんだから、どれくらいとか これくらいとか言うことはできないでしょう」 瞬は、無邪気に、だが 妙に論理的な答えを返してきた。 しかし、紫龍が聞きたい答えは、そんな答えではなく、むしろ もっと感覚的なものだったのである。 それも、できれば 落ち込みきっている氷河の心を 多少なりとも浮上させることができるような。 「まあ、人の心は 数値で表わせるようなものではないだろうが、感覚的に――よく言うじゃないか。世界でいちばん好きだとか、目に入れても痛くないほど好きだとか、東京ドーム100個分好きだとか」 「東京ドーム100個分?」 紫龍の例えを聞いて、瞬は、これは言葉遊びなのだと得心したらしい。 瞬は軽い口調で、 「じゃあ、距離は バラ星雲に行って帰ってくるくらい、重さは ブラックホール10個分くらいかな」 と答えてきた。 「それはすごい」 少なくとも瞬は、東京ドーム100個分よりは氷河が好きらしい――天文学的単位で、氷河を好きだと思っているらしい。 もしかすると、瞬のその答えは 沈み切っていた氷河の心を 多少は浮上させるものだったかもしれない。 星矢が、瞬の その答えに かぶせるように、 「俺たちは、氷河ほどじゃないのかよ?」 と訊くようなことをせずにいたならば。 星矢としては、瞬の持ち出した“好き”の単位が大きすぎ、あまりに茫漠としていたせいで、瞬が どれほど氷河を好きでいるのかを実感できなかっただけだったのだが。 星矢は、瞬の“好き”の内容を より正確に理解するために、わかりやすい比較対象が必要で、だから その対象として 氷河の仲間たちを提示しただけだったのだが。 「もちろん、星矢も紫龍も大好きだよ。星矢はアンドロメダ星雲に行って帰ってくるくらい、紫龍は大マゼラン星雲までかな」 瞬の その答えを聞いた氷河が 瞬の隣りで顔を引きつらせる様を見て、星矢は、自分が発してはならない質問を発してしまったことに、遅ればせながら気付いた。 系外星雲であるアンドロメダ星雲や大マゼラン星雲とは異なり、バラ星雲は銀河系星雲。 地球から アンドロメダ星雲での距離は 250万光年。大マゼラン星雲までは16万光年。 それらに比して、バラ星雲までの距離は 僅か5000光年しかないのだ。 氷河とて、瞬が実際の距離ではなく、イメージで そう言ったのだということはわかっているだろう――わかっているはずだった。 アンドロメダ星雲はペガサスの四辺形と隣接しており、大マゼラン星雲に至っては、系外星雲としてアンドロメダ星雲と並び称されることの多い星雲だというだけのこと。 だが、恋する男は、そんな些細なことにも いちいち気付き、いちいち傷付いてしまうのだ。 そんな繊細さが氷河にもあったのかと 星矢は疑ったのだが、彼はすぐに そうではないのだと思い直したのである。 氷河が繊細だったのではない。 恋が氷河を繊細にしたのだと。 ともあれ、たった5000光年の“好き”では、氷河は浮上しなかった。 仕方がないので、紫龍は別方向から攻めてみることにしたのである。 瞬が氷河を好きでいるのは事実なのだ。 大事なのは、その事実だけのはずだった。 「そういえば、氷河が、おまえと自分を恋人同士のようだと言ったら、おまえに一笑に付されたと言っていた。仲が悪そうにしていたつもりもなかったのにと」 5000光年と250万光年。 歩いていくことのできない距離という点では その2つに大差はないのに、考えなくてもいいことを考えて顔を歪ませている氷河に気付かぬ振りをして、紫龍が さりげなく瞬に問う。 氷河と違って、考えなくていいことは考えない瞬は、考えない分を常識で補っているらしい。 瞬からは、 「僕と氷河は仲良しだよ。でも、恋って、女の人とするものでしょう。恋って、結婚する人たちが、結婚の前提条件としてするものだよね?」 という、少々 古風な答え――むしろ古典的な答え――が返ってきた。 瞬のその考えは、確かに少々 時代遅れなものではあるが、決して 間違いと断じることはできないものである。 だが、それを是認してしまったが最後、氷河の恋は永遠に実らず、氷河は永遠に絶望の淵から這いあがることはできないだろう。 そんなところに敵襲があり、実らぬ恋のせいで氷河がろくに戦えないなどという事態が生じてしまったら 目も当てられない。 氷河の恋が実るか否かという問題は、氷河一人の問題ではなく、アテナの聖闘士全員の名誉、聖域の存在意義、地上世界の存続に関わる大問題なのだ。 おかげで 紫龍は、氷河を絶望の淵から引き上げるため、瞬の古典的な考えの変革に挑まなければならなくなった。 「必ずしも、そうとは言い切れないぞ。恋と結婚とは、むしろ相容れないものだという考え方もある。12世紀頃のフランス宮廷では、様々な恋愛沙汰を裁く“愛の法廷”というのが開催されていたんだが、その法廷で、『真の恋愛は結婚した者たちの間にも存在し得るか』という問題に『否』という判決が下ったのは、有名な話だ。愛の国フランスの人間の言うことだから、信憑性がある」 紫龍は 古典には古典で対抗しようとしたのだが、残念ながら、瞬は 古典の権威に流されてはくれなかった。 「結婚すると恋が消えるの? そんなはずないでしょう」 「消えるわけではないだろうが、恋人同士が婚姻関係を結ぶと、そこに生活や社会的なあれこれが絡んできて、二人の間にあった愛情が、フィナモール――つまり、至純の愛ではなくなると考えられていたんだ」 「ふうん……。大変なんだね、結婚するのって」 瞬が しみじみと頷き、 「そうだな」 紫龍は、そんな瞬に、形だけでも同意するしかなかった。 ここで『そんなことはない』と言っても、得るものは何もないのだ。 だが 紫龍が――氷河と氷河の仲間たちが――求めていたのは、そういう結論ではなかったのである。 どこで線路の切り替えを間違えたのか。 本来の目的地ではない駅に到着してしまったアテナの聖闘士たちの電車。 予定外の駅で降りることになった彼等に わかったことは、氷河の恋を実らせるには、どうやら 瞬の中にある“恋”の定義の根本的修正が必要不可欠らしい――ということだった。 それは心を持つ者同士の間になら 無条件で成立するものなのだということを、まず瞬に認識してもらわないことには、そもそもラブストーリーが始まらない。 ラブストーリーが始まらなければ、当然 氷河の恋が成就することはなく、地上世界は存亡の危機に さらされるのだ。 氷河一人が聖闘士として使いものにならなくても、その分を他の聖闘士たちが頑張って補えば、地上世界は存亡の危機を乗り越えることはできるかもしれない。 だが、そうではないかもしれない。 千丈の堤も蟻の一穴から崩れることがある。 氷河の恋の成否は、人類の命運がかかった大問題だった。 |