義のために(この場合は、氷河の利のために)紫龍がとった行動とは、つまり、翌日、 「そういえば、先日、氷河が絵梨衣とデートしているのを見たぞ」 と、瞬に嘘をつくことだった。 これなら氷河は瞬に嘘をつかずに済み、それどころか どんな行動も起こさずに済む。 「絵梨衣さん? あ、星の子学園の?」 「ああ」 ラウンジに足を踏み入れるなり 突然、そんなことを言われた瞬が きょろきょろと室内を見まわしたのは、どう考えても、その場に氷河の姿を求めてのことだった。 瞬は、そういうことは、人づてではなく、氷河本人から聞き、氷河本人に事実確認をしたかったのかもしれない。 だが、その場に氷河はいなかった。 この場に氷河に同席を許したら、瞬に嘘をつきたくない氷河は 仲間の厚意と行為を無にしてくれるに違いないので、紫龍は氷河のいない場所と氷河のいない時を見計らって、瞬への嫉妬誘発作戦を実行に移したのである。 そこにいるのは、紫龍の他には星矢だけだった。 氷河の不在を確認した瞬が、心許ない目をして 紫龍に尋ねてくる。 「デート――って……氷河は絵梨衣さんのことが好きなの?」 「嫌ってはいないだろう」 「そうだよね……」 その場に氷河がいないせいで、瞬は、自分の居場所を すぐには決めることができなかったらしい。 少し迷ってから、ラウンジの壁際にあった一人掛けのアンティークチェアーに腰を下ろし、膝の上に両手を置いて、瞬が 幾度も瞬きを繰り返す。 瞬は、紫龍から知らされた その事実(嘘)を どう解すればいいのかがわからず、混乱しているようだった。 これは なかなか いい感触だと、紫龍と星矢は 態度には出さずに期待したのである。 少なくとも それは 瞬にとって、『へえ、あの二人 付き合ってたんだ』と聞き流すことができるようなことではなかったようだ――と。 紫龍が すかさず、意識して さりげなく、そんな瞬に探りを入れる。 「おまえはどう思う?」 「どう思う……って?」 「だから、おまえは、氷河が好きな絵梨衣をどう思う? 好ましいと思うか?」 紫龍とて、まさか ここで瞬から『僕から氷河を取る絵梨衣なんか大嫌い』などという答えが返ってくると思っていたわけではない。 そんな答えが返ってきたら、氷河の恋愛問題は一挙に解決すると考えてはいたが、事が そう上手く運ぶとは思っていなかった。 とはいえ、彼は、まさか瞬から、 「僕は絵梨衣さんのこと、よく知らないけど、氷河が好きな人なら、僕も好きだよ」 などという答えが返ってくることは、なおさら想定していなかったのである。 「氷河が好きな人なら、おまえも好き――?」 それは最悪の答えなのではないかと、本音を言えば、紫龍は――星矢も――思った。 『友だちの友だちは友だち』は、それこそ 友だちだから成り立つ理屈である。 瞬の“氷河が好き”が恋であるならば、そんな理屈は成り立たない――あり得ない。 『恋人の恋人は恋人』は、普通は成立し得ない理屈なのだ。 世界存亡の危機に直面した紫龍と星矢の背筋を冷たいものが走る。 しかし、瞬の“好き”は必ずしも地上世界滅亡に直結するものではなく――実に何とも微妙なものだった。 「うん。僕、前は、ポロックの絵が 全然 わからなくて苦手だったんだけど、氷河は好きみたいなんだよね。氷河の好きな絵なんだって思いながら見るようになったら、いつのまにか僕もポロックの絵が好きになってたんだよ。絵だけじゃなく、彫刻や小説や映画も――氷河が興味あるっていうから、僕も興味を持って 見たり読んだりしてたら、いつのまにか どれも好きになってた」 「氷河が好きで興味のあるものだから、おまえも好きになった?」 「うん。絵とかだけじゃなく――たとえば飲み物なんかもね。前は、僕、紅茶ばかりだったんだけど、氷河はコーヒーを飲むでしょ。それで、僕も試しに飲んでみて――そしたら、僕もコーヒー飲めるようになってたんだよ。だから、氷河の好きな人なら、きっと僕も好きになると思うんだ」 それが瞬の理屈、瞬の“好き”らしい。 好きな人が好きなものだから、自分も好きになる――好きになってしまった。 この“好き”を、いったいどう解釈したものか。 この“好き”は、友だちや仲間の“好き”なのか、それとも 恋の“好き”なのか。 瞬の“好き”は、はたして“恋”と呼んでいい“好き”なのかどうか。 『氷河が好きな人なら、僕も好きだよ』と、大して悩んだ様子もなく 嬉しそうに言い切る瞬の気持ちが、紫龍には よくわからなかったのである。 彼にわかったことは ただ、『この瞬に嫉妬心を抱かせるのは、蟻に象を踏み潰させること以上の難事業である』ということだけだった。 |