「シベリア? この真冬に? シベリアで何かあったの?」
氷河が 避暑の必要もない季節にシベリアに向かったのは、どう考えても瞬と同じ場所にいることを避けるためである。
が、氷河が そんなことを瞬に言えるはずがない。
当然 氷河は シベリア行きの理由を瞬に語らず(誰にも語らず)、彼の母が眠り、彼が聖闘士になるための修行を積んだ地に向かった。
氷河が語らぬことを、この問題に関しては第三者でしかない星矢と紫龍が瞬に知らせることができるわけもなく――彼等は、氷河の突然の帰省(?)に首をかしげる瞬に、
「雪景色を見飽きたら、氷河はすぐに帰ってくるさ」
と言ってやることしかできなかったのである。
彼等は それ以外に言える言葉を持っていなかったし、実際 それしか言わなかった。
星矢と紫龍は、まさか瞬が その日のうちに氷河を追いかけてシベリアに渡ってしまうなどとは 思ってもいなかったのである。



氷河と瞬が日本に帰ってきたのは、二人がシベリアに渡ってから1週間後。
1週間も二人きりで過ごしていたのだから、氷河の恋には何らかの進展があったのではないかと、星矢と紫龍は期待したのだが、全く そんなことはなく――瞬は1週間前の瞬のまま、氷河も1週間前の氷河のままで(氷河の暗さと疲労感は増したようだったが)、二人は城戸邸に帰ってきたのだった。

「まじで、びっくりしたぜ。氷河なら ともかく、おまえが俺たちにも何も言わずに 真冬のシベリアまで氷河を追っかけてくなんてさ」
瞬の その暴挙には、当然 何らかの特別な思い、特別な感情が作用していたはず。
それを聞き出そうとして、星矢は さりげなく瞬に探りを入れてみたのである。
瞬の答えは、
「だって、氷河がいないと寂しいから。僕、氷河と一緒にいたいんだ」
という、相変わらず解釈に迷う、実に微妙なものだった。
“友だち”に対しても“恋人”に対しても、人は そういう思いを抱くことがあるだろう。
この季節、ただの“友だち”を極寒のシベリアにまで追いかけていくのは、さすがに普通のことではないだろうが、瞬にとって 氷河は“命をかけた戦いを共に戦ってきた仲間”でもあるのだ。
恋でなくても、あり得ないことではない――それは瞬には ごく自然なことなのかもしれなかった。

「氷河、急にマーマに会いたくなったのかなあって思ってたんだけど、そうじゃなくて、一人で考えごとがしたくてシベリアに行ったんだって。ちょっと つらいことがあったみたいで……」
その つらいことの原因が自分だとは知らされていないらしい瞬は、星矢にそう言って 心配顔を作った。
つらいことの内容を瞬に告げることができなかったのだろう氷河は、自室にこもっている。
瞬の心配顔を見て、星矢は いわく言い難い気持ちになり、内心で嘆息した。

「悩み事があるなら相談してって言ったんだけど、氷河は もう大丈夫だって言って、それで二人でオーロラ見物して帰ってきたんだ。オーロラは綺麗だったけど、つらいことがあったのなら、僕たちに相談してくれればよかったのに、どうして 相談してくれなかったのかな……。僕じゃ 頼りにならないと思われたのかな……」
氷河の“つらいこと”が何なのかを知らないせいといえば それだけのことなのだが、瞬は ひどく寂しげである。
命をかけた戦いを共に戦ってきた仲間同士の間に 打ち明けられない悩みなどないはず――とでも、瞬は考えているのだろう。
瞬が ただの“命をかけた戦いを共に戦ってきた仲間”あるいは、ただの“友だち”だったなら、氷河は彼の悩み事を瞬に相談していたかもしれない。
しかし、氷河にとって 瞬は ただの“命をかけた戦いを共に戦ってきた仲間”ではないのだ。

「おまえが頼りにならないと思っていたわけではないだろう。クールな男を標榜している氷河としては、悩み事を抱えて 落ち込んでいる姿を おまえに見られたくなかったのではないか? 要するに、かっこつけだ。悩み事は一人で解決するのが 恰好いいことだと、氷河は思っていたんだろう」
紫龍が、しょんぼりしている瞬に慰撫の言葉を投げる。
だが、瞬は それではあまり力づけられなかったようだった。
「でも、そんなの、寂しいよ……」
つらいことを 一人で解決しようとしている氷河より、氷河の力になれなかった瞬の方が よほど寂しそうである。
寂しそうに、瞬は そう呟いた。

瞬が常に誰かのために生きていたい 心優しい人間だということを、瞬の仲間たちは よく知っていた。
氷河の孤独癖を案じる瞬の気持ちも わからないではない。
だが、氷河に悩み事を打ち明けてもらえず、そのことを寂しいと感じる気持ちは、優しさから生じるものではないだろう。
今 瞬が同情しているのは、氷河に悩み事を打ち明けてもらうことができなかった瞬自身なのだ。
それは、優しさではない。
言ってみれば、それは、氷河の力になることができなかった自分自身への無念である。

十二宮戦、氷河がカミュと戦うために仲間たちを先に行かせた時、瞬は こんな顔をしていなかっただろうか。
あの時の瞬の寂しげな顔を思い出し、星矢は、やはり瞬にとって氷河は特別な何かなのだと思ったのである。
あの時、少なくとも 星矢は、“寂しい”などという感情は かけらほどにも抱かなかった。
あの時 星矢は、『必ず勝てよ』と、それだけを思い、そして 自分たちが この戦いの目的を果たすことだけを考えていたのだ。
氷河が、“命をかけた戦いを共に戦ってきた仲間”で、“友だち”だから。

「瞬、おまえさ……俺が落ち込んで聖域に逃げ込んだら、おまえ、俺を追いかけてきてくれるか?」
「え?」
星矢は 突然 何を言い出したのか。
そんなことをする星矢というものが想像できない――と言わんばかりの目を、瞬が星矢に向けてくる。
瞬には それは本当に思いがけない問い掛けだったらしく、瞬は首をかしげ かしげしながら、星矢に答えてきた。
「聖域なら、魔鈴さんたちがいるでしょう。ギリシャは あったかいし」
「あったかいと心配しないのかよ?」
「だって、いくら自分に無頓着な星矢でも、聖域で凍死はしないでしょう」
「んじゃ、氷河が あったかい聖域に逃げ込んだらどうだ? 追いかけていくか?」

珍しく星矢が後に引かない。
倒さなければならない敵でもない相手に対して、星矢が ここまで食い下がり続けるのは 滅多にないことだった。
瞬が しばし考え込み、やがて、少々 心許ない口調で、
「追いかけていく……かな」
と答えてくる。
星矢は すかさず、突っ込みを入れた。

「なんでだよ。聖域なら凍死はしないんだろ」
「それは……でも……魔鈴さんやシャイナさんは 氷河を慰めたり力づけたりはしてくれないだろうし、僕は 氷河に元気で幸せでいてほしいから。そうでないと、僕が苦しい」
「俺は? 俺は落ち込んでても平気なのかよ」
「星矢は、一人でも大丈夫でしょう」
「氷河は一人じゃ大丈夫でないと思うのかよ。あいつだって、アテナの聖闘士だ。そんな弱っちいはずないだろ」
「氷河も大丈夫かもしれないけど……。でも、僕にできることがあったら、できるだけのことをしてあげたいんだ」

星矢は なぜ今日に限って、これほどまでに攻撃的なのか。
瞬は仲間の態度に戸惑い、気圧(けお)されているようだった。
だが、だからこそ、そこに言葉を言い繕う余裕は存在しなかっただろう。
瞬は、瞬にとっての真実を言っている。
それが、瞬の嘘偽りのない事実なのだ。






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