「マーマが死んだんだ」
「お母さんが?」
「アポロンとゼウスが喧嘩をして、それに巻き込まれて――マーマは 俺をゼウスの雷電から庇って死んだ。俺の目の前で消えた。神を殺したい。でも、俺には何の力もなくて、そんなことはできない。マーマの仇を討てないなら、死んだ方がましだ」
「あ……」
瞬が神でも人間でも――俺のマーマの死は 瞬には他人事だ。
瞬は俺のマーマを知らないし、俺のマーマが死んだって、瞬は困ることもないだろう。
でも、俺の話を聞いた瞬の手は――俺の腕を掴んでた瞬の手は、つらそうに 悲しげに震え、それを俺に気付かせまいとしたのか、瞬は俺を その手から解放してくれた。
なんだか――瞬の びっくりするほど 深い悲しみが意外で、俺は瞬の顔を覗き込んだんだ。
そうして 見詰めた瞬の目は、何だかすごく不思議な目――すごく不思議な何かだった。
その中には すごくいろんなものがあるのに、全然 濁ってない。

女か男かは わかんないけど、瞬はまるで 優しくて あったかい 春の花みたいな印象の持ち主で、恐いくらい澄んでると思った目も、あったかくて全然 恐くない。
でも、すごく悲しそうで――多分、それが“同情”って奴で、瞬は 俺に同情してるんだって思った。
同情ってのは、幸運な奴が不運な奴に抱く感情だろ。
いつもの俺なら、人に同情なんかされたら、滅茶苦茶 むかついてただろうけど、俺は そんな気にならなかった。
俺を見詰める瞬の目は、すごく――すごく優しかったから。
優しい目をした瞬が、優しい声で、俺に言う。

「僕はアテナの聖闘士だよ。そう言ったでしょう? アテナは、ゼウスともアポロンとも違う」
「でも、神なんだろ。神はみんな同じだ。みんな、身勝手で、馬鹿で、残酷だ。平気でマーマを殺した」
神は なじってやりたいけど、瞬を責めたくはなかったから、瞬に言い返す俺の声は――言葉は 刺々しかったけど、声は あんまり迫力はなかった。
瞬は俺の口答えに気を悪くしたふうはなくて、瞬の優しい声は優しいままだった。
「アテナは違うの。アテナは、地上に害を為そうとする邪神から人間たちを守ってくれているんだ。僕は、そんなアテナのもとで、そんな邪神たちと戦うために――人間の世界を守るために、アテナの聖闘士になったんだよ。まだ……なったばかりだけど」

アテナっていう神の名前ばっかり気にして、聖闘士ってのが何なのかを確かめてなかったけど――邪神と戦う?
聖闘士って、神と戦う奴のことなのか?
聖闘士って、人間なんだよな?
瞬は神じゃないんだよな?
「邪神と戦うって……聖闘士になれば、人間でも 神を倒せるのか?」
俺は震える声で、瞬に尋ねた。
「不可能なことではないよ」
瞬は 相変わらず優しい声で――でも、そういう大事なことは、もっと早く言えよ!
神を倒せる !?
聖闘士になれば、神を倒せるんだ!
マーマの仇を討てるんだ!
マーマの仇を討てたら、俺は無意味で無力なものじゃなくなる!
俺が生きてることには意味があるんだ!

「なら、俺は聖闘士になる!」
俺は すぐに決意していた。
瞬は、俺の決めたこと、あんまり喜んでくれなかったみたいだったけど。
「……マーマの仇を討つため?」
瞬は、なんか心配そうな目と声で 俺に尋ねてきた。
「当たりまえだろ! 他に聖闘士になる理由なんかない。神を倒すんだ!」
気負い込んで 俺が頷くと、瞬は 小さく首を横に振った。

「それは駄目なの。聖闘士は憎しみの心でなるものじゃないの」
憎しみの心でなるものじゃない――って、じゃあ、憎しみ以外のどんな理由で、人は聖闘士になるんだ?
憎しみ以外の どんな理由で、人は強くなろうと思う?
他にどんな理由があるのか、俺には わからなかった。
だから、瞬に訊いたんだ。
「おまえは、どうして聖闘士ってのに なったんだ?」
って。
「僕は――苛酷で理不尽な運命のせいで不幸になる子供たちをなくしたいと思ったから、聖闘士になったんだよ。君みたいな子を作らないために」

それは、俺の理由とは違うのか?
おんなじだろ?
「そのためには、身勝手で横暴な神を倒すしかないじゃないか」
苛酷で理不尽な運命のせいで不幸になる子供たちをなくしたいのなら、そうするしかないはずだ。
でも、瞬は そう思ってないみたいだった。
「聖闘士は、人の命や幸福を守るために存在する。そのために戦うんだ。仇を討ちたいなんていう理由で なれるものじゃないんだよ。仇を討ったら、君は そのあとはどうするの」
「そのあとは死んでもいい!」
俺は即答した。
マーマの仇を討つことが、俺の生きる意味で目的だ。
それが叶ったら、他に俺が生きてる理由なんかないし、マーマがいないのに しつこく生き続けたいなんて、俺は思わない。

俺が きっぱり そう答えたら、それまで ずっと優しかった瞬の声が、ちょっとだけ固くなった。
俺の いたずらを叱る時のマーマみたいに。
「そんなの駄目だよ。君のマーマは 君を庇って命を落としたと言っていたよね。マーマは 君に生きていてほしかったんだよ。だから、自分の命をかけて君を守ったんだ。それは わかるでしょう?」
それは わかるけど――わかるけど、でも。
「でも、マーマがいないのに生きてたって何にもならない」
「お父さんはいないの?」
「俺が生まれてすぐに死んだ」
俺はずっと、マーマと二人きりだったんだ。
マーマがいるから、俺は いつだって幸せだった。
そのマーマを、ゼウスは俺から奪った。
だから、仇を討つ。
けど、仇を討ってもマーマは帰ってこないから、仇を討ったあとは 俺は生きてる必要はない。

「そう……」
俺は間違ってないと思うけど――瞬も、俺に『間違ってる』とは言わなかった。
『間違ってない』とも言ってくれなかったけど。
瞬は、その どちらだとも言わないで、全然 違うことを言い出した。
全然 違うけど、すごく重要なことを。
「生きていても無意味と思うなら、その命を 人々の幸せを守るために使ってもいいじゃないかな。今 死んでもマーマは君を褒めてくれないよ」
なんでだ。
そんなの、俺は嫌だ。
「俺、マーマに褒めてほしい」
「じゃあ、マーマの喜ぶことをしようよ。君のマーマは優しかった?」
なに、当たりまえのことを訊いてくるんだ。
優しかったに決まってるじゃないか。

「うん、すごく」
「君にだけ?」
「みんなに優しかった。みんながマーマを綺麗で優しいって言ってた」
みんながマーマを褒めるから、俺は いつだって得意だったんだ。
マーマを悪く言う奴なんて、一人もいなかった。
「じゃあ、君のマーマの望みは、君と君以外の人たちが幸せになることだったんだ。君は、マーマの望みを叶えるために生きなくちゃ。そうして一生懸命に生きて――いつか死んで、マーマに会うのは その時の方がいいよ。その方がマーマに たくさん褒めてもらえるから。ちゃんと自分の命を生き抜いたんだねって、マーマは きっと 君を誇らしく思って、君を いっぱい褒めてくれるよ」

瞬の言う通りみたいな気がした。
マーマは俺を庇って死んだ。
俺を生かすために死んだんだ。
それに、マーマは、俺が いたずらすると叱ったけど、俺が誰かに親切にすると、すごく喜んでくれた。
瞬の目は綺麗で、絶対に嘘なんか言ってないって わかった。
瞬は――瞬は、マーマの気持ちがわかるのかな。
マーマと同じ、優しい心を持ってるから?
「俺がマーマと みんなのために一生懸命 生きたら、おまえも俺を褒めてくれるか」
「もちろんだよ」
「なら、俺、聖闘士になる」
俺は、瞬と同じものになるんだ。
それで、瞬と一緒にいて、マーマだけじゃなく 瞬にも褒めてもらう。

「マーマの望みは、聖闘士にならなくても叶えられると思うけど――」
俺の決意を聞くと、瞬は ちょっと慌てたみたいに、元の気弱そうな顔に戻った。
けど、聖闘士になれば、瞬と一緒にいられるんだろ?
俺は、その方がいい。
「俺は、おまえみたいに強くなりたいんだ」
「あ……でも、でもね。聖闘士になるには、とっても つらい修行を積まなきゃならないんだよ」
とっても つらい修行?
なんだ。瞬は そんなことを心配してるのか?
それが どれだけ つらい修行だったって、マーマがいないことより つらいことなんてあるはずないのに。
「マーマとおまえに褒めてもらうためなら、俺、頑張る。駄目か?」
「駄目っていうことはないけど……」
瞬は、なんか 困ったみたいな目をして俺を見た。
それから、何かを考えてるみたいな顔して――最後に、短い息を洩らして、困った顔のまま微笑した。
ほんとに春みたいだ。春に咲く、最初の花。

「おまえ、俺より年上なのに、可愛い」
「えっ……」
「綺麗で可愛い。いちばん綺麗なのはマーマだけど」
「もちろん、そうに決まってるよ」
「うん」
もちろん、それは そうなんだけど――けど、瞬は可愛い。
だから やっぱり、俺は聖闘士っていうのに なろう。
そんで、ずっと瞬と一緒にいるんだ。






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