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そもそもの発端は、大神ゼウスとその息子ペルセウス。
そして、海神ポセイドンとその娘たちだった。
ある時、エティオピア王家の王妃が、自分の娘アンドロメダは海神ポセイドンの娘たちより美しいと豪語した――らしい。
『その傲慢の罪を贖うために、王女アンドロメダ姫を海獣への生贄として捧げよ』という神託が、エティオピア王家に下された。
その神託が実行されなければ、海神ポセイドンによって解き放たれた巨大な海獣が、エティオピア王家とエティオピアの国に 大いなる災厄を もたらすだろうという神託。

いったい どこの王妃がそんなことを言ったというのか。
最初、エティオピアの王と王妃は、なぜ そんな神託がエティオピアに下ったのか、訳がわからず混乱したらしい。
確かにエティオピア王家にはアンドロメダという名の王女がいた。
これまでに幾人か。
アンドロメダというのは、“神のごとく人間を見守る者”という意味で、エティオピア王家では よくある名前だった。
それは、人間の世界を見守ってくれる神に敬意を払って、王家に生まれた姫に しばしば つけられる名前だったんだ。

エティオピア王家で最も最近のアンドロメダ姫は、現在の国王の4代前の王の治世に存在した。
120年前に生まれ、80年前に亡くなっている。
確かに、エティオピア王家にはアンドロメダという名の王女がいた――今はいない。
現在のエティオピア王家には 王女はおらず、王子が二人いるのみ。
いない王女を生贄として捧げることなどできない。
だが、生贄を捧げなければ、国が災厄に見舞われる。
もちろん、一度 下った神託を覆すことはできない。
ましてや、神に『その神託は間違っている』と訴えることなどできるはずもない。

悩み、考えあぐねた末、エティオピアの王と王妃は、存在しないアンドロメダ姫の代わりに、エティオピアの王と王妃の命を生贄として神に捧げることで、国と国の民を守ることを決意した。
その犠牲は、彼等の息子たちを守るための犠牲でもあったろう。
国王夫妻は、『存在しないアンドロメダ姫の代わりに、王子を生贄として捧げるべきだ』と誰かが言い出すことを 未然に防ごうとしたのだ。
自分たちの命を海獣に捧げることによって。

神託が指示した日、エティオピアの王と王妃は、エティオピアの浜にある生贄の岩に立った。
彼等の命が 神託の通りに現われた海獣の作った大きな波に呑まれてから まもなく、ゼウスの息子ペルセウスがエティオピアの浜に現れて、神に与えられた強力な武器を用いて 巨大な海獣を退治した。

実は、それらすべての出来事は、息子ペルセウスに“巨大で凶暴な海獣を退治して、エティオピアを救った英雄”という栄誉と肩書きを付すために、大神ゼウスが画策した茶番だった。
そのために、ゼウスとポセイドンが猿芝居を打っただけ。
エティオピアの民は、王と王妃の命を奪った海獣が海底に引き返すことなく暴れ続けることを恐れていたので、海獣を退治したペルセウスに 不信感を抱きながらも、彼を英雄と呼ぶことになった――。



僕が、エティオピア王家に降りかかった不幸を 兄さんから知らされたのは、それらのことが すべて終わってからだった。
父様と母様の姿が王城から消え、父様と母様の命が地上から消えてから。
父様と母様は、エティオピアに下った神託を 城内のごく一部の者にしか知らせず、すべてを自分たちの一存で、極秘の内に計画し、実行し、やり遂げた。
エティオピアの民を不安と混乱に陥れないために。
彼等の愛する息子たちの命を守るために。

僕が母様の姿を求めて泣きやまなかったから、兄さんは僕に 母様と父様の死を伝えなきゃならなくなったんだ。
僕はもう二度と母様に会えないんだってことを。
母様と父様は 僕たちを守るために、その命を海獣に捧げた――ううん、神に奪われたんだってことを。
兄さんが怒りに燃えて語る その話を、僕は すぐには よく理解できなかった。
いもしない お姫様の代わりに どうして母様と父様が その命を犠牲にしなければならなくなったのか。
大人たちにだって理解できないことを、たった6歳の子供の僕に理解できるわけがない。
僕に わかったのは、僕が もう二度と母様と父様に会うことができないってこと、そして、いつも優しかった兄さんを こんなふうに怒らせるほど ひどいことを、神様がしたんだってこと。
それだけだった。

あまりに理不尽だと、神々のやり様は卑劣の極みだと、兄さんは僕に言った。
神が仕立てた舞台で、神が準備した怪獣を、神が準備した武器で倒した神の息子。
ゼウスの息子ペルセウスに、“災厄に見舞われたエティオピアを怪獣から守った救国の英雄”という栄誉が与えられる様を見て、兄さんは神々の仕組んだ茶番に気付いたんだ。
そして、その時から 兄さんは、神々を祀っている万神殿で、神々に説明を求め、神の卑劣を糾弾し続けてきた。
だけど、兄さんが神殿で どんなに叫び続けても 神々は沈黙を守るばかりで、兄さんには どんな答えも与えられなかった。
だから俺は決意したんだ――と、兄さんは僕に言った。
こんな理不尽がまかり通っていいはずはない。この許されざる不正義を正すために、自分は 直接 オリュンポスに乗り込むつもりだ――って。

『行かないで』って、ほんとは僕は言いたかった。
どんな罪も犯していない父様と母様の命を平気で奪った神々が、兄さんの訴えに耳を傾けてくれることがあるとは思えなかったから。
兄さんの訴えが 正当なものでも、それが神々にとって不都合なものなら、神々は無視するに決まってる。
無視するだけなら まだ まし。
神ならぬ人の身で 神を責めるようなことをして、それだけで済むはずがない。
問題は、どちらが正しいか正しくないかじゃない。
すべてを決するのは、どちらが強いか 強くないかなんだ。

もちろん、兄さんは強い。
その上、兄さんは、いずれエティオピアの王となる継嗣の王子として常に公明正大であるよう、父様の訓育を受けていた。
兄さんの気持ちは、僕にだってわかる。
父様と母様の命が理不尽に奪われたことは、僕だって、つらくて、悲しくて、悔しい。
でも、だから――だからこそ 僕は、この上 兄さんまで失いたくはなかった。
そんなことになったら、僕は本当に一人ぽっちになってしまう。
どんなに強くても、正しくても、兄さんは神じゃない。
やっと10を超えたばかりの人間の子供にすぎない。
神に逆らうことなんてできるはずがない。

なのに――なのに、僕は兄さんを止めることができなかった。
一人ぽっちになることは恐かったけど、それ以上に 僕は、兄さんの誇りを傷付け、兄さんを激昂させ、兄さんに嫌われてしまうことが恐かったんだ。
『死んでしまった父様と母様を生き返らせることはできないんでしょう? それが叶わないなら、何をしたって無意味だよ』
『神に人間が敵うわけがない』
『兄さんだけでも、僕の側にいて』
すべての言葉を喉の奥に押しやって、僕は、兄さんの前で泣いていることしかできなかった。

「必ず帰ってくる。それまで、泣かずに待っていろ」
そう言って、兄さんは、エティオピアの はるか北、神々の住まいのあるオリュンポス山に向かい、そして、帰ってこなかった。






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