「何をしている」 「兄さん……?」 そう言って、僕が俯かせていた顔を上げたのは、王子でなくなった僕を気に留めてくれる人は、兄さん以外にいないと思っていたから。 でも、そこにいたのは、兄さんじゃなく、僕の知らない人だった。 兄さんより ずっと年上。 きっと7つ8つくらいは年上。 その人は すごく綺麗な人だった。 エティオピアでは見たことのない金色の髪と青い瞳を持っていて、10代後半――大人で、でも若い人。 最初、僕は その人を神様だと思ったんだ。 僕を死なせに来てくれた神様。僕を兄さんと父様と母様の許に連れて行ってくれる、優しく冷たい死の神様だと。 そうじゃないと気付いたのは、その綺麗な人が、 「ここはどこだ」 って、僕に訊いてきたから。 僕を死の国に連れていってくれるはずの人が、ここがどこかを知らないなんて おかしなことだと思ったから。 そんな神様が、僕を ちゃんと兄さんのところに連れていってくれるとは思えない。 僕は迷子になりたくなかった。 『ここは、エティオピアの都で いちばん古い神殿の前です』って答えようとして、でも、僕は その言葉を口にすることはできなかった。 だって――だって、僕は 神殿の前の石の階段の下に座っていたはずだったのに、いつのまにか 僕の周囲からは階段も神殿も消えてしまっていたんだ。 そこは何もない空間。 ただ真っ白いだけの空間だった。 エティオピアには、こんなところはないはずだった。 エティオピアでは いつも人々の頭上に青い空があって――ううん、人間の世界には必ず その上に空があるはずなのに、ここには空がない。 「わからない……。ここはどこ? 僕はエティオピアの古い神殿の前にいたはずなのに」 それは答えになっていない答えだったけど――僕は、僕に答えられるだけのことを答えた。 「わからない?」 その答えに、その人が変な顔をする。 それは当然の反応だけど――そこにいた人間が自分がどこにいるのか わからないっていうのは 確かに変なことだけど、ここに来た人間(なのかな?)が 自分の来た場所がどこなのか わからないっていうのも、十分に変なことだと思う。 その人は 結局、ここがどこなのか知ることを諦めたみたいで――彼は質問の内容を変えてきた。 「おまえは誰だ」 その質問の答えは、僕にもわかる。 「瞬です」 僕は瞬。 今の僕は、エティオピアの王子でも何でもない、ただの瞬だ。 「瞬?」 知らない綺麗な人は、僕の名前を聞いて、また変な顔をした。 それから、なぜか少し不愉快そうに 顔をしかめた。 どうしてだろう? 僕が『エティオピアの王子です』って答えたのなら、この人が変な顔をするのは そんなに変なことじゃないけど。 一国の王子が こんなところで、たった一人で ぽつんとしているのは変なことだから。 でも 僕は 名を名乗っただけだったのに。 この人には、僕と同じ名前の知り合いでもいるんだろうか。 そして、この人は、その人と仲が悪いのかな。 でも、そうだったとしても、そんなのは僕のせいじゃないと思うけど。 そして、そんなことは、今の僕には どうでもいいこと――確かめる必要もないことだけど。 僕が知りたいことは ただ一つ。 「あなたは神様?」 っていうことだけだ。 その質問に、その人は それでなくても不機嫌そうだった顔を ますます――ううん、全く表情を変えた。 “不機嫌そう”じゃなく、はっきり不機嫌になって、ものすごく怒り出した。 「そんなものと一緒にするな! 神など、どいつも こいつも、人間を虫ケラ程度にしか思っていない、傲慢で身勝手で自分の益しか考えていない ろくでなしだ。一緒にされてたまるか!」 何もない この白い空間には、もしかしたら果てっていうものがないのかもしれない。 果てがあったなら、この人の声は そこにぶつかって撥ね返され 木霊を作るはずだもの。 それくらい大きな声。 でも、木霊は返ってこなかった。 多分、この場所には果てがない。 「神様じゃないの? こんなに綺麗なのに」 「だから、そんなものと一緒にするなと言った!」 大きな声で怒鳴られて、その剣幕が ものすごくて、僕は びくっと大きく身体を震わせた。 恐い。 神様じゃないのなら、僕と同じ人間で、だから この人は神様みたいに大きな力は持っていないはずなのに、でも 恐い。 この人は、神様が嫌いみたい。 もしかしたら、僕、神様の味方だって思われたのかな。 だから この人は、会ったばかりの僕を こんな大声で怒鳴りつけるのかな? でも、僕は、神様の味方じゃないよ。 「ぼ……僕は――僕の両親は 何も悪いことしてないのに、大神ゼウスと海神ポセイドンの神託のせいで 死んでしまったの。兄さんは、そのことに怒って、神の理不尽を責める、報いを受けさせるって言って、オリュンポスに行ったきり帰ってこなかった。僕は一人ぽっちになって――それで、僕、一人では生きていけないから、ここで……」 「ここで べそべそ泣きながら、死ぬのを待っていたのか」 僕は、僕が神様の味方じゃないことを わかってほしかっただけなのに、その人は また別のことで怒り出した。 僕、この人を怒らせることしかできないのかな。 こんなに綺麗で、神様でもないのなら、僕は この人に嫌われたくないのに。 「僕は……だって、兄さんがいないと僕、何もできない」 「そんなことがあるか。人は皆、一人だ。だが、皆、生きている」 「でも、僕は一人には耐えられない。もういいの……僕は、父様や母様や兄さんのところに行きたい。一人じゃなくなりたい」 「神に文句を言いにいくほどの気概を持った兄貴の弟がこれか。さぞや 兄貴も不甲斐なく思っていることだろう」 その人は――その人の声は、もう大声じゃなかった。 もう怒ってはいないみたいだった。 代わりに、ものすごく情けないものを見るみたいな目で 僕を見おろしてて――僕を軽蔑してるみたいだった。 僕は、恐いっていう気持ちが消えて、悲しくなったんだ。 だって、僕は、何の力もない。 この人は自分が強い大人だから、そんなことが言えるんだ。 僕が そう言わなかったのは、人間は どんなに強い大人でも神様には敵わないってことを思い出したからだった。 この人だって、それくらいのことは 知らないはずがないのに――って、僕は思ったんだ。 「そんなふうに、神々の我儘や理不尽を仕方がないと諦めて抵抗しないから、神々がつけ上がるんだ。おまえの兄は死んだわけではないんだろう。兄を取り戻したいなら、戦え」 知らないはずないよね? 神の力が どれほどのものなのか、この人が知らないはずないよね? なのに、どうしてこの人は――この人は、本当に人間なの? 「神様と戦うなんて、そんなこと、できるはずが……。あなたは本当に神様じゃないの?」 「俺はアテナの聖闘士だ。アテナは酔狂な神で、まあ、人間を虫ケラ扱いしない唯一の神だろう。アテナの聖闘士は、アテナのもとで、人間と人間の生きる世界に仇なす邪神と戦う者。俺は その一人だ」 神と戦う? そんなことができるの? 僕は 驚いて、その人の顔を見上げた。 綺麗な青い瞳が、僕を見詰めてる。 その目は 恐いくらい綺麗で、でも、なぜだか 僕は恐くなかった――恐くなくなってた。 その青い瞳は すごく冷たくて冴えていて――でも、なぜだか温かくて、冷たいだけじゃなかったんだ。 「おまえが そうやって、泣いて、死んで――それで、神々が自分たちの所業を後悔すると思うか? 神々はおまえのことを哀れみもしない。兄を取り戻したいなら、戦うしかないんだ」 僕が死んでも、神様は自分のしたことを後悔しない。 僕を哀れんでもくれない。 それは――きっと そうなんだろうなって思う。 そんなこと、ほんとは最初から わかってたことのような気もする。 でも――この人も……この人も 僕を哀れんではくれないの? 「無理だよ。そんな力は僕にはない。兄さんも、きっと死んでしまったんだ。神様に逆らったんだもの」 「きっと死んだ? だが、おまえは、おまえの兄が死んだところを見てはいないんだろう?」 問われて、僕は頷いた。 僕は この人の言う通り、兄さんの死ぬところを見ていない。 僕が知っている確かな事実は、兄さんがオリュンポスに向かって 帰ってこなかったっていうことだけ。 兄さんが死ぬところを見たりなんかしてたら、きっと僕は それから1秒だって生きてられなかったよ。 きっと その瞬間に、僕の心臓は動くのをやめてた。 「なら、きっと生きていると思え。そして、おまえ自身も 生きる努力をしろ。生きてさえいれば、いつか会える。おまえの兄もきっと、おまえのために生きる努力をしたはず――今も しているはず。おまえの兄は そんなに弱くて、おまえを見捨てるような兄なのか」 「ううん。兄さんは――」 兄さんは強い。 兄さんは、いつだって、誰よりも――大人よりも強かった。 誰が諦めても、兄さんだけは諦めなかった。 絶対に、誰にも屈しなかった。 だから、兄さんは たった一人でオリュンポスにだって行ったんだ。 「なら、おまえも強くなれ。そして、生きろ。生きてさえいればきっと会える。死んだら、絶対に会えない。兄がもし 生きていたらどうするんだ。そして、おまえの死を知ったら。きっと深く悲しむ。わかるな」 厳しくて、ぶっきらぼうなのに、優しい声。迷いのない強い言葉。 この人は、兄さんに似てる。 外見は――全然 違うけど。 「でも、神様に逆らって、生きているはずが――」 「十中八九、死んでいるのだとしても、生きている可能性があるのなら、兄と再会できた時、兄を悲しませないために、生き抜け。たとえ おまえの兄が死んでいたとしても、おまえの兄は おまえの死を望んではいないだろう。そうは思わないか。神々を責めに行くような男だぞ。おまえの兄が死んでいるのだとしても、ならば なおのこと、おまえは兄の遺志を継ぐべきだ。不甲斐ない弟のままで死んだら、おまえの兄は、さぞかし おまえを情けなく思うだろう」 「兄さんが……悲しむ……」 僕、それは嫌だ。 兄さんが僕のために悲しむなんて、僕は それだけは嫌だ。 「それは……いや……」 小さな声で――自分でも聞き取れないくらい小さな声で――僕は呟いた。 綺麗な青い瞳の人が、情けないくらい小さな僕の呟きを聞いて、一度 大きく深く頷く。 恐いのに――きっと神様より恐い――この人は僕を励ましてくれてる。 神様より恐いのに、この人は優しい。 そして、この人は強い。 不思議だ。 この人も、兄さんも――人間が神に敵うはずないのに、誰もが そう思っているのに、どんな大人だって そう思っているのに、どうして この人は、どうして兄さんは、それでも神に挑もうとするんだろう。 どうして諦めてしまわないんだろう。 強くなったら――その訳が、僕にもわかるだろうか? |