縦は203センチ、横は314センチ。 1482年、フィレンツェのメディチ家の依頼で、サンドロ・ボッティチェッリが描いたテンペラ画、プリマヴェーラ――春。 イタリア・ルネサンスを代表する作品を そのまま写し取った、それは ゴブリン織りのタペストリーだった。 中央に描かれているのは、愛と美の女神ヴィーナス――ギリシャ神話のアフロディーテ。 この絵が描いているのは、愛と美の女神の庭園なのだ。 その庭園は、絵の左端に描かれているヘルメス神によって守護されている。 アフロディーテとヘルメスの間で 優雅な踊りを踊っているのは、それぞれ“愛”、“美”、“貞節”を表わす三美神。 アフロディーテの頭上では、三美神の“貞節”を狙って、アフロディーテの息子のエロスが 今にも愛の矢を放とうとしている。 画面右では 春を呼ぶ西風の神のゼピュロスがニンフのクロリスを捕まえようとしており、その二人の左隣りに描かれているのは花の女神のフローラ。 このタペストリーは、17世紀、フランス国王アンリ4世に招かれたフランドルの職人がパリで織ったものらしい。 ルネサンスの傑作が、ピカソの“ゲルニカ”、ジョアン・ミロの“星座”に挟まれて展示されているのはシュールの極み。 タペストリー展なればこその光景と言えた。 「春っていうタイトルなのに、春の女神はいないんだよね。この絵」 瞬が、小さな声で呟く。 「おまえの好みとは思えないが」 氷河が そう応じたのは、ミロの星座シリーズは流し見で済ませた瞬が、プリマヴェーラの前では その足を止めたから。 そして、その絵が氷河の好みでもなかったからのようだった。 「え」 「あれこれ寓意が込められていて、解釈も様々、詰まらん絵ではないんだろうが、正直、美しいとは思えないな。特にフローラなんて、幽霊のような顔をしているじゃないか」 イタリア・ルネサンスの傑作と言われている作品を『美しいとは思えない』とは、ボッティチェッリのファンが聞いたら、頭から湯気を出して激怒しそうな評価である。 氷河の評価は、それが絵ではなく タペストリーだから――というわけではなかっただろう。 フィレンツェのウフィツィ美術館で 瞬と二人で このタペストリーの原画を見た時も、氷河は この絵に感心した様子を見せなかった。 「この絵が 僕の好みかどうかは さておいて、そういえば、ギリシャの神々には 春の女神っていないなあ……って、思っただけ」 「イタリア・ルネサンス期の絵のタイトルなど、どうせ ヴァザーリが勝手に命名したものだろう。この絵は 確か、ロレンツォ・ディ・メディチが従兄弟だか又従兄弟の結婚の祝いに描かせた絵のはず。本来は“婚姻の祝”とでも題すべき絵だ」 「そうだけど……。北欧神話にはトール、スラヴ神話にはヤロヴィト、インド神話にはヴァサンタ、日本の神話にだって佐保姫って、ちゃんと春の神がいるでしょう。なのに、どういうわけかギリシャにだけは――」 「ゼウスとデメテルの娘ペルセポネーが四季の女神とされているぞ。季節の運行を司るホーライもいる」 「でも、彼女たちは――」 「でも、彼女たちは?」 鸚鵡返しに問い返された瞬が、ふいに眉根を寄せる。 しばし考え込んでから、瞬は二度三度 軽く首を横に振った。 「僕……今、何を言おうとしたのかな……」 心許ない口調で 独り言のように呟いた瞬に、氷河が訝るような視線を落とす。 「瞬、大丈夫か」 「ん……うん」 「ブドウ糖が切れたんじゃないか? それで、脳が働かなくなっている」 「そうかも」 「ブドウ糖の補給に行くか。沙織さんへの報告は、カタログを買って帰ればいいだろう。俺たちの任務は、沙織さんへの招待状に同封されていた芳名帳カードを受付で提出した時点で完了している」 「うん!」 瞬は、氷河の提案に 一も二もなく飛びついた。 二人が このタペストリー展にやってきたのは、このイベントに協賛しているグラード財団の総帥が来場した証憑を残すという任務を果たすため。 その任務を 瞬が自ら進んで引き受けたのは、このタペストリー展が行われているイベントホールのあるビルの最上階にあるカフェラウンジで 春のストロベリー・デザート・フェアが開催されていることを知っていたからだったのだ。 春は、春の女神が不在でも やってくる。 春のしるしはどこにでもある。 嬉しそうに氷河の腕に手を絡めてきた瞬の 春を思い起こさせる笑顔を見て、氷河は目を細めた。 |