「こんばんは。何かあったんですか。賑やかですね、服田さん」 ハンサムなおじ様の代わりに店の中に入ってきたスーツ姿の美少女。 その姿を認めると、“服田さん”は、説明不足で愛嬌なし バーテンダーへの不満を、一瞬で忘れたようだった。 無愛想なバーテンダーの代わりに、全開の笑顔で 瞬の来店を歓迎する。 「瞬せんせ、いらっしゃい! 相変わらず、綺麗で可愛らしい!」 誰が この店の主なのか わからない。 瞬は、この店の主の無愛想を全力の笑顔で補ってくれる親切な常連客に軽く会釈をした。 「瞬せんせに会えるなんて、ラッキー。黒木くんが羨ましがるわ。瞬せんせが ここに来るってことは、明日は お仕事、お休みなの? 私が氷河の無愛想を我慢して、このお店に通い詰めてるのは、ひとえに、うまくすれば 瞬せんせに会えるっていう期待ゆえなのよ。4月のショーのモデルの件、考えてくれた?」 「明日は K大のY教授の講演を 聞きにいくんです。軽いお酒なら飲めるかなあって」 「ええ。それでモデルの件は」 “服田さん”は、一応 個人事業主でフリーのファッションデザイナーなのだが、現在は、某アパレルメーカーと契約し、メーカーの意向に沿ったデザインを提供している。 彼女には いずれ 真の意味でフリーなデザイナーとして独立し、自分のブランドを立ち上げたいという野心があるらしく、そのために瞬に協力を求めていた。 氷河は断じて認めないだろうが、彼女には 氷河がいつも世話になっている。 瞬とて、できることなら力を貸したかったのだが、それは瞬には無理な協力要請だったのだ。 「僕は、著述業や講演以外の副業は基本的に禁じられているんです。そういうことは、氷河の方に。氷河なら、僕よりずっと融通がきくと思いますよ」 「冗談やめて。私は、レディースオンリーのデザイナー。瞬せんせに出てもらいたいのは、春のガールズ・コレクションなのよ。メンズは管轄外!」 冗談を言っているのは どちらなのか。 瞬としては苦笑するしかなかったのである。 だから、瞬は苦笑した。 「もう……いつも そうやって 笑って ごまかすんだから……!」 口の中で ぶつぶつ文句を言いながら、服田さんが、どこから何をどう見ても美少女にしか見えない成人男性に ごまかされる。 あまり しつこく“瞬せんせ”に絡むと、氷河は 平気で自分の店の上得意を出入り禁止にしかねない。 この店の主の冷徹さを知っている“服田さん”は、その辺りの見極めは実に的確だった。 だからこそ 氷河は、来店するたび 店内を騒がしくしてくれる彼女に この店への出入りを許しているのだろうと、瞬は察していた。 彼女は賢明で聡明。機を見るに敏で、判断力も優れている。 副業禁止の勤務医の協力を得られなくても、いずれ成功し、その夢を叶えるだろうと、瞬は思っていた。 「それで? 何かあったんですか?」 「変な客が来てたのよ。なかなか素敵な おじ様だったけど、氷河の作ったダイキリを不味いって言って、この店の客はみんな味音痴だって」 「僕のことですね」 「おまえの好みには筋が通っている。筋金入りだ。おかげで 俺は、定められたレシピを 客の好みに合わせて大胆に変更する柔軟性を手に入れた。おまえの好みを すべて採用すると、オーダーされたものと全く別のものができあがって、目眩いを覚えることもあるがな」 謝辞にも嫌味にも取れる氷河の言葉に、瞬は微笑で応じた。 「スクリュー・ドライバーがトロピカル・ジュースに?」 瞬とて、自分が この店の上客でないことは、ちゃんと自覚しているのだ。 氷河が、自分の店を、酒の飲み方を知っており 酒の味がわかる客が好む店にしたいと思っていることも知っている。 作る酒にも、客としても、自分が氷河に常軌を逸して柔軟な対応を強要していることは承知しているのだが、だからこそ 瞬は、自分の中の申し訳なさを抑えて、できるだけ 氷河の店に来るようにしていた。 カウンター席は なるべく他の客に譲るよう、いつもはテーブル席の方に着く瞬が カウンター席に腰を下ろしたのは氷河のためだった。 氷河が、 「何か聞きたそうな顔してる」 から。 オーダーを聞かずに作ったオレンジジュース一歩手前のカンパリ・オレンジもどきを 瞬の前に置いてから、氷河が おもむろに瞬に尋ねる。 「不味い酒を飲みたがる人間というものがいると思うか」 「え?」 では本当に、不味い酒を所望する客が この店に来たのだろうか。 瞬は首をかしげることになった。 「そうだね……。ダイエット中だったり 肝機能等に問題があるせいで、酒量を抑えなければならないんだけど お酒は飲みたい人とか、アルコール依存症の治療中の人が、葛藤の末に そういう注文をすることはあるかもしれないね」 「どれも違うな。ダイエットが必要な男には見えなかったし、黄疸等の症状も見受けられなかった。アルコール依存症でもない。そもそも 不味いものをと、言葉で言われたわけじゃないんだ。だが、とにかく不味い酒を求めているようだった」 「なら、味覚に障害があるのかもしれないね。異味症、自発性異常味覚、悪味症――味覚障害にも色々なパターンがあって、それは当人に症状を聞いてみないとわからないけど……。それで、健常者がおいしいと思うものをおいしいと感じられないことがわかっているから、逆を張って、不味いものを飲んでみようという気になっていたとか。医者の立場から思いつくのは、それくらいかな」 「味覚障害か。それは思いつかなかった」 瞬に そう応じながら、しかし 氷河は それでは得心できなかったらしい。 「不味い酒を飲みたがっている客が来たから、望み通りのものを作って出してやったという自信はあるんだ。しかし、あの男は満足したような、しなかったような――」 「それは……ほら、トルストイが言ってるでしょ。『幸福な家庭は どれも似ているが、不幸な家庭は いずれも それぞれに不幸なものである』って。美味しい お酒は似るけど、不味さには 色々な不味さがあるということなんじゃないの? 好みの不味さじゃなかった――とか」 「不味さのバリエーションを考えろというのか」 「でも、もしそうなら、我慢して 美味しいものを飲んでもらうしかないでしょ」 服田女史が、脇から口を挟んでくる。 氷河は 途端に不機嫌そうな顔になった。 “我慢して飲んでもらう”などということは、氷河のバーテンダーとしてのプライドが許さないらしい。 氷河のプライドに、瞬は胸中で苦笑してしまったのである。 バーテンダーとして 客を満足させられなかった(かもしれない)ことが不快らしい氷河の気持ちは わからないではない。 だが、客を満足させたいのなら、酒の味もさることながら、この店のバーテンダーが もう少し愛想をよくすれば、その方が はるかに効果は上がる――客の満足度は飛躍的に上がるのだ。 が、氷河は、あくまでも 提供する酒の味だけで、それを手に入れたいと考えている。 氷河らしいと言えば氷河らしいことである。 提供する酒だけでは足りない部分を愛想や愛嬌で補うことを考え始めたら、それはもう 氷河ではない。 そう思うから、瞬は、自分が考えた“0円スマイル”という客の満足度アップ策を 氷河に伝えたことは一度もなかった。 「味覚障害は とっても つらい病気だから――そうでなければいいんだけど……」 ここが病院だというのなら いざ知らず、ここは美味い酒を求める人間たちが集まってくるバーである。 そんな場所で病人の我儘を許し、同情までする瞬に呆れて、服田女史は大仰に肩をすくめた。 瞬が、軽く首を横に振って、言葉を続ける。 「医者の立場を離れての推察になるけど――」 「なんだ」 「たとえば、その人もバーテンダーさんで、この近所に自分の店を持とうとしている場合、ライバル店のお酒は不味い方が好都合だと考える人もいるかもしれないよ。そういう人の お店は成功しないと思うけど」 「ライバル……?」 医者の立場を離れた瞬の推察に 氷河が眉をひそめたのは、不可解な客に 彼が最初に感じた悪意――異様なほど重く静かな悪意――を思い出したからだった。 |