「僕は、このお城を出ます。どこか、氷河の知らないところに行きます」 総理大臣、財務大臣、外務大臣、軍務大臣、産業大臣に侍従長、その他4名から成る、既に解団していた氷河王子更生使節団のメンバーに 瞬がそう告げたのは、瞬が氷河王子の真意を知った翌日のことでした。 氷河王子(の国と 氷河王子の家臣たち)の未来は前途洋々、すべては順風満帆と思っていた元氷河王子更生使節団のメンバーが、瞬の その言葉に慌てたのは 至極当然のことだったでしょう。 瞬が氷河王子の側にいれば、氷河王子も瞬も国民も 自分たちの生活も安泰と安堵していたところに、瞬からの まさかの撤退宣言。 元氷河王子更生使節団の面々が慌てないはずがありません。 彼等は もちろん、瞬をお城に引き止めようとしたのですが、瞬の決意は変わりませんでした。 「僕に褒めてもらいたいから――なんていう理由で 王子様として務めていたら、氷河は いつか破滅してしまいます。もし 僕が このままずっと氷河の側にいて、氷河が僕のために頑張り続けてくれたとして――僕が病や事故で死んでしまったら、氷河はどうなるの。氷河は 本当に立ち直れなくなるかもしれない。そんなことになる前に、僕は少しでも早く 氷河の側から離れた方がいいんです。今なら、きっとまだ間に合う。僕さえ 側にいなければ、氷河はきっと、氷河自身と国民のために、自分に与えられた王子様としての意味と意義を見い出せるようになる……」 「瞬さん……」 瞬に そう言われて、氷河王子更生使節団のメンバーたちは 返す言葉を見付けることができませんでした。 彼等も 本当はわかっていたのです。 氷河王子の勤勉精勤の動機が根本的に間違っているということは。 けれど、氷河王子は 為政者が為すべきことは何であるかを知っていて、その知識を生かす能力も持っていて、それらの知識や能力を実行に移す行動力や判断力にも恵まれていたので、彼等は 氷河王子の勤勉の動機が間違っていることを、見て見ぬ振りをしていたのです。 自分の仕事や課せられた義務に意義や喜びを感じていない人間なんて、世の中には腐るほどいます。 それは氷河王子に限ったことではありません。 氷河王子更生使節団のメンバーたちだって、自分の仕事に意義を感じ、自分の仕事は必要なものなのだと思ってはいましたが、彼等が身を粉にして一生懸命に働く いちばんの動機は『自分と自分の家族を守るため』でした。 国の民の生活を豊かで幸福なものにしたいとは思っていましたが、彼等が幸福にしたい民の筆頭は自分と自分の家族でした。 それが普通のことだと、彼等は思っていたのです。 自分のことを顧みず 人のことばかり気にかけている瞬や、自分のことを顧みず 瞬のことばかり考えている氷河王子の方が、一般的でなく、極端すぎ、異端なのだと、彼等は思っていたのです。 そして、心のどこかで、『氷河王子が 瞬さんのように国の民のためだけに生きるようになったら、それは氷河王子ではない』とも思っていました。 たった一人の愛する人のために どんな苦労も努力も厭わないのが氷河王子。 それが氷河王子の個性で、そんな氷河王子が嫌いではなかったから、彼等は 氷河王子を 革命やギロチンの可能性から遠ざけるために奮闘したのです。 「しかし、今 瞬さんが氷河王子の前から姿を消してしまったら、王子は自暴自棄になって 何をしでかすかわかりません。いいえ、何もしなくなるでしょう。王子のお母様が亡くなってしまった時のように」 「そんなこと ありません。氷河は、今は 王子様としての務めを果たすことに喜びを感じていないだけで、それがどういうものなのかということは知っているんです。僕がいなくなれば、氷河は 今度は国の民のために王子様としての務めを果たすようになります」 「それは、あまりに危険な賭けだ」 不安そうな顔で そう呟いたのは、氷河王子更生使節団のメンバーたちの中で 誰よりも氷河王子の気性を知っている侍従長。 それがかなりの荒療治で 危険な賭けだということは、瞬も承知していました。 「もし、どうしても どうしても、氷河が王子様としての仕事に喜びを見い出せず、氷河が王子様でいるせいで不幸でいるようだったら、その時には氷河を この お城から追い出して、どこかの洞窟にでも追いやってください。代わりに 皆さんの中から誰かが 氷河の役目を継いでください。氷河が王子様でなくなって、王子様の義務から解放されれば、氷河は自由になれる。僕も氷河を 僕だけのものにできる」 優しく穏やかな春の花の風情をして、瞬は何と過激な提案をするのでしょう。 これまでの瞬の従順で大人しい様子からは想像もできなかった、その激しさ厳しさに、氷河王子更生使節団のメンバーたちは戦慄さえ覚えてしまったのです。 彼等は、ですが、瞬が 氷河王子と この国の民のことを心から愛し大事に思い、その両者に幸福であってほしいと願っているから そういう結論に至ったのだということが わからないほど愚鈍ではありませんでした。 ですから、彼等は――彼等自身も腹をくくって、瞬の提案を受け入れるしかなかったのです。 瞬と離れることで、氷河が 真に王子としての自覚を抱いてくれるようになるかどうか、国の民のために務めることの意義に気付き、喜びを感じてくれるようになるかどうか。 それは本当に危険な賭けでしたけれど、人には 一生に一度は そんな賭けに挑まなければならない時があるもの。 今が その時だと、彼等は思ったのです。 一国の王子でもなく、高い地位や身分を与えられているわけでもない、言ってみれば一介の庶民にすぎない瞬が、そこまでの決意をしているのです。 現在のすべてを捨てる覚悟を決めているのです。 瞬よりずっと年上で高い地位にある自分たちが、氷河王子の手綱取りを瞬一人に任せ、国政の すべての責任は氷河王子が負うべきものと決めつけ、のほほんとしているわけにはいきませんからね。 「でも、瞬さん。それで氷河王子が 王子としての自覚を持つようになり、瞬さんなしでも この国の王子としてやっていけるようになったら、瞬さんは――」 『二度と氷河王子の許に戻らないつもりですか』と言葉にして瞬に尋ねなかったのは、総理大臣の思い遣りでした――いいえ、彼は その仮定文を言葉にすることができなかったのです。 涙を零してはいませんでしたけれど、瞬が泣いていることは、彼にも――彼以外の氷河王子更生使節団のメンバーたちにも――見てとれていましたから。 「氷河が立派な王子様になって、王子様でいることが氷河の喜びになって、そして 氷河が幸せになってくれることが、僕の幸せです」 瞬は そう言って、潤んだ瞳で微笑みました。 |