Loser






瞬の命の火は消えてしまっているようだった。
冬には 春に咲く野の花を思い起こさせ、春には その花を優しく揺らす暖かい微風のようだと、氷河が いつも思っていた その人は、今は冷たい石の上に、呼吸することをやめてしまった細い身体を悲しく横たえていた。
瞬の命の火は、たった今 消えたばかりなのだろう。
血の気が失せ青ざめた頬には 僅かながら温もりが残っていた。
火が消えた蝋燭が、ごく短い間、ほんの少しだけ 灯の名残りを宿しているように。

いったい なぜ瞬は死ななければならなかったのか。
その理由は すぐにわかった。
瞬は、死した仲間を甦らせるために、自らの命を投げ出した。
白鳥座の聖闘士が 愚かで弱い男だったから、瞬は死ぬことになったのだ。
白鳥座の聖闘士の命より、瞬の命の方が はるかに価値あるものだというのに、瞬は その尊い命を仲間のために使い切ってしまった――。

『誰か、瞬を助けてくれ……!』
巨大な棺のような石の宮の中に、氷河は 声にならない声を響かせたのである。
血を吐く思いで、氷河の心は叫んだ。
叫んでから、氷河は そんな自分に腹を立てた。
こんな時にすら、人に頼ろうとするとは。
瞬は 愚かで弱い仲間のために自らの命をかけてくれたのに。
怒りは治まらなかったが、やがて怒りより 強く大きな感情が氷河を支配し、その感情は 氷河に怒りを忘れさせることになった。

その感情――自身の無力を情けなく思い、自分の弱さを責める気持ち。どうしようもない みじめさ。
生きている人間の命を奪う冷たい力を生むことはできるのに、人を生かす力を生むことはできない自分という存在。
これまで 氷河は いつも、そういうものとして、この世界に在った。
白鳥座の聖闘士は、そういう聖闘士だったから。
白鳥座の聖闘士は アンドロメダ座の聖闘士とは違う。
“氷河”は“瞬”とは違う。
二人は、何もかもが違っていたのだ。

いずれにしても、救いを求める氷河の悲痛な叫びに、答えが返ってくるはずはなかった。
誰が答えてくれるというのか。
誰かが答えてくれたとしても、その者に何ができるというのか。

瞬の身体は 少しずつ熱を失いつつある。
いっそ、もう一度 死んでしまいたいと、氷河は思ったのである。
このまま生き永らえたとして、それでどうなるというのか。
どうにもならない。
瞬が死んでしまったのだ。
この世界に 春が巡ってくることは、もう二度とない――白鳥座の聖闘士は 二度と幸福になることはない。

いよいよ冷たくなっていく瞬の身体を、その腕で その胸に抱きかかえ、氷河は瞬の身体を侵食しつつある死が 我が身にも流れ込んでくればいいと思い、そうなれと 強く願った。
その時。
その時、返ってくるはずのない答えが、氷河の上に降ってきたのである。
『助けてやらぬでもない』
という、誰のものとも知れぬ声が、どこからともなく。

誰でもいい。
瞬を生き返らせてくれるのなら。
それが悪魔でも死神でも構わない。
地獄からの使者でも、アテナの敵であっても構わない。
瞬の命を取り戻してくれるなら。
氷河は そう思った。
そう思うこと以外に、彼にできることはなかったから。
そして、誰のものとも知れぬ声に、
「助けてくれ。代わりに俺の命をやる」
と、氷河は答えた。
それ以外の答えを、氷河は持っていなかったから。

黄金聖闘士が守護する宮に響いてくる その声の主は、いったい何者なのか。
切羽詰まった氷河の声とは対照的に 緊張感を欠いた声が、気怠げに、退屈そうに、氷河に応じてきた。
『そなたの命? それでは何も変わらぬではないか。そなたが死ぬはずだった運命を、瞬は己れの命と引き換えに覆したのだぞ。そなたの命が失われ、瞬が生き返ったのでは、何も変わらぬ。定められていた運命が 定められた通りに進むだけだ。瞬のしたことが無意味だったことになる。それでは 瞬が哀れ、瞬が気の毒であろう。それに――それでは詰まらぬではないか』

『詰まらぬ』のが 気に入らないのか。
面白ければいいのか。
こんな時、こんな場面で、そんな ふざけた理由で瞬の蘇生を阻む謎の声に、だが、氷河は、怒りや不快を感じている暇はなかった。
白鳥座の聖闘士の腕の中で、瞬の身体は どんどん冷たくなっていく。
瞬の命を失いたくない氷河の心は 急いていた。

「瞬が生き返らせてくれるなら、俺はアテナを裏切ってもいい……!」
“定められた運命”が詰まらぬのなら、別の運命を。
氷河は、自分に思いつく別の運命の中で 最も意外性に富むと思われる運命を、謎の声の主に提案した。
瞬の命を失ってしまわないために、氷河は必死だったのである。
白鳥座の聖闘士の命では 取引が成立しないというのなら、白鳥座の聖闘士の生きる上での信条、戦うことの理由と目的を。
氷河には、他に、自分の命より価値のあるものを思いつけなかった。
が、氷河の その提案をも、得体の知れぬ声は一蹴した。

『それも決して面白くないわけではないが――では、そなたは、アテナを裏切り、アテナを奉じて戦う仲間たちと敵対し、倒すのか? 瞬も?』
「……」
それはできない。
氷河には、それはできなかった。
できるわけがないではないか。
自らの命をかけて、弱く愚かな男を救ってくれた仲間に拳を向けることなど。
氷河の沈黙を、謎の声が嘲笑う。
『そなたがアテナを裏切るとは そういうことだ。できぬことは言わぬ方がいい』

ならば、この謎の声の主は、何を差し出せというのか。
自分に何を差し出すことができるというのか。
冷たくなっていく瞬の身体を抱きしめている氷河に、謎の声の主は 彼の望みを告げてきた。
おそらく、声の主にとっては 詰まらなくない――面白い――望み。
それは、
『そなたの いちばん大切なものを、余に差し出せ。そなたには そなた自身の命より、アテナへの忠誠より大切なものがあるだろう。それを余に差し出すなら、余は そなたの願いを容れ、瞬の命を助けてやろう』
というものだった。
「俺の いちばん大切なもの?」

それが何なのか、氷河には わからなかった。
命より、戦う目的より、大切なもの。
そんなものを 自分が持っていると、氷河は考えたこともなかった。
だが、『諾』という答え以外の答えを、今の氷河は持っていなかったのである。
自分が何を持っていようと、それが何であっても――それが 瞬の命より価値あるものであるはずがない。
もちろん、氷河は、彼が持っている唯一の答えを 謎の声の主に差し出した。






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