氷河は忘れていた――忘れさせられていたのである。 命をかけた戦いを前にした、あの浅い春の日、他の仲間たちに知られぬように二人で交わした 密やかな約束を。 『聖域での戦いが終わったら、その理由を』 聖域での戦いが終わっても 約束を果たそうとしない白鳥座の聖闘士を、瞬はどう思ったのか。 二人が交わした約束を、約束の時がきても 一向に実行に移さない男を、瞬はどう思っていたのか――。 聖域での戦いのあと、今の今まで、瞬の心が どんなふうだったのかを考えただけで――否、氷河は何も考えられなくなっていた。 考えようとしても 思考が乱れ、体系立てて何事かを考えることができない。 身体の中の血液が 脳ではなく心臓に流れ込んでいるかのように、胸の鼓動だけが、異様に速く、異様に大きくなり、呼吸が追いつかない。 まともに形作れない思考の代わりに 心臓が、瞬の名前を呼び続けているようだった。 もちろん、聖域での戦い終結後、氷河は瞬に冷たい態度を示したことは 一度たりともなかった。 素っ気なくしたことも、不機嫌な顔を見せたこともない。 星矢や紫龍に対しては 怒りも不快の念も 取り繕うことなく剥き出しにしていたが、瞬に対してだけは いつも紳士的に振舞ってきた。 瞬は、氷河にとって、その命をかけて自分を生かしてくれた命の恩人だったから。 命だけでなく、生きる目的と戦う目的を取り戻させてくれた、“白鳥座の聖闘士”の存在そのものの恩人だったから。 そんな瞬は、氷河にとって 特別な仲間――特別に大切な仲間だった。 いつも瞬は特別だった。 特別に親切に、特別に優しくした。 瞬に対して、深い感謝と、強い信頼と、確固たる友情と誠意を捧げ、礼節を尽くしてきた。 すべては、瞬が特別な仲間だから。 特別な仲間として、特別に振舞い続けてきたのだ。 だが。 瞬が もし、そんなことを望んでいなかったとしたら。 感謝や礼節など 毫も期待していなかったとしたら。 むしろ、ありふれた恋人としての氷河を望み、期待していたのだとしたら。 特別製の雛壇の上に 祭り上げ 伏し拝むような仲間の態度を、瞬は いったい どう思っていたのだろう。 瞬に対して、特別な仲間として 他人行儀に礼節を尽くす不実な男を、その様を、瞬は どう感じ、どう考えていたのか――。 氷河の心、氷河の思考、氷河の肉体が恐慌状態に陥ったのは、至極 自然な成り行きだったろう。 瞬が仲間を責めないことは わかっている。 約束が反故にされたなら、瞬は その原因は自分にあると考える人間なのだ。 自分が白鳥座の聖闘士を不快にするようなことをした、氷河を傷付けるようなことをした、自分に 氷河が我慢できないほどの欠点があった。 そんなふうに。 それならまだ、『そうではない』と言って、瞬の誤解を解くことができる。 しかし、もし瞬が、あの約束を ただの戯れか冗談にすぎなかったのだと思うようになってしまっていたとしたら――。 人の心に関することで、戯れ ふざけるような真似をする男だと、瞬に思われることは――それだけは、氷河には我慢ならないことだった。 「瞬を返せ!」 死の国の王に、いつかは死ぬ人間が逆らえるものだろうか――抗えるものだろうか――戦えるものだろうか――勝てるものだろうか。 冥界での戦いを始めてからずっと、氷河の胸中のどこかで くすぶっていた迷いが消えていく。 逆らえるかどうかではない。 抗えるかどうかではない。 戦えるかどうかではない。 勝てるかどうかではない。 逆らい、抗い、戦い、そして、勝たなければならないのだ。 瞬を取り戻すために。 瞬との約束を果たすために。 瞬の身体を傷付けることなく、瞬の心は なおさら傷付けずに、瞬を元の――優しく清らかな瞬に戻さなければならない。 瞬の身体を、瞬の心で動くものにしなければならない。 そのためには どうすればいいのか。 それは さほど難しいことではなかった。 白鳥座の聖闘士が死ねばいいのだ――白鳥座の聖闘士が 冥府の王に殺されてしまえばいい。 そうすれば、仲間を傷付けられた瞬は、仲間を傷付けた神に抗い、逆らい、神より強い人間の力を発現するに違いなかった。 「おまえは 面白ければよかったんだな。俺の命をやる。瞬の身体を瞬に返せ」 氷河の提案を、ハーデスの魂が 瞬の声で一蹴する。 「そなたの命に それほどの価値があると?」 そう言って冷笑する瞬の身体は、まだハーデスの力の支配下にあるようだった。 「俺の命には価値がある。瞬が、その命をかけて救ったほどの命だ。無価値なものであるわけがない」 もちろん無価値であるわけがない。 ただ それは、瞬の優しさや瞬の清らかさに比べれば、あまりにも軽いものでしかないのだ。 「それほど言うのなら、まず そなたの命から奪ってやろう」 ハーデスが、氷河の挑発に乗り、氷河が彼に言わせようとしていた言葉を、瞬の唇を使って吐き出す。 瞬の中で、瞬の魂に触れていながら、ハーデスには瞬の心が読み取れていないらしい。 瞬が 優しすぎて、瞬が清らかすぎて、瞬が強すぎて――ハーデスの驕った魂には、瞬を理解することができないのだ。 ハーデスが氷河に死の宣告をした時、漆黒の瞬の瞳は もう、氷河の好きな瞬のそれに戻っていた。 瞬の抵抗が激しくなっている。 瞬の心を理解できないハーデスは、そのことに気付いてもいない――瞬の静かで激しい抵抗に、ハーデスは、その段になっても 気付いていなかった。 瞬の姿をしたハーデスは、冷やかに笑って、白鳥座の聖闘士の命を奪おうとしたのだろう。 だが、その時には もう、ハーデスは 瞬の身体を使って冷笑一つ浮かべることさえできなくなっていた。 その事実に気付かぬまま、ハーデスが氷河に告げる。 「では、その命、余に捧げよ。そうして、余の国に住まうものとなり、永劫の苦しみを味わうがよい。人間の分際で、余に逆らうという大罪を犯した者への当然の罰だ――」 瞬の姿をしたハーデスが、氷河の命を奪うために その手を宙に浮かせ 前方にのばした――のが、瞬の中でハーデスができた最後の行為だった。 ハーデスが その手に力を込めようとした時、ハーデスは瞬の力に捻じ伏せられた。 ハーデスの魂が、瞬の中から放逐される。 それまで瞬の身体を支配していたものが 外部に追い払われたせいで、瞬の身体は その場に崩れ落ちた。 ハーデスは おそらく、たった今 自分と瞬の上に 何が起こったのかを、全く理解できていなかっただろう。 すべてが終わってしまった今になって、瞬の身体の外で、自分と瞬の上に何が起こったのかを 慌てて考え始めているに違いない。 ハーデスは、瞬の心を一時的に抑えつけることはできても、瞬の心を理解することはできなかったのだ。 冥府の王の驕り高ぶった心では、瞬の優しさの真の意味も、瞬の清らかさの真の意味も、瞬の強さの真の意味も、理解することはできない。 その清らかさゆえに、ハーデスは瞬を 自らの依り代に選んだのだろうに、彼は、なぜ瞬が清らかなものであるのかを理解してはいなかったのだ――。 ハーデスの魂は、真に理解することができぬがゆえに支配しきれない瞬を、自らの魂の器とすることを断念した――断念せざるを得なかったらしい。 ハーデスのものと思われる奇妙な力は、ごく短い間、ジュデッカの上空で たゆたっていたが、やがて どこかに立ち去った。 優しい色の髪と 澄んで温かい瞳。 瞬は、氷河の好きな瞬に戻っていた。 |