「今度、私の所属している劇団で、ロミオとジュリエットをやることになったんです」
一口分だけ残っているエメラルド・スプリッツアーのグラスの縁を指でなぞりながら、ミッチーが言う。
彼女がグラスを弄ぶのは、そうしていれば 誰とも視線を会わせずに済むから――のようだった。
彼女の視線は、グラスの上に落とされている。
「ロミオとジュリエット? 今時、そういう演目やるのって、高校の演劇部ぐらいなんじゃないの? よほど凝った趣向じゃないと、客は呼べないわよ。言っちゃ なんだけど、ロミオとジュリエットなんて、手垢のつきすぎた作品だもの」
服田女史に そう言われたミッチーは、言った当人ではなく、グラスに向かって頷いた。
「趣向は凝ってるんです。犬のロミオと猫のジュリエットの悲恋ストーリーだから。ロミオの最大の恋敵はパリスじゃなく、ジュリエットの母親が いつも手にしているネコじゃらしだし」
「あら、ちょっと斬新。それは 確かに 許されない恋。宿敵同士の恋だわね」
服田女史は、その舞台に少々興味を引かれたらしく、ミッチーに演出家の名を尋ねた。
瞬は聞いたことがなかったが、それは一部では有名な演出家であるらしい。

「私、劇団では古参で、演技力だって ある方なんです。年齢的には若手の部類だけど、劇団には 3歳の時から在籍していて、経験だって、他の劇団員に負けてない。容姿だって、そんなに みっともないとは思わない。でも、一度もヒロインを演じたことがないんです。先生は――劇団主宰で演出家の先生は、私には 華がないって言う。今回も結局、キャピュレット夫人――ジュリエットの母親役を演じることになって――」
「ネコじゃらしの? おいしい役じゃない」
服田女史は本心から そう言ったようだったが、役者であるミッチーは 主役以上に おいしい役などないという考えでいるようで、服田女史の軽いコメントに 暗く瞼を伏せてしまった。
服田女史が、さすがに気まずい顔になって、急いで その場を取り繕う。

「演技力の有無は、私には判断がつかないけど、普通に美人で、スタイルもいいし、声も悪くはないわよね。華がない――かあ……」
ミッチーは、自己申告通りに 平均以上といっていい容姿の持ち主だったが、確かに ぱっと人目を引くタイプの美人ではなかった。
『よく見てみると美人』なのだが、そもそも 人に『よく見てみよう』という意欲を抱かれないタイプ――といえばいいのだろうか。
彼女は、“姿の良し悪し”と“華の有無”には相関関係がないことを証明するのに最適な人材だった。

見たところ、ミッチーの年齢は22、3歳。
13歳のジュリエットを演じるには 歳がいきすぎている――という難点はあるが、テレビやスクリーンではなく舞台なら、年齢は彼女が主役の座を務めることの障害にはならないだろう。
決して陽性ではなく 口数も少ないが、相当に勝気そうな目。
どう考えても、引っ込み思案でも、控えめでもない。
自分には演技力があると断言するところからして、自分を過小評価するタイプの人間でもなく、それなりに自信家でもあるのだろう。
だが、確かに、彼女には 華というものがなかった。

「華って、どうやって育てるものなの。どうすれば 身につくものなの。私は どうすればいいの。どうして 私には華がないの……!」
「どうして――って 言われても……」
答えに窮した服田女史が、救いを求めるように その視線を氷河の上に移す。
服田女史も、ここで 氷河が懇切丁寧な答えを返してくれると期待していたわけではなかっただろう。
ある意味、その期待通りに、氷河は 華にも主役志望の女優にも興味がない――積極的に興味がない――という顔をしていた。
そこにいるだけで、嫌でも人の目を引く この店のバーテンダーが、それでもミッチーと服田女史に 背を向けずにいたのは、ミッチーの事情説明が いずれは瞬の許に行き着くはずだと思えばこそ。
氷河は、辛抱強く、その時の到来を待っているようだった。

「大勢の人の中に入ると、私は埋没してしまう――って、先生は言った。演技のレベルが低いわけじゃない。でも、ヒロインには向かないって。私、どうすれば自分が華のある人間になれるのかを、一生懸命 考えたのよ。考えて――私は役者なんだから、華のある人を演じればいい、華のある人の真似をすればいいんだって思った。それで、私が最初に思い浮かべた 華のある人っていうのが――」
「瞬だったのか」
“その時”の到来。
氷河は、ミッチーの話を 一応 ちゃんと聞いてはいたらしい。
彼女の話の終着点を、かなり不快に思っているようではあったが。
今夜 初めて聞いた氷河の声が 不機嫌一色、不機嫌一音でできていることを、しかし、服田女史も 致し方のないことと思ったようだった。
ようやく話の全容は見えてきたが――問題の姿が見えることと 問題が解決することがイコールで結ばれることは滅多にないのだ。

「瞬せんせは、演劇なんて 詳しくないと思うけど……」
「でも、華はある。人の目を引いて、目を離させない。今 売れてる女優なんかより、ずっと――瞬先生は 華そのものよ!」
「人を見る目と、正しい判断力と、事実を事実として認める素直さはあるのね、あなた」
「瞬先生がいると、どうしても目が瞬先生の上に行って、ずっと見詰めていたくなる。私は、瞬先生の華がほしい。瞬先生の華がほしいの!」
「瞬先生の華が欲しいの! って言われても、そんなもの、切り売りできるものじゃないし」
「だから、瞬先生を観察して、華を持つコツを会得しようとしてるんです。でないと、私は いつまで経っても花が咲かない。永遠に脇役でいるしかない。キャピュレット夫人やゴネリルの役しか もらえない」

ミッチーは、永遠に脇役でいる自分というものに、耐えられないらしい。
何としても、ジュリエットやコーデリアを演じたいらしい。
容姿は並以上、勝気で自信家、演出家に認められるだけの実力もあり、努力もするし、意欲もある。
にもかかわらず、華がない。
ミッチーのジレンマは、瞬にも わかるような気がするのである。
せめて容姿が凡百のものだったなら、せめて気弱で控えめな性格だったなら、せめて怠け者だったなら、せめて上昇志向のない人間だったなら、自分に華がないことを受け入れられる――のかもしれない。
しかし、彼女には一般的に“華がある”と言われる人間が備えているだろう要素が すべて揃っているのだ。
合点のいかない彼女の気持ちには、瞬も合点がいく。
しかし――。

「それで、瞬のストーカーをしているのか」
それは困るのだ。
瞬は、氷河が ついに口にした その言葉に頷くわけにもいかず――頷いてしまったら、彼女を犯罪者にしてしまう――代わりに 僅かに瞼を伏せた。
「ストーカー行為なんて大袈裟なことをされているわけじゃないんだけど、病院にもいらっしゃるの。それはちょっと……」
「職場にまで押しかけていくなんて、それって 立派にストーカー行為よ。早目に警察に相談した方がいい案件。瞬せんせみたいに可憐な美少女に泣きつかれたら、警察は すぐ動いてくれるわよ。いろいろと特殊なケースだし、マスコミも喜んで食いついて、気の毒な美少女医師の写真がネットや週刊誌で取沙汰されて、瞬せんせは 一躍 有名人」
「……」
相変わらず 服田氏の発言は冗談なのか本気なのかの判別が難しい。
瞬は、深く長い嘆息を一つ、彼女に返すことになった。

瞬は、自分のせいで人を犯罪者にするようなことはしたくなかったし、それ以前に(服田女史は知らないことではあるが)地上の平和と安寧を守るために存在するアテナの聖闘士が 警察に泣きつくことなどできるわけがない。
そもそも“美少女医師”とは、どういう発想で出てくる単語なのか。
有名人になりたいのは主役志願の役者の方で、医師ではない。
突っ込みどころが多すぎて 何も言えずにいる瞬の隣りの席で、主役志願者が(おそらく 瞬とは別の理由で)絶句状態。
彼女は、自分のしていることが警察沙汰になるようなことだとは 考えてもいなかったのだろう。
自分は 自分の夢を叶えるために努力しているだけ、自分は研究熱心な役者にすぎない。
ミッチーは、その程度の認識でいたに違いなかった。
もっとも、ストーカーというものは、誰もが その程度の軽い気持ちでいて、自分が犯罪行為を行なっているなどということは 考えてもいないものなのかもしれなかったが。






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