ともあれ、服田女史が“警察”なる組織名を口にしたのは、犯罪者を一人 作るためではなかったらしい。 彼女は、警察の手を煩わせずに 事態を解決する代替案を提示してきた。 「ミッチーは、要するに、華のある人を観察研究できればいいんでしょ? 華なら、氷河にもあるわよ。瞬せんせは諦めて、ターゲットを氷河に変えるのはどう? で、ミッチーは 客として毎晩 この店に通って、氷河を観察しがてら 美味しい お酒を飲んで、氷河の店に金を落とす。それで、瞬せんせはストーカーから解放され、ミッチーは お花の観察日記が書けて、氷河は儲かる。三方一両得、見事な大岡裁き」 「それは いいアイデアですね。氷河も それなら嬉しいでしょうし」 犯罪者を作らずに済むのなら、それが最善。 服田女史のアイデアは 瞬には幸いなものだったが、氷河には そうではなかったらしい。 氷河は、三方一両得案を提示してきた服田女史ではなく、瞬の方に 不機嫌な一瞥を投げてきた。 「おまえは俺にストーカーを押しつける気か」 「氷河はカウンターの中にいる限り、安全でしょう。バーっていうのは、西部開拓時代のアメリカで、荒くれ者たちが 勝手に店のお酒を飲んだり お店の人に乱暴をするのを防ぐために、客とバーテンダーの間に横木を渡したのが始まりだって聞いてるよ」 「そんな無礼な客は、カウンターに頼らなくても、一瞬で あの世に送ってやる」 氷河は決してミッチーに脅しをかけたわけではなかっただろう。 氷河は、無礼な客の相手をしてやるような親切心は持ち合わせていない男なのだ。 だが、眉一つ動かさずに 抑揚のない声で そんなことを言ってのける この店のバーテンダーに、ミッチーは震えあがり、それでなくても俯きがちだった顔と瞼を 更に深く伏せてしまった。 服田女史が、“これにて一件落着”の大団円を目指して、場を和ませようとする。 「カウンターは氷河の舞台よね。ただ一人、その舞台に立つことが許されている氷河は、その舞台の主役。それでなくても派手な氷河が最も輝く場所。きっと勉強になるわよ」 服田女史は、殊更おどけた口調で、“華”の教材としての氷河の有能を言い募ったのだが、それでも ミッチーの中に植えつけられた恐怖心が 取り除かれることにはならなかった。 瞬も、服田女史の その言には 素直に賛同できないものがあったので、僅かに首を傾ける。 服田女史は、目ざとく 瞬のその所作を認め、瞬とは逆方向に首をかしげた。 「瞬せんせ、異論がありそう」 「異論というわけでは……。ただ僕は、氷河が最も輝く舞台は――」 「カウンターじゃないって思うの? じゃあ、どこ?」 「え……」 ここで まさか正直に『戦場』と答えるわけにはいかない。 「あ、いえ……」 口ごもった瞬を窮地から救い出してくれたのは、この店の舞台で主役を務める男だった。 もっとも、氷河が出してくれた救援ボートは、瞬には少々 乗り込みにくいものだったが。 「ベッドだ」 氷河の もう一つの舞台の名を聞いた服田女史は、途端に苦虫を噛み潰したような顔になり、無言で自分の提案を取り下げた。 そして、わざとらしく、 「華ねえ……」 とぼやき、それが話題転換のための溜め息でないなら いったい何なのかと問いたくなるような大きな溜め息を、一つ作る。 「瞬せんせは、確かに綺麗よね。肌も顔の造作もプロポーションも、成人した男性のそれとしては ちょっと異端だけど、そんな分類なんか どうでもいいっていう気になるくらい綺麗。だけど、瞬せんせだって人間であることに変わりはない。目が二つ、鼻が一つ、唇が一つ。他の人間と、何が違うわけでもない。なのに、確かに輝いている。凡百の人間とは違う。誰もが そう感じる。それって どうしてなのかしら」 「……」 服田女史には、これまで散々、冗談なのか本気なのか わからない冗談(もしくは本気)に当惑させられてきた。 冗談なのか本気なのか わからない服田女史のその発言へのリアクションに、瞬は またしても大いに悩むことになったのである。 正義の味方は正体を隠すのが 鉄則。 地上の平和と安寧を守るために戦う正義の味方として、なるべく目立たずにいることを心掛けている瞬には、服田女史の評価は 極めて不本意なものだったのだ。 幸い、瞬の その心掛けだけは、服田女史も認めてくれているようだったが。 「瞬せんせは、どっちかっていうと、大人しくて、控えめで、目立とう精神はないし、自分に自信がないわけではないんでしょうけど、全く そんな素振りは見せないし、自分に華があるとかないとか、多分 考えたこともないと思うんだけど――」 「医者には そんなものは必要がないので……」 正体を隠して 平和のために日夜戦う正義の味方には、なおさら。 「そうよね。華なんて、むしろ邪魔よね」 そう言って頷きながら瞬を見詰める服田女史の瞳は、羨望のそれとも 同情のそれともつかぬ 不可思議な色で染まっている。 医者には不必要で 邪魔ですらあるものだけでできているような瞬に、どういう目を向けるべきなのか、服田女史は本気で迷っているようだった。 「どうして、華がほしいと思っている人間に華がなくて、そんなものは不必要と考えている人に 華があるの。そんなの おかしいでしょ! 理不尽よ!」 迷い 同情心すら抱いているような服田女史とは対照的に、ミッチーの目にあるものは 明確な憤りである。 そんなミッチーの様子に 両の肩を軽く すくめて、服田女史は 言葉と視線を氷河の上に移動させた。 「氷河、何か言うことはある?」 「馬鹿の相手をするのは ご免被る。凡百の人間たちの中に 瞬がいたら、目立つのは当然。いや、どこにいても、誰といても、瞬は特別な人間だ。瞬が輝いているのは、瞬が瞬だからだ。馬鹿が馬鹿なのは仕方がないが、瞬にかかわるな」 抑揚が全くなく、いかなる感情も感じさせない氷河の声は、だからこそ 一層 冷たく響く。 しかし、氷河が これほど多くの言葉を“馬鹿”のために費やすのは、破格の親切。 ――と、言えないこともない。 服田女史は そう考えて 氷河の多弁に感心しているようだったが、氷河の口から『馬鹿』という言葉が出るたびに、自分の夢のために努力邁進している人の心を傷付けているのではないかと、瞬は はらはらしていた。 「それは、瞬せんせが自然体でいるっていうこと? でも、自然体でいても 華がない人って、いくらでもいるでしょう。っていうか、大部分の人間がそうなんじゃない? やっぱ、瞬せんせは特殊なんだと思うわ。気負っているわけじゃないと思うけど、私、瞬せんせと氷河には いつも、ちょっと普通じゃない緊張感みたいなものを感じるもの」 騒がしく 賑やかで、お節介で 世話焼き。 それでも氷河が 服田女史を 彼の店から追い出さないのは、氷河が 好まない それらの要素を補って余りある賢明を 服田女史が備えているからである。 彼女は その上、五感の鋭敏をも有しているようだった。 賢明で鋭敏な服田女史が スコーピオンを頼んだのは、トロピカル・カクテルが飲みたかったというより、この店の それがグラスに花を飾るものだからだったろう。 氷河は、グラスエッジに真紅のミニバラの蕾を添えて、服田女史の前に置いた。 「そうねえ。華があるとか ないとか よく言うけど、華って 謎の物質よね。瞬せんせや氷河レベルなら、誰だって 華があることに同意するでしょうけど……。私、人様が言う『あの人には華がある』っていう意見に毎回必ず 同意できるわけじゃないのよね。人様が華だっていうものが、単なる能天気の産物にしか思えなかったりする。そういうのは、見る側のセンスの問題なのかしら」 「僕は、服田さんにも花形さんにも華があると思いますけど……」 瞬が そう言ったのは、“ミッチーにも華がある”ことにして、この騒動の終息を図ろうとしたわけではなかった。 瞬には むしろ、華のない人間というものが どんなものなのかが わからなかったのである。 生きている人間は――懸命に生きている人間は、それだけで輝いている。 そう感じるのが、瞬の“センス”だった。 服田女史が、瞬の その感性を あっさり否定してくる。 |